はじめて空海月が私の心に語りかけてきた時のことを、今の私はほとんど憶えていない。
 何度か膨大な量の手帳――私の人生を遡ってもそこまで古い記録は出て来なかったので、多分その頃の私はまだ自分の記憶を文字に起こす行為を習慣づけてはいなかったのだろう。
 もともと、空海月が私を選ばなければ必要の無かった行為だったから。

 はじめて空海月が私の心にはいってきた時のことは、ほんの少しだけ憶えている。
 あの頃の私は失笑してしまうほど気が弱くて、でも一丁前に人並みの正義感は持ち合わせていて、それなのに強くなくて、そして何も知らなかった。
 強く掴まれた腕が、髪が痛くて、眼鏡を奪われて何も見えなくて、謂れのない罵詈雑言で私を溺れさせる人達が怖くて。
 だから、ほんの少しだけ、心のどこかで――いや、これ以上ないほど強く願ったと思う。

 貴方達の方が、恐怖に溺れてしまえ。さもなくば、私のことを綺麗に忘れて、二度と私の前に現れることなく一生を終えて、と。

 あの日もこんな風に雨が降っていた。
 私がまだ純粋に世を存続させるために死神を志していた頃。
 取り返しのつかないモノを壊してしまった、水月乙子の原罪の日。
 悍ましい水母くらげが記憶の海から上がってきて、私の心に這入ってきた日。

はやく貴方を失ってしまいたくて


 どこを通って、どうやって十二番隊舎まで戻って来たのかはわからなかった。
 ただ気が付いたら私は開かれた傘をさしたまま、隊舎の渡り廊下に立ち尽くしていて、そんな私を見つけたひよ里ちゃんが「な…にしとんねん!!」と廊下の惨状を見て声を上げたところで、穴だらけだった私の意識は僅かに息を吹き返したのだった。

 何から説明したものか、どうやって水浸しの床の言い訳をしたものか、急速に回り出した頭でぐるぐる考えながら、ひとまず屋根があるのにさしっぱなしだった傘を閉じる。
 そしてそのまま、自分の体を見下ろした。まるでこの悪天候のなか、尸魂界には存在しない海に飛び込んで体を存分に濡らしてから今しがた這い上がってきたばかりのような状態だ。これが海に棲む妖怪の姿だと言われたら頷いてしまうかもしれない。
 黒い袴はすっかり体に張り付いてしまって、眼鏡のレンズも水滴がついてほとんど前が見えていない。

「副隊長…って、水月四席何やってるんですか!?」
「そんなんうちが訊きたいっちゅーねん! とにかく何か拭くもん頼むわ」

 ざわざわ、騒ぎを聞きつけて集まってきた隊士達に、へらりと笑って手を振った。騒がせてごめんね、心配かけてごめんね、という気持ちを込めて。
 ぼやけてよく見えないひよ里ちゃんが側にしゃがみ込んだ。力なく垂れている髪束を握られて、ぎゅっと絞られる。雑巾でも絞るように捻られた髪は面白いくらい水を吐き出した。

「傘さしとんのにどうやったらこないに濡れんの」
「いやあ、本当に…私もぜひ訊きたいところだけど」

 熱心に私の髪を絞っているひよ里ちゃんの膝には、油色の表紙の冊子が乗っている。
 それに水が跳ねると困るだろうな、と輪郭の曖昧なそれを手に取って、とりあえず濡れている私から遠ざけるべく両手を伸ばした。

「手触りがいいですね、結構新しいやつだ。隊舎にあったの?」
「あったも何も、乙子が探せって言うたんやろ」
「…そうだっけ」

 とんと覚えがなかった。
 ひよ里ちゃんの言葉で、連鎖的に今朝からの記憶を思い返そうと試みたけれど、今朝はおろか昨日の夜のことも満足に思い出せないことに気が付いただけだった。

 落ち着こう。こういうことは別に初めてじゃない。
 私はさっきまで例の屋敷にいて、そこから自力で帰ってきた。あまりちゃんと思い出せないけど、それだけは確かだ。
 それで、ええと、人を…男の人と、ふたりきりで。卍解を使って、記憶を食われて。…殲宮水母に任せた卍解だったから、どの記憶を持っていかれたのかもよくわからない。もしかしたら意識できないだけで薄められた記憶はちゃんとあるのかもしれないけれど、認識できないんじゃ意味が無い。
 落ち着け、こういうことは初めてじゃないだろう。記憶が無くなることなんて慣れっこのはずなのに、一体何にこんなに怯えていると言うのか。

 "――随分楽しげだと聞いているぞ、乙子"

 ひゅ、と喉が情けない音を立てた。


 ひよ里ちゃんが居るはずの隣を見る。そこにはすでに彼女の姿はなく、代わりに死覇装の足元だけが瞳に映り込む。そろそろとその光景を見上げる。
 私が顔を上げた先で、また彼も私をじっと見下ろしていた。

「………くろ、つちさん」

 涅さんは私の囁くような声には一切反応しなかった。
 金色の瞳に感情は無い。ただ、全身ずぶ濡れのままその場に蹲る私の様子を観察している。
 やがて薄い唇が僅かに蠢く。

「気味が悪い」

 それは、嘘偽りのない彼の真心だったように思う。


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