今朝はいつもより少しだけ早く出勤した。
 一週間前から手帳に記されていた予定に従って、開発・梱包済みの依頼品を荷台に積んで、依頼元隊の隊舎に置いてくることになっている。
 浦原隊長には「別に乙子サンが一人でやることないっスよ、誰か他の人連れて昼間の内にやっちゃえばいいのに」と言われたけれど、逆に私一人で済む仕事なら私だけで済ませてしまいたい。
 別に早起きは苦ではないし、仕事は嫌いじゃないし。


 …と思っていたのだけど、前日から隊舎の外に用意していた荷台の近くで見覚えのありすぎる人達が何やら揉めているのを発見してしまった。

「何すんっっっねんラブ!! 頭割れてまうやろ!」
「いちいち口が悪いんだよオメーは」

 …見て見ぬふりを決め込みたい騒ぎが朝から繰り広げられているけれど、頭を押さえて怒鳴っているのはどう見たって自分の小さな上司だ。
 あの空間に片足突っ込んで荷台だけ回収するのはどう考えても無理なので、大人しく腹を括って仲裁に入ることにした。

剥がれかけた仮面が笑っているうちに


「おはようございます、愛川隊長、ひよ里ちゃん」
「おう、今日も生真面目な面してるな乙子」
「呑気に挨拶してる場合かっ! はーなーせー!」
「駄目だよひよ里ちゃん、他所の隊長のことそんな気軽に蹴ったら」

 他所じゃなくとも隊長のことを蹴るのは駄目だけども。愛川隊長に片手で頭を押さえられながら暴れるひよ里ちゃんの腰を掴んで抱き上げる。
 そのまま数歩下がって愛川隊長から距離を取ると、ようやくひよ里ちゃんは静かになった。
 申し訳程度に頭を下げるとひらひら手を振って制止される。

「何かあったんですか? お二人ともまだ早朝ですけど…」
「それは乙子もやろ」
「いや、私はお仕事」
「こいつが珍しく朝早くからウロチョロしてるから声かけただけだよ。ま、理由は今わかったけど」
「そ、そうですか?」

 さっきからひよ里ちゃんに蹴られたり殴られたりしているのに、愛川隊長は何だか楽しそうだ。
 サングラスで目は見えないけど、口角があがっているし声音が何と言うか、そう…面白がっている感じ。
 うーん、と曖昧に首を捻りつつひよ里ちゃんを見下ろすと、抱きかかえられたままの体勢で踵を揺らして脛を蹴ってくる。さっきから足癖が悪すぎる。仕返しに掴んだ脇腹を擽った。

「よかったじゃねえか。最近構ってもらえてなかったんだろ」
「?」

 愛川隊長の笑い混じりな言葉の矛先はどうやら私ではなさそうだ。そうなると、自然とぎゃーと女の子らしくない悲鳴を上げて身を捩るひよ里ちゃんしか相手がいなくなるのだけど。
 訪れた沈黙にいたたまれなくなったひよ里ちゃんが「うるさいわっ!」と吠えたあたりで、流石の私も珍しい副隊長の早朝出勤の理由を察せざるを得なくなってしまった。

 抱き上げていたひよ里ちゃんを地面に下ろして、改めてその頭を抱き込んだ。

「ひよ里ちゃん、久しぶりに今夜は一緒にご飯食べに行こっか」
「な、なんでやねん!!」
「だって寂しいじゃない、一人のご飯。最近忙しくてあんまりひよ里ちゃんとお喋りしてなかったしさ」
「がーっ! 撫でるな! くっつくなー!」
「よーっしゃっしゃっしゃ」

 怒りの矛先が私に変わったが、照れ隠しと思えばあんまり痛くない。
 要は仕事で涅さんや浦原隊長とばかり喋っているからなかなかひよ里ちゃんと顔を合わせる時間が取れず、私が早朝一足先に運搬作業を始めると聞いて手伝いに来てくれたということなのだろう。
 早朝と言っても詳細な時間を打ち合わせた訳ではなかったので、いつ来るかも知れない私をここで待っていたという感じか。
 それならそうと言ってくれればいいのに、まあ我らが副隊長ははねっ返りが強く素直じゃないところも愛嬌の一つなので、甘んじて蹴りの一つや二つや三つ、受け入れようではないか。

「そう言えば乙子、お前今度の演習出るのか?」

 強暴なじゃれ合いに興じていた私達に、愛川隊長が唐突にそう言った。

「わからないです。浦原隊長からはまだ人選案きてないので」
「去年は出てなかっただろ? "今年は十二番隊の水月出るか"ってそこそこの噂になってるぜ」
「な、なぜ……」

 ぐっと顔を顰めると愛川隊長は声を上げて笑った。大きな手で私の頭を軽く叩いて、白い羽織が踵を返す。

「筆持たせても剣持たせても強いからな、お前は」
「…十一番隊と当たらないなら善処しますけど…」
「我儘言いなさんな! そいつはジイさんのくじ引き次第だ」

 取り残されたひよ里ちゃんと顔を見合わせ、まだ白い空を見上げて息を吐いた。

「ま、演習は浦原隊長から話あるまで放置でいいよね。…で、ひよ里ちゃん本当に手伝ってくれるの?」
「ここであんた置いて帰るって、うちどんな顔して戻ればええねん」
「そっか、じゃあまず五番隊の荷物からなんだけど」
「………帰る」
「まあまあそう言わずに」

 この時間ならまだ平子隊長いないって、と肩を叩くと代わりに膝を蹴られた。


 午後、涅さんに呼ばれて技術開発局の方に顔を出した。
 本当に珍しいことに、涅さんに呼ばれて、なのだ。

 用件が不明なうえ、この呼び出しも阿近くんを通したものだったので、実は何かの間違いで顔を出したら「何をしに来たのかネ?」と真冬の吹雪よろしく冷たい目でじろりと睨まれるんじゃないかな、と想像しては肩を震わせている。
 涅さんは嫌いじゃないけれど、あの眼差しに四六時中睨まれていたら流石に心が折れてしまいそうだ。
 嫌いではないのだけどね、うん。


「失礼しまぁす、水月です」

 重い扉を開いた先で、作業中の何人か私の声に反応して振り返る。
 会釈に会釈で返しながら、いつも振り返らない藍色の髪の呼び出し人を目指して研究室を歩き出す。
 大きな実験器具が揃っているこの部屋にはいつも結構な人が集中しがちなので、人口密度があまりに高くなるようならもう一つ同じくらいの規模の部屋に同じ種類の器具を揃えてあげた方がいいな、と辺りを観察していると、横から腕を取られて前のめりにつんのめった。

「あ、わっ」
「どこまで行く気だ。その先は薬品棚しか無いが」
「ちょっとぼーっとして…すいません、助かりました」

 掴まれた腕はすぐに解放された。
 涅さんの顔は一周回って不安げにすら見える。多分研究室でのみ放っておいたら即死するか弱い動物とか、そういう認識をされている気がする。
 ぺこぺこ頭を下げていると鬱陶しげに手を振られたので大人しく用件を訊くことにした。

「新薬が完成した」
「それはおめでとうございます」
「ので、君が実験体になり給え」
「えぇ…嘘でしょ…?」

 流石に躊躇いとタイムラグがゼロの本音が飛び出してしまった。最早口を塞ぐ気すら起きない。
 ちょっと前から涅さんが新しい研究――主に薬品の取り扱いを始めたことは風の噂(と訊ねてもいない隊長からの定期報告)で承知していたけれど、まさか私に投与する前提で試験計画が進んでいたとは思ってもみなかった。
 思わず信じられないといった表情を包み隠さず浮かべてしまった私の頭を、涅さんの左手が鷲掴む。

「それは一体何に対しての不信だネ? まさか私の腕か?」
「いやいやいやまだ何も言ってないですって、いたいいたい涅さん痛い」

 頭がメリメリ言っているが、涅さんは器用にもその状態を保ったまま私に薬が入っていると思しき長方形の小さな硝子の容器を掲げて見せた。

「これに新薬が入っている。これ一つで投与一回分きっかりだ。一定の力で腹部や大腿部等に押し付けることにより自動で針が飛び出し投与が開始される仕組みだヨ」
「いやあの、それはいいんですけど中身何なんですか? 第二第三の腕が生えてくるとかおでこに謎の眼玉が生成されるとかだったらすごく嫌なんですが…」

 ふと、頭を掴んでいた手から力が抜ける。
 じんじんと痛む頭を押さえて涅さんを見ると、右手に握った注射器を見下ろしたまま束の間口を閉ざしてしまう。けれどそれも一瞬のこと。
 相変わらず無機質的な金色の瞳が、俯きがちな眼がぎょろりと私を見る。

「記憶補強剤だ」

 こめかみに触れていた指が、勝手に肌を滑り落ちる。
 呆気に取られてしまって、嫌に緩慢に反響する涅さんの言葉の意味を上手く咀嚼できなかった。

「……ええと…?」
「記憶を司る神経に直接作用し、記憶の劣化や混乱、改竄といった忘却の類を跳ね退ける。投与開始から三十分程度で徐々に効果は薄れていく計算だが」

 …両手は自然と死覇装の袖を握り締めてしまっていた。
 どこか曇ったような視界で涅さん、その手元にある薬をじっと見つめる。

「君の斬魄刀が記憶を摘出する方法は不明だが、まずは手近なところから実験だ。この薬で忘却が防げるのであれば、斬魄刀が用いる記憶操作の方法にもいくらか見当がつくように――」

 脳の奥深いところで、私を責める音がする。
 ――しとしと、しとしと。
 いやに、湿った、足音が。


- ナノ -