事件の発生を聞きつけてボクとひよ里サンが隊舎に戻ってきた時には、すでに涅サンが斬魄刀片手に地獄蝶を連れているところだった。
 いつも開発局に籠りっきりの彼が珍しく外に出ていることにまず驚いたが、更に地獄蝶を連れて明らかに現世に向かおうとしているその姿勢にも驚いた。
 息を切らせたボク達を見留めた涅サンは一言「行き先は百十五の三〜百二十の八だ」と端的に呟いて踵を返す。

「待って涅サン、救援はボクが行きます」

 動きを止めた涅サンの足音がやけに大きく響いた。

「部下の不始末は上司がつけるものだ。そうだろう」

 くるりと振り返った涅サンの表情は極めて冷静ないつも通りの色をしているので幾分か安心しつつ、この人にもそれなりに人間らしい感情はあったのか、それともそういう感情を抱かせた彼女が凄いのか、とりあえずどちらにも感心しながら地獄蝶を引き取った。

「事情は把握してます。把握してるので、余計にボクが行きます」
「何故隊長である君が自ら現世に? 判断の根拠が不明だヨ」
「席次上では四席に留まりながらすでに副隊長クラスの実力を有しているはずの彼女が音信不通になってからもう三十分経つからっスよ。あ、補足すると別に涅サンを見縊ってる訳じゃなく、総隊長の決定です」

 それだけで、涅サンは瞳を逸らして不服そうな態度を取ったが、ボクの隊首室に置いてあった斬魄刀を受け取ったボクにそれ以上異議を唱えることはなかった。
 代わりに、それまで静観していたひよ里さんが「気ぃ付けや」と呟く。

「? ハイ、それは勿論」
「アホ、お前やないわ。…乙子が出て戻れへんってことは、奥の手に出てる可能性が高い。相当な覚悟して行かへんと危ないってことや」

 ひよ里サンらしくない妙に回りくどい忠告の意味はわからなかったが、ともかく頷いて穿界門へと走り出した。
 そう言われても、あの優秀すぎる部下が負けている姿はとんと想像できなかったのだ。

どうしても貴方だけはだめなんです


 穿界門から出た瞬間、あまりに濃すぎる霊圧が澱のように足元に滞留しているのがすぐにわかった。
 空は鉛色の雲からいくつか光の柱が洩れており、雨はすでにあがってもうすぐ晴れるだろうと予想できる。歩くたび踝あたりで音を立てる水が、数分前まで降っていただろう豪雨の様相を物語っていた。

 空から疎らに降り注ぐ鋭い光で煌めいた水面はまるで荒れた海。
 雨独特の湿った臭いと腐臭にもよく似た血の臭いが立ち込める此処は、現世とは名ばかりの独立した一つの異界だ。

 その奥に、蒼黒く蠢く――形容しがたい物体がそびえている。
 それが何よりも、この光景を現実と非現実とを明確に分断していた。

「――何ですか、これは」

 背後にいた四番隊の隊士のうち一人が堪えきれずに洩らした言葉が、"それ"を前にした感想をこれ以上なく簡潔に表現している。
 しかし、数メートル先に鎮座する巨大な異物は複雑で、簡素な人間の言葉などによる表現と意味の付与を拒絶しているように見えた。

 それは、無理矢理物に例えるのなら蒼い繭だ。
 半円状のドームの形をしているが、よく見ると外界と内界を隔てる壁は単一のものではなく、複数の蒼いロープのようなもので複雑に編まれている。表面はまるで星空を内包しているように未知の光が粒子として絶えず動きながら煌めいており、なかには薄緑や暗い赤色をした気泡のようなものが流動的に蠢いていた。とはいえ、星空と呼称するには生命感が微塵も無いのだが。


 虚の能力か、それとも此処で戦っていると思われるあの部下のものか測りかねていると、いつの間にか手を伸ばせば触れられる距離に謎の物体が浮遊していることに気が付く。
 それは、一般的なクラゲの形をしていた。青白い傘の部分を持ち、大きさから推測するにまだ産まれたばかりの子供なのだろう。
 唯一普通のクラゲと違うのは、ゲル状の傘から生えた触手が前方で鎮座するドーム状の異物と同じ色をしている点だ。
 呆気に取られたボク達の前で数秒宙を漂ったそれが、ぴたりとボクの目の前で停止する。

 ――瞬間、幻想的にも見えたその体が予告なく破裂した。

「浦原隊長!?」
「大丈夫ですか!?」

 救援隊の声も遠く、束の間暴力的な情報の奔流に脳を鷲掴みにされる。
 …怒り。訳も意味もなく湧き上がる敵意。――忘却よりも質が悪い。大事な思い出の一ページが引き千切られる。食われる。虫食いの喜び。穴の開いた微笑み。
 これは確かに錯乱もする。己のことはもっと信じられなくなるだろう。拘束したはずの彼女が動き出すので、私は自分を追い立てる。
 『反転』する前にすべてを消してしまおう。誰かを殺してしまうくらいなら、脆い自分を見殺しにしよう。安らかに、花を手向けるように、一つずつ、曖昧に、胡乱な記憶を、想いを。どちらにしろ結局命が危険だ。
 まだ生きている部下達を死なせるよりは、マシな選択を。最善を択ぶのではなく、最悪を回避するための悪手を。記憶を食い物に。嘆きを燃料に。怒りを素材に。――"母"の悲しみを引き起こす。「卍解――」



「――…だ、大丈夫っス……びっくりしたぁ…」

 全身に蒼黒い液体を浴びながら、目眩を堪えて手を振った。
 脳に直接実感を叩き込むような映像と感情を伴った情報の暴力。声も色もない靄がかった一瞬だったが、それが彼女――乙子サンの記憶だと言うことだけは何となく理解できた。
 小さなクラゲが孕んでいたのは、この上ない不快感を伴った"記憶"だった。

「乙子サンからの"お手紙"でした……多分、あの中に居ます」

 指さした先に鎮座していた繭が、呼応するように軋みを上げる。
 それまで息遣いもなく固まっていたのが嘘のように、まるで一本一本が独立した生き物のような動きでドームが解けていく。
 数秒を待たずして、空間を非現実で満たしていた原因は跡形もなくいなくなる。残されたのは足元の水面を小さく揺らす波紋だけだ。

 その奥に、彼女は――水月乙子は立っている。

「な……」
「乙子サン!」

 半ば夢見心地で立ち尽くす救援隊を残して、ざぶざぶと冠水した道を歩き出す。
 生きていた。音信不通と聞いていたからてっきりもっと酷い状態かと思っていたが、どうやら自力で歩ける程度には元気らしい。
 ボクの呼び声に反応して、彼女は何気ない仕草で振り返る。
 そして、気の抜けるほどいつも通りな声で首を傾げた。
 ――その足元には、蒼黒い触手で串刺しにされた虚の姿。

「あれぇ、浦原隊長」

 クラゲの触手と思しきモノが無秩序に水面から生え、比較的小型な虚を串刺しにしたまま先端をうねうねとくねらせている。
 ボクに見られていることを認知したのか、それとも乙子サンがそう命じたのか、触手達はすでに死んでいる虚ごとどろりと融けて水面に広がって消えていった。
 全身に傷をつくった乙子サンが穏やかに笑う。

「ええと、あの、浦原隊長…ですよね?」
「え、他に誰に見えます…?」
「その、眼鏡が途中でどこかに行ってしまって。近くのものがよく見えないんです、すいません…」

 乙子サンは何故か申し訳なさそうに眉を下げて手を振った。言う通り、その顔にはいつもかけているはずの眼鏡がない。

「ハイ、乙子サンの頼れる上司、浦原隊長で合ってますよ」
「その微妙な誇張表現、確かに浦原隊長ですね」

 軽口を言って笑う顔はどう見ても青白い。やせ我慢の微笑みを前にして、もっとしっかり部下の様子を見守っているべきだったと後悔した。部下を護ることができなければ隊長として失格だ。
 近寄ってその肩を支えようとすると、彼女はいつも通り恐縮して離れてしまう。
 そのまま何かを思い出したように「それよりも」と言って、斬魄刀を収めながら足元を指さした。

「この人達、本当に瀕死なので、急ぎで搬送お願いします」
「あ、現地で駐在していた隊士達っスね。大丈夫っス、四番隊の皆サンにも同行してもらってるので、此処で応急処置してから動かすそうですよ」
「そうなんですね。ああ、よかったぁ」

 水面に浮かんでいる水死体のような彼らを見下ろして、乙子サンは目元を緩めた。どうやら全員が治療を受けるまで見守るつもりらしい。
 遅れてやってきた四番隊の隊士達に状況説明や搬送優先度を助言する姿を見て、それもそうかと頷いた。
 現世に来る前に聞いた話では、駐在任務に就いていた隊士達の異常事態と聞くや否や彼女にしては珍しくろくな準備もせずに発ったそうなので、水面に浮かんでいる部下達が心配なのは当然のことだろう。
 彼らを選出したのも乙子サン自身だから、余計に責任を感じていたのかもしれない。

 救援隊が散ったのを確認してから、自分の治療は後回しでいいと断った彼女の頬についた泥を拭ってやる。

「心配しましたよ、急に音信不通になるから。しかも途中で観測機ぶん投げたそうじゃないっスか。駄目っスよぉ、いくら見た目が気持ち悪…蟲に似てても、あんな扱いしたら涅サン拗ねちゃうっスから」
「かんそくき」

 唐突に乙子サンの言葉が覚束なくなる。
 その違和感に声を上げるよりも先に、乙子サン自身が「あの人達、命に別状はないみたいですよ」と思考を遮った。

「後遺症は多少残るかもしれませんけど、一応治療で誤魔化せそうな程度の傷で留めたつもりなので、あとは四番隊の皆さんにお任せするしかないです」
「やっぱり戦闘になりましたか」
「なりましたよ。着いた時にはもう手遅れでした。…いやぁ、下手打って復帰不可能になんかしちゃったら所属隊の隊長に私が殺されそうですからね、何とかなりそうでよかったです」

 告げられた言葉に今度こそ思考が停止する。
 どこかから、キイキイ、と背骨が軋むような音だけがしていた。
 "一人一人に駐在任務を打診した彼女だからこそ部下を心配していた"という事実と、今しがたの彼女の発言が結びつかない。
 心底安心したように微笑む乙子サンに、ボクは何と言えばいいのかわからなくなってしまった。

「ところで、あの人達って何番隊所属の人達なんでしょう? 顔は何となく見覚えがあるから、十三番隊とかかなぁ」


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