狭く暗い処刑場を一歩出れば、私は再び罪人の身を死神という表皮で覆い隠すことができる。
 それはいつも私が水月乙子という女を信じられなくなる寸前のことで、私は酸素の無い部屋から飛び出すように、燃え盛る地獄から逃げ出すように部屋を出て、扉の側に立っている警備に務めが終わったことを知らせる。
 あとは、忘れてしまったものを想い捜しながら、帰路を辿るだけ。

「おお、乙子」

 ――帰り道が、途端にぼやけていく。
 一見すれば陽気に私を呼び止めたように聞こえる声に感じたのは、骨を凍らせ脳を溶解するような恐怖だった。
 明確な恐怖に心臓を鷲掴みにされながら、体は勝手に振り返る。

「務めは終えたのだな」
「はい」
「あの男を、私の為に、殺して・・・くれたのだな」
「…はい」

 凍り付いてしまった私の頬を、包帯の巻かれた腕が、まるで飼い犬か何かを褒めるように撫でる。伸ばされた手に反射的に後退らなかったのはほとんど奇跡のようなものだった。

「――勿論でございます、時灘様」

届かなかった手のなかに別のだれかを抱くことを


 時々都合の悪い事実の隠蔽や、生かしてはおけないものの殺すことは難しい者の処理に私を召喚する貴族は、別に綱彌代の者――目の前の綱彌代時灘のみではない。
 ただ今日はたまたま綱彌代の者が多かっただけで、そうでない時もある。どんな事情、どんな思惑があって私に誰かの記憶を消させているのか、そこまでは私の推測の範疇外だけれど。
 この人は、この男は、比較的突拍子もない理由で魂に刻まれた情報をいたずらに掻きまわすことを望む質で、私はこの人を前にした時が一番恐怖を感じる。

 この男は、私が恐怖していることを心の底から面白がっているから。


 あくまで従順に頷いた私を、薄暗い室内で翳る瞳がじっと見つめている。
 何か私が話すことを期待しているのだと思って、私は痺れてしまった舌を動かして切り出した。

「……あの、時灘様。畏れながら――」
「畏れずともよいぞ、お前と私の仲ではないか」
「…では、時灘様。先ほどの男は、記憶を失くした男は、この後どういった処遇を受けるのでしょうか…?」

 私の質問に時灘様は笑った。豪雨の続く湿った空気とは対照的な、からりとした笑いだった。
 頬を擽っていた手が離れていく。

「そう言えば、お前はいつも記憶を摘出された者がどうなるのかを知らないまま帰っていたな。ああ、確かに、お前からすれば気になる話題だろう」
「…」
「ふむ。そうだな、特別に教えてやろう。褒美だ、乙子」

 時灘様がくるりと半身を翻す。処刑場を見ながら、内緒話でもするかのように、声を潜めて。

「あの男は意識が戻り次第私の私兵として育てることになっているよ。元々剣の振り方は体が憶えているだろうから、訓練はすぐに終わるだろう」
「……?」

 私は頭が悪いので、自分の命を狙ってやってきた者、しかも平民の出の者を自分の兵として一から育てると言う貴族的思考が理解できなかった。
 納得のいかない気持ちが表情に出ていたのだろう。時灘様は「そう訝しげな顔をするな」と笑って手を振る。

「…御身を傷付けた者を、御身の矛として育てる、のですか?」
「ああ、違う。それは違うぞ乙子」

 ――私の肩に、手を置いて――

「あの男が流魂街に置いてきた家族の始末をさせる為に育てるのだ」
「――――」
「解るだろう? 四大貴族の一家に盾突いたのだ、凶行を止められなかった家族や周囲の者も同罪。これは禊なんだよ、乙子」

 語る言葉の内容よりも、覗き込んだ私の表情に意識を向けている男から、私は何をしてでも逃げ出したくなった。

 …勿論、あの男は貴族に鋒を向けた時点で家族もただでは済まないことは想像していただろう。
 けれど、だけど、家族への報復を行うのが自分自身だなんて、そんなことを一体誰が想像できたと言うのか。
 だって、家族は護るものだ。傷付けるものじゃない。

 ――でも、記憶を壊されたあの男にとって、最早流魂街のどこかで彼の安否を案じる魂魄達は家族ではない。
 過去を根こそぎ奪われたあの男に待つのは、悲しみも憎しみも最早抱くことはできない地獄だけだった。

「お前のせいで、あの男は愛する者共を手に掛けるのだ。嬉しかろう、乙子? お前はそうして我ら貴族にまた一つ恭順を重ねることで平穏を約束されるのだから!」

 ――私の生み出した地獄。私のせいで、人が不幸になる。
 飲み切れなかった恐怖が震えとなって現れる。時灘様は、そんな私の反応に満足したようだった。
 近かった顔が離れる。遮られていた視界が再び曇天に立ち戻る。

「そう怯えた顔をするな。お前のおかげで貴族――私の安全は守られるのだから。お前は務めを果たしただけに過ぎぬ。そうだろう?」

 自分が何と答えたのかは最早わからなかった。
 恐怖と緊張と焦り…よくない感情すべてを混ぜこぜにしたものを腑に詰められた私は、ただがくがくと頷いていただけのような気がする。
 それでようやく、肩を掴み私を押し留めていた手からも解放された。

 胡乱な意識のまま屋敷を後にしようとすると、もう一度だけ呼び止められる。

「そう言えば、十二番隊には新しい者が隊長に就任したそうだな。それからのお前は随分楽しげだと聞いているぞ、乙子」
「――」
「その者達は何も知らぬのだろう。お前の罪も、功績も、何もかも。…その幸福が、少しでも長く続くことを願っているよ」

 瞬間、フラッシュバックのようにこの数か月の断片的な記憶が脳裡に忙しなく蘇る。
 楽しくて、おかしくて、不安で、期待して、驚いて、怒って、悩んで、笑って、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて――そんな日々を。
 それを知っていて、今この男は、私の幸福に指をかけた。
 責められているようでもあったし、脅されているようでもあった。祝福すらされているようでも。

 それで、私は怖くなって、途轍もなく怖くなって、怖くて怖くて怖くて、どうしようもなくなって。
 両手で口を覆って、足音が充分離れていくのも待たず、その場に頽れた。
 吐き気がした。恐ろしかった。
 誰かを犠牲にした歪な平穏が、ではない。
 誰かを犠牲にした歪な平穏に、恐ろしい人が笑顔で鋒を向ける仕草を見せたことが、ひどく恐ろしかったのだ。


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