まあ、私が少しでも動こうものなら他の隊士達から「水月四席がまた脱走しようとしてる」だの「物を持たせるな」だの言われてしまうから、自戒も何もない状態なのだけど。
そもそも私は両利きなので、右腕が使えずとも字は書けるし、意外と片腕でも仕事に支障はない。
…ないので、いつも通り仕事をして、事あるごとに執務室を覗きにくる隊士達から逃れるように書類の提出と受け渡しに向かったのだが。
「水月四席、怪我したって聞きましたよ、もう仕事してて平気なんですか?」
「大丈夫です。お仕事してないと逆に落ち着かなくて…」
「あ、乙子さん。また四番隊から脱走してきたんですか?」
「なんか私がいつも脱走してるみたいな言い方ですね…ちゃんと卯ノ花隊長に許可もらってますよ」
「腕吊った状態でうろついてるから十二番隊の隊長鬼説が流れ始めてますよ」
「う、浦原隊長…」
南無三…。
伺った先で労わりの言葉をいただくだけでは飽き足らず、廊下を歩いてるだけでめちゃくちゃ話しかけられる。その都度足が止まるので、いつも以上に時間がかかる。
これが涅さんにまで「顔が広い」と言われてしまう原因だろうか。
人付き合いが苦手なのは本当のことなのだけど、実際知り合いが多いのも事実なので誰も信じてくれない。
繰り返し見たさよならの夢にまたもう一人
あちらこちらで声を掛けられ、終いには袖や懐にお菓子を突っ込まれつつ、何とか最後の目的地・三番隊の隊舎に辿り着いた。
隊首室へと続く廊下に出ると、部屋から出て楽器を演奏している鳳橋隊長に遭遇した。
独特の細い音色を奏でる楽器はバイオリンと言うのだとこの前教わったので、しばらくその音に耳を傾ける。
演奏が落ち着くのを待ってから声を掛けると、金色の髪がくるりと振り返った。
「乙子ちゃん、今日も仕事してるのかい? 珍しく怪我したって聞いたから数日はお休みかって思ってたのに」
「休むかどうかは怪我の程度にもよりけりですよ。……ていうか、死神が戦いに出て怪我して帰ってくるのがそんなに珍しいですかね? もしかして私だからこんなに噂になってしまっているんでしょうか」
「珍しいか否かと問われれば答えはノーさ。君はいつも穏やかで優しい子だけど、ここぞというところでは強く在れる隊士だからね。いつも元気でいる乙子ちゃんが怪我をしているから、皆心配なんだよ」
ありがたいお言葉に自然と笑みが零れてしまう。
鳳橋隊長は他の隊長方と比べると不思議で自由人な面が目立つが、人の心を解してしまう穏やかな気性と優しい言葉選びをされるので、部下の目を盗んではあちこちで気ままに楽器を弾いている隊長が私は結構好きだった。
お世辞ついでにウィンクする姿も様になる彫りの深いお顔をしているし、そちらの方面の学はあまり無いけれど絵画を前にしたような非日常感があって、そこも好感度が高い。
ひよ里ちゃんにそう言ったらこれでもかと笑われてしまったけれど。
左手で持っていた書類をまとめて差し出すと、鳳橋隊長は肩を竦めてそれを受け取ってくれた。
ぺらぺらと何枚かを捲りながら、ちらりと私の顔を見る。
「…浮かない顔をしている理由はそれだけかい?」
「え」
「何だか寂しそうだから」
空いた手でぺたぺた顔を触る。
いつもと違うところは判別できなかった。
「自分の隊長にも打ち明けられないことで、ボクが相談に乗れるかどうかは怪しいけど、話してご覧よ」
「いえ、大丈夫です。鳳橋隊長のお時間を頂戴するほどのことではないので…」
「ということは、やっぱり何か思うところはあるんだね?」
……言質を取られてしまった。
どうしてこう、隊長という人達は皆揃いも揃って勘が鋭いのだろうか。
そういう、他人に対する洞察力みたいなものも隊長たる資質のうちだと言うのなら、きっと隊長格昇進など私には夢のまた夢だろう。
したり顔で私を見る鳳橋隊長から目を逸らして、所在なげに髪の一房に触れた。
「もっと強ければな…という、ありきたりな自分への不満と失望です。努力するしないの問題は置いておくとしても、こういう思考には際限も解決策もないので…」
「記憶を失くしてしまった部下のことかい。でも、前の彼らみたいに除籍にはならずに済んだんだろう? 退院許可が下りれば、すぐに復帰できるって聞いたよ」
「全部結果論ですよ。例えそうすることでしか彼らの命を護れなかったとしても、記憶は人を構成する大事なもの――いわば彼らそのものですから、本当は簡単に私が手を入れていいものではなかったのに」
私が口にするのはおこがましいにも程がある泣き言だ。
あの時私は確かに、そうすることで彼らの命だけは護ると決めた。あの状況下では"部下を死なせてしまうこと"が最悪だったから、それを避ける為に私は私にできることをした。
すべて後の祭りだとわかっていても、湧き上がる後悔は尽きることがない。
何かを忘れて、記録を読んで、それを理解して、日々に戻る。
その単純な繰り返しを続けてきた私の心の在り処を問う人が現れたから、いつもは考えない深いところで、覚えのない嫌悪感が燻っているのだ。
正体がわからずとも原因がわかっていれば、他人――特に浦原隊長にこのことを勘付かせるなど、道端の石程度しかない私の矜持が許さない。
忘却は悪ではない。
だって私は、不幸じゃない。
いつの頃かはもう思い出せないけれど、確かに私は自分でそう定めたのだから。
薄く笑う私を、鳳橋隊長は静かな面持ちで見つめている。
「…でも、人を構成する記憶を包む殻は命だよ」
「中身が空の入れ物には意味がありません」
つい言い返してしまった。隊長はちょっと笑う。
「記憶がどんなに重要なものでも、それを包む外殻がないと、それはただの概念なんだ。結果は『何とか命だけは助かりました』でいいんだよ。――死んでしまうよりずっといいって、ボクは思うよ。鎮魂歌なんてそう奏でたいものじゃないからね」
「―――」
「それに、入れ物が空になったからって、それがまったくの無であるかと言うと、それもちょっと違う。誰かが何かを忘れてしまったって、他の誰かがそれを覚えているよ。記憶を失ったからって意味までは一緒に消えたりはしない。記憶が消えてしまっても、突然誰かが居なくなったりはしないんだ。記録が失われても、実体は確かにそこに在るんだから」
…私が卍解を使用した部下達――前山さん達は、私のことと、現世での戦いのことを綺麗に忘却してしまったらしい。
恐らく、殲宮水母があの戦いの原因を"お互いを記憶していること"だと認識したのだろう。虚が記憶を依り代に感情を操作していたあの状況では、確かにそれは正しい判断だったと思う。
事の顛末を応援に来るだろう誰かに伝える為に記憶を食わせてしまったせいで、私の中でもあの時の出来事は曖昧だ。
失われた記憶に関しては本人達に説明がされ、落ち着いた者から順に退院し、通常業務に復帰すると聞いたけれど、以前のような親密な関係はもう私達の間には無い。
また、一からやり直しなのだ。私も、彼女達も。
「それに、乙子ちゃんよく言うじゃないか。"忘れることは悪いことじゃないですよ"って」
その言葉に、私は、声もなく息を呑んでいた。
何を忘れても、何を失っても私は不幸じゃない。毎日死神として生きていられるから、苦しいことは何も無い。
だと言うのに、私は彼女達の記憶を奪ってしまったことに途方もない罪悪感を抱いている。自分の弱さを恥じて、顔に出てしまうレベルに落ち込むくらい。
どうしようもない矛盾に気付いてしまった私を知ってか知らずか、励ましの方向に舵を切った鳳橋隊長が笑う。
「忘れてしまったなら、もう一度やり直せばいいのさ。まったく同じようにはいかなくても、新しい思い出を積み重ねるんだ。一つずつ、一つずつ」
「……再起動、ですか?」
「いいや、再構築だよ」
残された器にも意味は宿る。けれど、それ単体では骸にも劣る肉の塊だ。記憶も同じこと。
それなら、一体何が、何が私を私たらしめていると言うのか。
一体何を、私であると自信を持って呼べるのか。
一が二に取って代わる。二が三へと進む。
はじまりの――何も知らない原始の私から再構築され続ける私は、果たして本当に私なんだろうか。
ああ、こうも苦しいと、この気持ちごと記憶を無に還してしまいたくなる。
忘却は悪ではない、と、思う。
でも、それでも―――
――私のこと、忘れないでね
―――じゃあ、忘れたいと思うことは、悪なんでしょうか。