前日の夜から雨が続いている今日は、十二番隊舎には顔を出さなかった。
 傘を差して、曇天の下を俯き気味に歩く。向かう先は貴族街。
 死神と言えど、本当なら私程度の席官では立ち入ることもできない域、奥深くまで。

 屋根のある建物に辿り着いて、閉じた傘を警備に預けて、腰に挿した斬魄刀を掲げる。それで重苦しい門は開かれて、大層な装飾を施されたそこをくぐると、屋敷に続く石畳の道には美しい花々が植えられた庭がある。
 石と石の僅かな隙間を忙しなく流れていく雨水を見下ろしながら、これはしばらく雨が続きそうだな、と思考を逃避させつつ、重たい足を引き摺るようにして進んでいく。

 足を止めて庭の花々を鑑賞しようとは、一度も思えた試しがない。
 吸い込めばたちまち脳が泥酔してしまいそうなほどの沈香の臭いで吐き気がするので、いつもこの屋敷をどれだけ早く出られるかということだけを考えていた。だから、ここで四季折々の自然の美しさに思いを馳せようなどと顔を上げる余裕は無かった。

 ――ぐっと頭を乱暴に掴まれたような嫌悪感で無理矢理意識が戻ってくる。どろりとした泥のような感情で腑をいっぱいに満たしながら、深々と頭を下げた。
 

まだもう少しだけ貴方の嘘に縋っていたい


「お呼びと伺い参上しました。水月でございます」

 本当に、噎せ返るような沈香の臭いにだけは慣れることができない。
 頭を下げたまま石畳をぼんやりと眺めるけれどど上手く焦点が合わず、隙間を流れていく黒い雨水のように私の心も漏れて流れ出ていく気さえした。心が緩慢に、慣れた動作で凍り付いていく。
 低く低く頭を下げたまま、顔を上げる許しが聞こえるまで息を潜める。
 最初に笑って私を制したのは、正一位の位を持つ四大貴族のうちの一家、綱彌代家の男だった。

「顔を上げなさい。いやはや、こんな天気のなかご苦労」
「は。…勿体ないお言葉です」
「ともかく入れ。女人があまり体を冷やすものではないぞ」

 そう言って、屋敷の中から見ていたその人は外までやってきて、顔を上げているものの低い姿勢のままでいる私の肩を掴み強引に歩かせる。
 大きな手のひらに抱かれた肩から、死覇装を通して皮膚が腐っていくようだった。喉奥を焼く吐き気をぐっと堪えて「お気遣いありがとうございます」といつものように微笑む。

 微笑んで、頷いて、頭を垂れて、跪いて、畏まって、恐れて。
 ここで私がすべきなのは、ただそれだけのことだ。


 通された先の広間はもう何度も訪れ、何度も夢に魘された地獄のような場所だ。
 そこには更に数人の貴族達がいて、その中央には椅子に縛り付けられ、口を塞がれた人がいる。男か女かは時々変わるし、一人じゃない場合もある。
 いつも共通しているのは、その人が愚かにも貴族という不可侵の存在に手を出して、何らかの怒りを買ったということだけ。

 そんな光景を見るたび、私はああまたか、とわかりきった未来に落胆して、そして怯える。
 その恐怖を表に出すことは私にも、拘束された人にもいいことがないと経験則で理解しているから、私はただ黙って立っているだけなのだけど。

「その男は愚かにも四大貴族の一家である綱彌代家に狼藉を働いた。分家と言えど、この尊き我が一族の者に血を流させた罪は重く、深い」
「その男が襲撃を。…どなたかお怪我をされたのですか?」

 伏せていた目を流すと、先ほど私の肩を抱いて歩かせていた男が、その手とは反対の手をひらりと振った。着物の袖から覗いた腕は、手首から肘にかけて包帯が巻かれている。

 どんな方法を使ってそんな奇跡を起こしたのかは知らないが、とにかく目の前で拘束されている男は貴族街にある綱彌代家に侵入し、あろうことか貴族に傷を負わせたらしい。
 手を出せばただでは済まないと、尸魂界に住む者なら誰しもが承知する貴族に目に見える傷を与えるなど、きっと自分の命――はたまた近親者や周囲の人間を巻き込んででも果たさなければならない恨みや憎しみがあったのだろう。

 同情すると同時に、そこまでの覚悟を持って行動を起こしたのなら何故その場で命を落とさなかったのかと、ほんの少しだけ知りもしない男に怒りを持った。
 もしその場で貴族の私兵や警備の者に殺されていたのなら、私がこの場に召喚されることも無かったのに。
 運がいいのか悪いのか、・・に愛されているのか、いないのか。
 …運と言うのなら、確かに彼は運がよかったのだろうけど。

「それは、心からのお見舞いを申し上げます。少しでも早くその傷と痛みが癒えますよう…」
「口上はよい。水月。やるべきことは解っておろうな」
「……はい、勿論にございます」

 微笑んで頷いた。
 それだけを見届けて、暗く狭い室内に居た男達の何名かが部屋を後にする。

「では、命令だ。――その者の記憶を消去し、尸魂界に仇を為す悪の芽を摘み取るがよい」
「はい」

 微笑んで、頷いて、頭を垂れて、跪いて、畏まって、恐れて。
 ここで私がすべきなのは、ただそれだけのことだ。



 誰もいなくなった閉室。拘束され、鼻息の荒い震える男とふたりだけ。
 せめて最期くらいは笑顔で送ってやろうと、努めて微笑んだまま斬魄刀を抜いた。光の少ない室内では、空海月の刀身が尚の事儚く、発光して見える。
 それを構えた私の動作に殺されると思ったのか、男がどこも自由の効かない身体で無茶苦茶に暴れ出す。

「―――――!」

 布を詰められ塞がれた口からは、そんなくぐもった悲鳴しか聞こえない。
 私は心底同情して、同時に怒りを抱きながら、男に歩み寄る。

「大丈夫です。命を奪うようなことはしませんから」

 言って、握った空海月を宙に向けて振るう。
「ばんかい」――囁く。
 歌うように、哀れむように、祈るように。
 ぶく、と青白い刃が不気味に膨張して、中身がゆらゆらと煌めき出す。

「『殲宮水母』」

 びしゃり、と水がたっぷり入ったバケツをひっくり返したように粘性のある液体が迸る。
 意思を持って飛沫の一つ一つまでが蠢くそれが、私と彼の足元を浸す。樹木が急速に枝を伸ばすように、人が天に手を翳すように、溺れる人が水面を目指すように、蒼い触手が室内を覆いながら天井を目指す。
 まるで怪物の胃の中に入ってしまったような気味の悪い空間のなかで、怯える彼に私は微笑んでやることしかできない。

 がたがた震えて呻き声を上げる彼の言うことは、よくわからない。わからないけれど、私に恐怖していることだけはわかった。きっと口も利けないのに目だけはずっと見えているせいだろう、と決めつける。
 柄と鍔だけの状態になった斬魄刀を右手に持ったまま、幾分か低い位置にある男の頭を緩く抱きしめた。
 今からされること、今から現れるものを見なければ、少しくらいは恐怖も和らぐだろうという身勝手な希望的観測を、罪人の頭ごと抱いて。
 黒いつむじに頬をぴったり添えながら、彼が唯一自由に使える耳にそっと囁くのだ。

「大丈夫ですよ、恐ろしいでしょうが、直ぐにそれも意味を失くします。忘れましょう。忘れてしまえば、何もつらいことはありませんから」

 獣みたいに唸り声をあげる彼を抱きしめながら、自分はなんてことをしているのだろうと頭が痛くなった。
 誰かに知られたら、見られたら、きっと軽蔑される。お前には人の心が無いのかって、悪いことをしている自覚は無いのかって、嫌われてしまうだろう。
 …それは。

「……忘れ、ましょう。忘れて、楽に」

 それは、悲しい。
 私は――少なくとも今の私は、あの人達に、あの人達にだけは、嫌われたくない。
 こんな私を、知られたくない。

 そう思ったら、泣きそうな気持ちになった。
 感情とは裏腹に涙はこれっぽっちも流れやしない。顔を掻き毟りたい衝動に駆られたけれど、そういう動揺がこの可哀想な人にそれがわからないように呼吸を鎮める。

 暗かった視界がふと翳って、湿った足音が聞こえてくる。
 しとしと、しとしと。
 此処に居るふたりの罪人を裁く足音だ。

「……共に罪人でありながら、生に縋って、ごめんなさい。…忘れることを許された、貴方をずっと、恨みます」

 キイキイ、硝子を引っ掻くような鳴き声。
 意識が靄がかっていく。
 肉厚で半透明のヴェールが、私と男を飲み込んだ。


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