人工物しか目に入らない技術開発局から一歩外に出ると、景色は時間が静かに息を潜めているいつもの古い瀞霊廷の風景を取り戻す。
 屋根が落とした影の隅っこで、茫然自失のまま己の肩を抱いて、小さく蹲った。
 右手には、白い硝子の注射器。
 忘却を停める薬。

 私を殺すモノ。

「……困ったな………」

 彼の、彼らの探究心と飽くなき好奇心が好きだ。
 打算も畏怖も敬遠もない、単純な納得が心地良かった。
 楽しさはやがて喜びに変わり、喜びはやがて離れ難さに変わっていくだろう。

 宙を仰げば、正午から少しずれた太陽を据えた空が青い。
 雲は白く、風になびく木々の緑などはまるで作り物のように鮮やかで、その色彩すべてが気持ち悪かった。
 この上なく生きているのに、途方もなく、まるで死んでしまったように静かだ。
 目玉に映る景色のすべては、鮮やかな骸の群れだった。

自分の嘘に殺されるつもりはありますか


「薬、本当に渡しちゃうんスね」

 椅子を漕ぎながら近寄ってそう言うと、黒と白の化粧の中で金色の目がぐっと顰められる。爬虫類のような目があからさまに嫌悪を示したことに笑う。
 笑って、つい先ほど去っていった部下の顔を思い出す。

「忘れることも悲しいけど、忘れないことも怖い、か。難儀なモンっスねぇ」
「……いつから見ていた」
「一部始終、ばっちりと。新薬が完成したらまず乙子サンに渡すんだろうなって見当ついてましたから」

 涅マユリが抱えていた人体実験を一時中断してまで脳機能――主に記憶の領域を研究し始めたのは、虚の一件を経た部下である水月乙子が一部の記憶を喪失してからだ。
 当人に訊いても絶対に否定が返ってくることは想像に易いが、それでも関係はあるのだろうと邪推をしてしまう。
 一方で、記憶という曖昧で未知の多い領域に焦点を当てた研究が思いのほか面白いこともまた事実だ。
 触れることもできず、形あるものとして摘出し、標本として保存することもできないそれを、未知の方法で取り出し、干渉し、歪めてしまう空海月――殲宮水母の能力ははっきり言って興味深い。
 仕組みも成り立ちも、何もかもが新しく、未知で、危険だ。
 危険であればあるほど、その実態を解明したいという欲求が湧く。

「――でも、きっと彼女には使えませんよ、あの薬は。彼女が死神である限り」
「…」


 数十年前の真央霊術院の記録。
 集団記憶喪失事件と、廃人になった生徒のこと。
 その、罪の所在。
 特異な斬魄刀と、替えの効かない情報の集合体。
 人を形作る魂とも呼べる構成物を、人の形を損なうことなく奪えるチカラ。
 記憶を覗き、蒐め、食らうモノ。
 歴史時間そのものを葬れる可能性を秘めた、一見都合のいい存在。
 何も知らず、耐えることしかできなかった少女に科せられた罰。
 忘れることでしか未来を許されない、その道行きを。

 ――深く覗き込めば、食われるのはこちら側なのだと。


「泣かせちゃ駄目っスよ、ボクらみたいなどうしようもない上司についてきてくれる、健気で真面目な部下なんだから」

 人ひとり分の距離をあけた先でいよいよ顔を歪めた涅サンに、ボクはますます笑ってしまう。
 遺された時代も場所もてんでばらばらな記録を誰にも気付かれないよう読み漁り辿り着いた真実を前にして、自分も同じ顔をした覚えがあるからだった。
 そこまで知って彼が記憶補強剤を作り彼女に手渡したのであれば、あまりにも意地が悪いというもの。

「あれが涙など流すものか」
「気持ちの問題ですよ、彼女だって人っスもん」
「心身のほとんどを刀に蝕まれた果てに残った残骸を人と呼ぶのかネ? 趣味が悪い」
「酷いなぁ。ボクにも乙子サンにも酷いですよ、その論法は」

 ただ、と言葉を切る。
 存在の始まりから"すべての生命の母である"という強すぎる自己認識を持ち、悪意無く"子"を害する。
 人じみた思考を持ちながら、決して人とは交わらない妄執のような意識に、凡庸な一つの魂に過ぎなかった彼女では太刀打ちができなかったという、ただそれだけの話。それ単体では悲劇にもならない、哀れな御伽噺だ。

「――ただ、ちっとも面白くない悲劇でも、哀れな身の上で笑い続ける従順な演者を望んでいる人達は一定数いるんスよ。残念なことに」
「…まったく、唾棄すべき連中だ」
「ええそうです、だからお願いしますよ。進めるなら趣味の悪い観客に勘付かれないよう、慎重に」

 ミシ、と軋む音。
 涅サンが持っていたもう一つの注射器を握り締めた音だ。

 目に見えない何かが軋んだ理由は別に情でなくとも構わなかった。
 情でなくても、ただ彼女を取り巻くいびつな環境に嫌悪を露わにすることだけで充分で。

 静かに背を向けて研究室を後にした背中を見送って、細く、長く息を吐く。
 小さな倫理観と情に支えられた"傲慢"が、このごろボクを頭上から詰るように見下ろしている。
 悪意と思惑で雁字搦めになった糸を解いてやる気は無いくせに、愛想笑いの得意な彼女の笑顔にも種類があると知った"傲慢"が、まったくの他人ではないのだから救ってやれと喚くのだ。


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