とどかないならとどくまで言うよ
気味が悪い、と端的に私を表した涅さんの顔は、よく見えなかった。
ただ目の周りを黒く塗っているから、無機質で底の無い瞳だけはまるで夜空に浮かぶ月のようにはっきりと認識できていた。
どこか呆然とその響きを追いかけながら、慣れた仕草で笑みを浮かべて「ひどいですねぇ」と応えた。
「こんなびしょ濡れの部下をつかまえて"気味が悪い"なんて、あんまりですよ」
「仕事途中の部下をつかまえて"見張ってろ"などと言い去って行く上司よりは幾分かマシだと思わないかネ」
「ええと、ごめんなさい、あんまり」
仕事途中の部下をつかまえた上司はひよ里ちゃんのことだろう。
大方私が考え事をしている間に、私の監視がひよ里ちゃんから通りがかりの涅さんへ半強制的に交代させられたといったところか。
お守りが必要だと判断されたことにも思うところがない訳ではなかったけれど、水浸しのまま隊舎に踏み入ったことは素直に反省しているので、大人しく様子がおかしい扱いをされていようと思う。
そんな納得とは裏腹に、涅さんの責めるような眼差しから逃れたくて膝を抱く腕に力がこもった。
責められてしまうと、私の口は勝手に謝罪をするように仕組まれてしまっている。
謝りたくなくても、罪を認めたくなくても、謝って、償って、許しを希う。その果てに許しがあるかどうかはさして問題ではなくて、多分私にとっては償うという行為自体に意味があるのだと思う。
「…」
「……」
沈黙を雨音が塗り潰す。
そのことに私は根拠の無い恐怖を再発させて、思わず水を吸って重くなった死覇装の懐に手を突っ込むと、雑に物探しを行った。
掴んだそれを涅さんに差し出すと、涅さんはその瞬間はじめて意外そうに、そして心底嫌そうに目をぎょっと瞠ったのだった。
「あの、これ、お返ししてもいいですか?」
「……、…まさかとは思うが、肌身離さず持っていたとでも言うのか? 君が? …いや、答えは言うな。肯定的な反応を想像するだけで内臓が捩じ切れそうだ」
「申し訳ないですが持ってました、一応、ずっと。必要になることがあるかな、と思ったので…」
自分で渡しておきながらなんて反応をするんだ、とちょっと笑ってしまった。
私が差し出したのは、いつかに涅さんから預けられた記憶補強剤、その試作品の入った注射器だ。
その存在を明かされた当時はすごくこの薬が恐ろしかったし、今も恐ろしいのだけど、恐怖の根源はまったく別のものに成り果てている。
あの屋敷に足を踏み入れてからずっと、私は彼らのことではなく、私のとおい昔の記憶に意識を奪われている。
それ以降口を閉ざした私を見下ろして、涅さんはどこか白状するように小さく語り出した。
「実験体になれとは言ったが、君がそれを使う必要は無い。いや、どうしても使うと言うのなら記録の準備があるので三分は待機を命じるところだがネ、とにかく君に記憶補強剤を使用する実験体としての期待はしていないヨ」
「…そうなんですか? じゃあ、中身のこの…薄緑色の液体はただの色のついた水か何かですか?」
「間違いなく私の開発した記憶補強剤、その試作品の一部だが?」
「……ええと…」
言っている意味がよくわからなくて、無意識のうちに差し出していた注射器を腕ごと下げてしまう。
涅さんのことを、無駄や意味の無い行為を何よりも嫌う、浦原隊長とはまた違った角度の極まった効率主義だと思っていたからだ。ついでに、嘘や冗談も言わない人だとも。
更に、ついさっき私に対して「気味が悪い」といつも通り不愉快の気持ちを表したにも関わらず、涅さんの表情はどこか憎悪や嫌悪といった感情とはかけ離れた静謐なものだったので、余計に混乱してしまった。
そんな私の反応はお構いなしに涅さんは続ける。
「君が想像可能な理由は私には無い。が、その試薬を君に渡した理由が全く無いと言えば嘘になるだろう。私は、君のその不愉快な面を止めるべくその薬を創ったのだから」
…違う。ただ、表層に現れている嫌悪が静かなだけで、涅さんの私に対する嫌悪は何一つ変わってなどいないんだ。
その事実を理解すると、未知が一つ消えて脳が少しだけ軽くなる。私はこの人が嫌いではなかったので、それが私に対する嫌悪だろうと涅さんのことを知るのはうれしかった。
どうしてそう思うのかは、わからないけれど。
「…すいません、生まれてずっとこの顔なもので」
「そうではない。本当は自分でも気付いているのだろう? 望む望まないに関わらず水月乙子という己と一番長く、深く向き合ってきたのは他ならぬ君自身だ。無知の振りをしたところで、君が水月乙子である事実は変わらないし、変えられない。私は」
一度言葉を切る。
その間を縫うように、暗い空がチカッと一瞬光って、白い閃光を追いかけるように轟音が鳴った。近いところに雷が落ちたようだった。
「――君の、その加害者と被害者の間でふらつく曖昧で怠惰な表情が、何よりも不愉快だヨ」
…その一言は、恐怖にかじかんでいた私の脳を再び痺れさせるには充分すぎる、決定的な一言だった。一番鋭利な飛び道具か何かで、自分の一番やわい部分を抉られたようなものだった。
恐怖が背筋を滑り落ちていって、私は知らぬ間に身震いをして自分の体を抱きしめていた。
もしも私がもっと激情家だったり、心と脳が直結した女であれば、頭を抱えながらヒステリックに叫んで、まだ私と出会って一年も経っていない涅さんを非難していたかもしれない。
…浦原隊長のいつかの助言を思い出す。
素直に言い返した方がいいって、こういう場面のことを言っているのかな。私が取り乱して言い返したところで、涅さんにはほんの少しも響かなさそうだけれど。
どちらにせよ、私には加害者と断ぜられて抵抗することも被害者と憐れまれて憤慨することも、もうずっとできずにいる。今更涅さんに冷たい言葉をぶつけられたところでそれが変わったりはしなかった。
「……涅さんは、私の何を知っているんですか?」
微笑しながら首を傾げる。言葉の節々が恐怖によって硬くなっていたせいか、涅さんはちらりと私を一瞥した。…相も変わらず笑っていることを確かめてから、再び落胆したように視線は逸らされる。
「おおよそ、過去の水月乙子の身に起こったことのほとんどを。あくまで推測の域を出ない部分もあるがネ」
「………それは、どうやって?」
「調べればすぐにわかることだ。過去を人質にとって君に首輪をかける奴らはアレで改竄しているつもりだろうが、あんなものは子供の遊びだヨ」
「……そっかぁ………」
何度も何度も私の肩だったり腰だったり、あるいは頭を乱暴に掴んだりもした手つき達が過ぎって、声が情けなく震えた。
私にとっては何よりも重く痛く苦しい枷が、涅さんにとっては取るに足らない子供の遊び。確かにな、そうかもな、と思うと笑ってしまいそうになる。泣きそうなんだかおかしいんだか、思考と感情が水平を保てなくなっているらしい。
「それで、…知っているから、あの薬を? それとも、知っていたからですか?」
「好きにとり給え」
「……なるほど…」
私の頭で何を言ったところで、どう考え答えても涅さんに侮蔑される予感しかない。
ないのだけれど、今以上に涅さんに嫌われることなんて多分不可能だと同時に強く思うので、ほんの少しだけ自暴自棄に唇を噛んだ。
「なら、わかるでしょう」
雷は遠い。それとは対照的に、雨足は着々とこちらに近付いてきているようだ。
細かく、激しく、絶えることなく、愚直に私の心を叩き続ける。もはやどこにあるのかもわからない私の心を。
「自分の一存で記憶を守ることを、私は許されていません。だから、この薬を使うことはできないし、持っていることもできません。ごめんなさい」
私は思い出を持てないのです、と付け足して、いよいよ私は顔を覆った。
相変わらず涙はこれっぽっちも出ていない。こうしていれば少しくらい涙が出ると思ったのだ。
あるいは、顔を覆う両手の指を目に突き立てれば不格好でも何か液体くらいは出て来ないものか、と思ったりもした。この際色は問わないから、私の感情が目に見える形で現れてほしかった。
目に見えず触れないままでは、いつまでも私の心は報われない。だからせめて形がほしかった。
形さえあれば、私がそれを忘れてしまっても、いつか誰かが掬い上げてくれると思えるから。
「体のいい被虐的な加害者思考だな。不幸でいるから生きているのを許してほしい。幸せになどならないから許してほしい。そんな思考で死んだように生きていれば心が枯死もする。
君の姿勢は贖罪ではない。自分の罪に凭れかかって自分の足で立つことを忘れてしまっている。底の無い海にただ沈んで息を殺しているだけの年月はさぞ居心地がいいだろう。それは恐らく、何よりも永遠に近い時間だ。だがそこには進化も退化も無い。本当に停まって、漂っているだけだ。水母は泳げないなどと笑わせるなヨ、君は水母などではないはずだ。動けない振りも忘れたい振りも止め給え。君がそうして中身の無い顔で微笑んでいる様には虫唾が走る。
停滞を望む者を私は何よりも――嫌悪する」
嫌悪、という感情に、他人ほど嫌な感情を抱かない。むしろ、単純な好意よりも好ましく思ってさえいるかもしれない。
嫌悪は複雑で、苦しくて、それを支える思い出が色褪せて劣化しても、澱のように残り続けるから。幸せな思い出はいつか幸福となって昇華してしまうけれど、苦痛は簡単に消えたりしない。
私が私を忘れたとしても、私をこの上なく嫌悪する涅さんの中には私がずっと映り込んでいる訳だ。そう簡単には消えない火傷のように、焦げ付いてしまった影のように。
それなら、きっと私は笑うべきだろう。
少なくない労力を使って私を憎んでくれる涅さんに、感謝を述べるべきだろう。
けれど何故だろう、この瞬間だけ自分でも不思議なくらい不格好で変な笑い方をしている予感があった。…いや、素直に白状すると笑えている自信があまりにも無かったので、私は顔を上げることすら叶わなかった。
私の笑みを打ち消すという意味なら、涅さんの目的はすでに達せられたと言えるだろう。
怖くて歯がゆくて、はじめての事態に戸惑いながら、もう一度ひどいですね、と呟く。
「そんなに嫌われたら、普通の女の子だったら泣いてます」
「おや、堪えたのかネ? 泣いているように聞こえるが」
「じゃあきっと、その勘違いは雨のせいです。そんなの、今更できたら苦労なんてしてないんですから」
笑えないまま、「涅さんこそ、いつもより口数が多いんじゃないですか」とほんの少しの反撃をする。
それに対して涅さんは早口に言い返すことも無く、ただ静かに降り頻る雨を眺めているようで、視線はついぞこちらに戻ってくることは無かった。
――それが数十年にも及ぶ私の意識を変えることは無かったけれど、確かに私の思い出の化石となって、底に残る澱の一つを打ち消した。
思い出の横顔で、涅さんは事もなげにこう返すのだ。
「あァ。雨のせいだろう」