「確認ついでに、一つ訊いてもいいですか」
「私に答えられることであれば、なんなりと」
「アナタの今の記憶の欠損は、他の隊士のような虚の影響を受けたものではないですよね。…一体、何に記憶を奪われたんです?」

 浦原隊長の同情を一切含まない響きの言葉は、少なくとも私に警戒心を抱かせなかった。
 ただ、来るべき時が来たのだな、と絞首台を前にしたような観念する気持ちが湧き上がる。こうして部下を巻き込んでしまった私には、最早「書類情報以上のことを話すつもりはない」なんていう甘い考えは使えない。

 さて、何から話したものか。

「ええと…奪われたと言うか、これは罰なんです」
「罰、っスか?」
「はい。…小さな理由で争って、お互いを傷付けて、結局悲しむ"子"に向けた、"母"からの罰です」

 言いながら、私は私の言葉の奇妙さに自分で笑ってしまう。
 私はいつも、自分がこう・・なった発端の記憶を辿ろうとすると言葉に困ってしまうのだ。
 死神である水月乙子の原始の記憶を辿ろうとすると、どうも私は意識が雑になってしまう。死神ですらなかった水月乙子の頃など、言うまでもなかった。

罪でも罰でもなくただ一つの悲しみとして


「隊長はご存知ですか? 具象化も屈服もしないまま卍解まで至った斬魄刀の噂話」

 そう切り出した私を見ていた浦原隊長の瞳が、何かを思い出したように煌めく。

「概要は知ってますよ。十二番隊に来たばかりの頃に、平子サンが話してくれました」
「平子隊長が? ずるいですね、平子隊長ったら、人のことを勝手に話してしまって…」
「やっぱり、あの話は乙子サンの斬魄刀の話なんスね。その――」
「――空海月と言います。噂話の内容をご存知なのでしたらそちらは割愛しますが、結論から言うとどうしようもない健忘症含めて、私の記憶に穴が生まれるのは"彼女"の能力によるものです」

 ベッドのそばに置かれている空海月に視線を移す。きっと"彼女"は今回争いに巻き込まれた私を救ったと思っていることだろう。
 会話らしい会話が成り立ってしまうから意思疎通ができると錯覚しがちだけれど、空海月に私達のような回顧と追憶の感情は通用しない。

「空海月の始解時点での能力は至ってシンプルです。刀身が液状化し、空海月が融化した範囲内で空海月の触手を操作することができる、というものです。触手自体にも即死はしませんがそれなりに強い毒があるので、掠りでもしたら時間経過で戦闘不能…という感じです」
「虚を仕留めていたのもそれですね」
「はい。卍解しても攻撃方法は変わりません。あくまで私にできるのは、空海月の触手を操作して多方面からの攻撃を仕掛けるだけで」

 私にできるのは、という言葉を浦原隊長は聞き逃さなかったらしい。
 黙って続きを促す隊長に、私は頷いた。

「卍解した空海月――いえ、殲宮水母の主要な能力は毒を持つ触手の攻撃ではなく、記憶の撹拌です」
「…撹拌。消去ではなく、撹拌ですか」
「ええ。消去ならまだ話は単純だったんですが、撹拌なんです。混ぜちゃうんですよ、"彼女"」

 殲宮水母は、卍解の範囲内に存在するすべての生物の記憶の一部を『無作為』に摘出し、それらを撹拌した状態で再度脳に植え付ける。
 その過程で摘出した記憶の一部を食って概念情報として身の裡に蓄えることもでき、貯蔵記憶を孕んで生まれるのが殲宮水母の仔である小さな海月群だ。
 それらは文字通りに記憶を孕んでいるため、中の液体を浴びた人間は本人の意思関係なくその記憶を"視る"ことができる。

 記憶の摘出、摂食、そして撹拌が殲宮水母にできることのすべてだ。

「ただ、混ぜられた記憶はそう簡単には定着しませんし、一度脳の外に持ち出されてしまった記憶はどれだけ重要な記憶であったとしても最早ただのノイズに過ぎませんから、ほとんどの場合殲宮水母の攻撃を受けた者は摘出された分の記憶を失くしてしまいます。殲宮水母に持っていかれる記憶の量や濃度は領域内での時間経過に比例しますので、この程度の忘却で済んだ分今回の私はまだマシですが」
「それでは斬魄刀が持ち主に危害を加えていることになる。卍解の修得には斬魄刀との対話と屈服が必要だ。斬魄刀の意思はどこへ行った?」

 涅さんがもっともな疑問を口にした。もちろん、普通の斬魄刀はそうだろう。
 持ち主に悪意を持つような斬魄刀であれば、そもそも自身の真価を発揮する卍解という手を貸したりはしない。
 殲宮水母による記憶の撹拌は私にもばっちり及んでいるので、傍から見れば危害を加えられているように見えるのも仕方がないかもしれない。
 私は否定も肯定もせずに、そうですね、と曖昧に頷いた。

「殲宮水母に悪意があれば、そもそも私に卍解を預けたりはしなかったでしょうね」
「…そういうことっスか。それはどうにも、難儀な斬魄刀で」

 これだけで全てを察した浦原隊長は顎を擦りながら暫し口を閉ざしてしまった。

「殲宮水母に悪意はありません、むしろ逆なんです。殲宮水母は、人間で言うところの"母"のような人格意識を強く持っています。自分以外の知覚できるものすべてを"子"と認知してしまう……この場では私も浦原隊長も、涅さんもひよ里ちゃんも"子"なんですよ」

 そう、殲宮水母は文字通りに"母"である。
 鋼と鉄の躰でありながら、人を子と認め、死神を子と慈しみ、虚でさえも子と憐れむ――由縁も発端も不明ながら、明確な母性愛としての強すぎる自我を持ったひとりの"母"なのである。
 "母"は、"子"を愛し護るもの。その認知に従って、殲宮水母は私に身を守る術として始解と卍解を与えた。
 "母"は、時に"子"を叱り正すもの。その認知に従って、殲宮水母は己にできる方法で"子"同士の争いを治めようとする。

 その方法で"子"が精神を壊され、己を己であると信じる手がかりを失ったとしても、彼女にとっては些事なのだ。
 殲宮水母にとって大事なことは、"子"らがいつまでも穏やかに、命を失うことなく生きていくこと、そしてそれらを自分が愛し護っていくこと、ただそれだけだから。

「"子"同士が争っていたら、心配でたまらないからついつい介入してしまう。どちらが悪いと成否をつけることもせず、ただ武力で意思を押し通そうとする姿勢がいけないからと、彼女はしばしば"子"から争いの原因となる記憶を薄め、果てには消してしまおうとするんです。
 ――感情は永遠ではありません。現実に起きた出来事が薪となって、感情という炎が燃え上がる。薪を失えば、時間経過と共に炎は消えるし、感情は劣化します。どんなに強い憎悪も怨恨も、それを支える記憶がなくなればたちまち拠り所を失って消えてしまいます。そうすれば、残るのは何も知らない、何もわからない・・・・・空っぽの人間だけですから、平和なものですよ」

 逆に言えば、記憶を摘出し撒き散らしても争いが治まらなければ、殲宮水母は躊躇いなどなく更に深い領域の記憶を食い散らし、"子"の魂を傷付けて"子"の命を救おうとするだろう。
 この卍解は、決着が着くまでに時間がかかればかかるほど人を壊す危険なものなのだ。

「それは」浦原隊長が思わずといった様子で呟く。「荒涼とした平和ですね」大理石のように冷やりとした声音だった。
 私はやはり曖昧に頷く。

「昇進を拒むのも、それが理由ですか」
「そうですね、半分くらいは。もしももっと重要な位に就いて、うっかり重要な記憶を見ず知らずの誰かに撹拌されたら堪らないじゃないですか。だから多分、私が頷いたとしてもこれ以上の昇進は事実上無理なんじゃないかと思うんです。私、いつ私じゃなくなるかわからないですから」

 涅さんはいつの間にか退室してしまっていた。きっと聞くに堪えない話だっただろう。部下がそんな危険を孕んだ隊士だったと知って、失望してしまっただろうか。
 すべてをずっと知っているひよ里ちゃんが伸ばしてきた手を弱く左手で握りながら浦原隊長の言葉を待った。
 隊長の瞳が、私の膝に乗ったしわくちゃの手帳を見下ろす。

「…"手帳のうちの一冊失くしただけでも、私にとっては書かれていた間の時間を失ったのと同じ"と言うのは、そのままの意味だったんスね。忘却を認識できないアナタは、それに頼ることでしか過去の自分を再認できないから」
「普通に忘れっぽいところを補う意味もありますけど、まあ、そうですね。この手帳が読めないレベルにまで水没の被害を被っていたら、私は今頃別室で治療を受ける彼女達のことを部下とは再認できなかったわけですし」
「――でも、思い出に付随した感情の再認は難しいでしょう」

 ちり、と胸のあたりが痛んだ。同時に湧き上がった身に覚えのないやるせなさを飲み込むように口を閉ざして、微笑みを浮かべる。

「そうかもしれません。でも、平気ですよ。今日以前の私が彼女達のことをどう思っていたかは手帳を読めば大体わかります。何を失くしたのか、その一点さえ理解できれば悲しくはありませんし、悲しまなければ心は痛みません。普通の人だって日々他人に対する認知を更新して生きていくものですし、私のはちょっと他よりその間隔が短いと思えば、どうとでも」

 涅さんに言わせれば"薄い"私の微笑みに、浦原隊長は応えるように笑みを浮かべてくれた。
 押しては引く波を浜辺から見つめるような、胸をひっかくような寂しい笑みだった。

 隊長は微笑むまま、ぽつりと呟く。

「文字の羅列に過ぎないその手帳をもとに感情を再構築する貴方の心は、一体どこにあるんでしょうか」


「わかりません。――私もそれを、ずっと思い出せずにいます」


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