廊下の終わりで、ひよ里ちゃんの呼ぶ声がする。
 ぼやけたままの視界で顔を上げると、膝に乗っていた注射器がころりと床に転がっていった。
 それを手探りで拾い上げる。涅さんを振り返って、どちらにしろこれは返すしかないから、と小さな円柱状のそれを再び涅さんに差し出す。

「でも、これはお返しします。見つかったらきっとタダじゃ済みません。別に私が卑怯者と呼ばれても構いませんが、皆さんにまで――」

 伸ばした血色の悪い腕。手のひらに乗った、私を殺す薬。
 涅さんは口を閉ざしたまま手を伸ばし、
 何を思ったか、私の指を内側に折り畳んで再び注射器を握らせた。

「――え?」

 雨にかじかむ私の手に、なお冷たい指が触れる。私は驚いて咄嗟に腕を引いた。
 ぽたり、と身を退いた拍子に前髪から雫が滴る。その音が耳に届くより千倍速く、涅さんは渡り廊下を戻って建物の中に戻っていた。
 …いや、実際は私がぼけっとしていただけで、急に涅さんの移動速度が非現実味を帯びた訳ではないのだろうけど、体感的には本当に千倍だったのだ。
 まったく想定していなかったタイミング、そしてまったく想定していなかった相手からの想定していなかった行動に、あくまで日常動作の範疇を出ない接触にも関わらず異常な動揺を引き起こされている。

「乙子ー! 何してんねん!」

 タオルを装備したひよ里ちゃんが建物の中から呼ぶ。
 私は呆然とそれに答えながら、そうするべきではないと解っていたのに、一度差し出した注射器を再び懐に戻していた。
 …持っていろ、ってことだよな。

しずかにわらってキスでごまかす


 あの後ひよ里ちゃんには散々叱られて、何故か午後の仕事までほとんど奪われてしまい、体が乾いたら引っ込もうと思っていた執務室にも鍵が掛けられてしまった。
 別に私も同じ鍵を持っているので開けようと思えばできるのだけど、そこまでして「今日は大人しくしていろ」とアピールを隊士全員にされてしまっては働いている方が罪悪感が湧く。
 かと言って隊舎を徘徊しているとそれはそれで心配をかけてしまうので、無人の隊首室前で髪を乾かしながらぼーっとしていたのだけど。

「乙子サン、お帰んなさい」
「……何ですか、今度は隊長ですか…」

 疲れきった私の眼差しを受けて、浦原隊長は髪を掻きながら苦笑した。
 どうせずぶ濡れで帰って来た奇特な部下の様子を見に来たのだろう。まったく、こういう時ばかり上官っぽいことをするんだから。
 私が勧めるまでもなく、浦原隊長は私と人ひとりぶん開けた隣に腰を下ろす。

「"今度は"ってことは、誰かに嫌なコト言われたんスか?」
「…語り口が下手ですね。涅さんが知っていること、貴方が知らない訳ないってことくらいは、私にもわかりますよ」
「そりゃあ、失礼しました」

 彼のことだから、私の様子で午前の用事の内容まで察してしまっているんじゃないだろうか。
 知られたくなかった気持ちと、知られたところで私は何も変わらないしできることもないという諦めの気持ちが首をもたげて、ますます憂鬱になっていく。
 自分のことはできるだけ話さず、あくまで普通の部下でいるつもりだったけれど、どうやらすべてお見通しだったらしい。
 探究と解明の擬人化みたいなお人だから、そりゃあ秘密にしていることがあれば明かしてしまうか。

「数十年前…乙子サンがまだ真央霊術院で生徒をしていた頃。斬魄刀の暴走を引き起こした貴方は、その場に居合わせた他の生徒数名を巻き込んで比較的大規模な記憶の改竄を起こしてしまった」
「…」
「一応は当事者全員が四十六室の裁判に召喚され詰問を受けたけれど、被害者は一様に廃人状態、乙子サン自身も事件のことを漠然としか記憶できておらず、詳しいことは解らないまま閉廷した、と」
「…」

 探偵みたい、という言葉は飲み込んだ。口を開くと、浮かべた笑みが剥がれてしまいそうだった。
 私がどうしても知られたくなかった、誰にも触れてほしくなかった記録が、瘡蓋ごとべりべりと剥がされていく。これ以上私から平静を奪わないでほしかった。

「ここからは推測と想像を重ねた憶測ですが――事件を引き起こし、同級生を少なくない人数再起不能にしてしまった…恐らく当時誰よりも罪の意識に苛まれ、震えていた貴方を利用しようと近付いたあくどい人達が居たんじゃないスか? "そんな危険な能力を持つ斬魄刀は持ち主諸共滅ぼさなければならない"とか"犯した罪は償わなければならない"とか、響きばかりが綺麗なことを言って、貴方の首に枷をつけた人達が」

 …罪は、確かに罪としてそこに在った。
 あの時――雨が降りしきる中で立ち尽くしていた水月乙子の罪は、自責の念と恐怖に駆られたあの瞬間に自死を選ばなかったことだろう。
 死んでおけば、その後いいように利用されることも、罪を重ねることも、他人を不幸にすることも無かっただろうに。
 死ぬことは償いにならないと言う人がいるが、生を継続することで更なる災厄を重ねる者にも同じことが言えるのだろうか。

「……あの時の私は、単純に死にたくなかっただけなんだと思います。もう思い出せないし、記録にも遺していないけれど、多分そうです。だって、今の私もきっと同じことを思うでしょうから」
「…」
「怖かったんです。…私のせいで、思い出も、自分のことすらも忘れてただ宙を見るだけの同級生達も、私のせいだって私を囲んで睨み付ける大人達も、空海月のことも、死ぬことも。怖くて怖くて、怖くて堪らなかったから…私は、それが間違っていると解っていたけれど、……形だけでも私を罰してくれると言う人達に、従うことにしたんです」

 私の情けない言い訳みたいな独白に、浦原隊長ははじめて少しだけ失望の色を表情に混ぜた。
 それは一瞬のことで、瞬きをした時にはもう、元の笑みと真顔が綯い交ぜになった顔に戻っていた。

「貴方の罪は、それでしょう」
「……」
「ボクは、ボクの憶測がまったくその通りだったとしても、当時の事件に関して貴方の落ち度は無いと思っていました。と言うか、今も思ってます。
 記録には書かれていませんから詳しい経緯までは判りませんけど、斬魄刀の暴走自体はさして珍しいことじゃ無い。院生なら尚更、浅打を持たされたばかりの頃はまだ斬魄刀との向き合い方も方法も不出来っスから。貴方のはただ、その能力が不味かっただけ。貴方が意図して、他人を傷付けるつもりで記憶を奪ったのなら話は別ですけど、貴方はそんなことをする人じゃ無い。元々罪人の居ない裁判だったんスよ。
 それなのに、その空席に貴方を据えたい人達が居て、貴方はそれに従って罪人の皮を被ってしまったから、事件が罪という形を持って貴方を苦しめる。過去に縛り付ける。
 乙子サンの罪は不注意で同級生を白痴にしてしまったことじゃ無く、押し付けられた在りもしない罪を受け入れて、貴方が従う必要のない悪事に盲目に頷いている事だ」

 そう、私は公式に裁かれることは無かった。それどころか何の罰則も叱責も無く、ただ私が奪ってしまった彼らだけが元からそこに居なかったように消えてしまって、私は元通りの日常を歩むだけ。
 それが酷く怖かったから、本心では嫌だと思いながらも罪人として扱われることを良しとしていた。私が罪人として罪を自覚して振舞う限り、あの人達は私を告発することも殺すこともしないと、そう言ったから。
 私はただ、私の肩を掴んで醜く笑う、私より大きい大人達が恐ろしかっただけなのだ。
 私の人生はほとんど空虚な恐怖に支配されていた。

「――ようやく解りましたよ、貴方という人が、一体どういう人なのか。
 貴方は優しいけれど、同じくらい酷い人だ。罪の意識を自分のなかに埋めて、それを抱えて一生生きていくことこそが唯一貴方の罪を薄くする方法だったのに、自分から辛い方を選んでしまったんスね。その罪の成れの果てが、水月乙子という死神。で、死神で在り続けることが貴方の贖罪であり、唯一生きていく方法。死神を辞めることは貴方のあちこちを掴んで離さない人達に抵抗することだから、死神で居続ける以外に生きていく方法は無い、と」
「…」
「本当、ひどい間違いだ。間違ってますよ乙子サン。自分の手を見て下さい、脚を、体を、顔を。無知で無力だった少女をありもしない罪状で嬲る人達を、貴方はもう跳ね除けられる、強い死神になっているじゃないですか」

 強い瞳でそう語り掛ける浦原隊長、の背後で、恐怖に泣いてばかりだった私がこちらを睨んでいる。濡れた両目で、私を非難している。
 逃げ出すの、と。間違っていようが、正しくなかろうが、それがお前の選んだ償いで、覚悟ではないの、と。
 …私にはもう、わからない。
 浦原隊長の言う通りにあの貴族達に抗ったところで何が変わるのかも、このまま息を殺し続けたところで何も変わらないことも。

 忘却は悪ではない、と、思う。
 だって悪は、忘却に甘んじて怠惰に生き続ける、私自身なのだから。

「………わかりません。私はあの時から止まったままです。少しも成長なんてしていません。強くなんて、……ないんです」
「そんなことはあり得ません。だって貴方は強い。穏やかで、でも悪いことは悪いと、きちんと立ち向かえる人だ。ボクがこの半年と少しで理解した貴方は、水月乙子は、そういう死神っス」

 浦原隊長の、いっそ非人間的な眸が痛い。
 どうしてただの部下に過ぎない私にそんなことを言うのかもわからない。
 私という厄介者を突いたところで、それを察した貴族達に何をされるかわかったものじゃないのに、それでもリスクを冒してまで私を変えようとするその姿勢が何よりも理解できない。
 わからないことは怖いことだから、私はちょっと怯えながら、思ったことをそのまま口にした。
 浦原隊長はきょとん、と目を丸くした。

「だって、ボクは乙子サンの隊長っスから。乙子サンには間違ったまま、辛いままで居てほしくないから」

 その眼差しが痛くて、この人はもしかして罪を重ねる私を止める為に現れた何かなんじゃないかと錯覚してしまいそうだった。
 そうでもなければ、私はこの人のことも恐怖のままに心のうちで拒絶してしまいそうだった。
 救いのような何かを私に見せつけるこの人のことが、私にはわからない。
 だって私は、何から助けてほしいのかすらもわかっていないくせに、一丁前に苦しみに喘いでいるんだから。これ以上情けなくて卑怯なことはない。

「……希望なんか持っていないんです。悲しみだってとうに忘れました。私はただ、怖いだけなんです。私にとっては、恐怖こそが生きている証だから」
「…」
「まだ、私が貴方に似ていると、思いますか」

 絞り出すような問いに、浦原隊長はこの上ないくらい静かな笑みを浮かべて肯いた。
 はい、と乾いた声。

「ボクは乙子サンが言うほど善い男じゃないっスから」

 ――あれほど激しかった雨音はどこか遠く。
 停滞と前進という対極に位置する私達はこの瞬間のみ、同種の感情を以て互いを憐れんでいた。
 逃げてばかりで、本当、いやになる。


- ナノ -