――振り下ろした右手を、自由の効く左手で受け止める。
 私の意思から一瞬遠のいた行動に驚いたが、阻止された柄の動き――正しくは私の右手の動きに従順な触手は、すでに瀕死の隊士に鋒をめり込ませる寸前で動きを止めた。
 細く息を吐きながら、蒼い触手が水面から生えて静止している様を眺める。自覚が遅れただけで、すでに私も意識の混濁が始まっているらしかった。

 体内の一部分が見ず知らずの他人のものと摺り替えられるような違和感で吐き気がする。前後左右、敵味方の区別がはっきりしている内にさっさと片をつけなければ。
 そう思いながら顔を上げた時、私ではない誰かの身動ぎによって水面に波紋が生まれる。

「―――」

 最初に動いたのは手前で倒れていた男性隊士だった。
 まるで鞭で叩かれたように、唐突にその身体がびくりと跳ねあがる。そしてそれは伝染するように、周囲で気絶していたはずの隊士達にまで広がっていく。
 数秒痙攣を繰り返し、やがて隊士達は水の底の地面を引っ掻くようにしてめちゃくちゃに藻掻きながら立ち上がった。動く度に決して浅くない傷から血が溢れたけれど、そんなことは欠片も意に介していないようだ。

 すぐに私も頭痛に襲われ、頭を抱えて蹲る。
 見ている景色が解けていく奇妙な現象を振り払いたくて、めちゃくちゃに頭を振った。湧き上がる感情が、網膜に焼き付く光景が上手く記憶として定着しない。
 目の前でゾンビよろしく動き出した隊士達が十二番隊の隊士で、そこそこの付き合いのある部下なのはわかっているのだけど、どういう付き合いを経て名前で呼び合うようになったのか、そもそも彼ら彼女らの名前が何だったのかがわからないのだ。
 どこかに必ず在るはずの記憶を辿ろうとすると、突然目の前が真っ暗になる。訳も分からないまま心の底で澱のように残されたのは存在し得ないはずの怒り。

 それは例えようもない不快感だった。記憶を失くすよりも――忘却よりも質が悪い。
 記憶のページを適当に引き千切られて、残ったものをまた適当に脈絡もなく結びつけられたようで吐き気がする。
 忘れてしまう喪失感にも、理由の辿れない感情の揺らぎにも慣れているはずの私でさえ、なりふり構わず身体を掻き毟って叫び出したいと感じてしまうほどの嫌悪感だ。
 これは確かに錯乱もする。
 仲間を助けに来たはずなのに、記憶を辿ってみたらその人のことが殺したいほど憎いことを唐突に"思い出して自覚する"のだから。
 現在と過去が何一つ一致しない現実は信じられなくなるし、そんな曖昧でぼやけた場所を足場にしている己のことはもっと信じられなくなるだろう。

たくさんの嘘のなかになにかがあって


 視界の隅では、鎖に拘束されたままの…彼女ですらも足で藻掻きながら立ち上がろうとしているのが見えた。
 さっき虚が発したのは救難信号代わりの指令電波で、それを受けたモノは過去現在関係なく感情が改竄され、矛盾に耐え切れない記憶がそれに合わせて歪むのだろう。

 どこか他人事のように分析しながら、まだ身体の自由が利く私は自分の頭を拳で殴りつける。
 長くその影響下に置かれた彼らは肉体の損傷具合と本人の意思を無視して、虚の下す命令を実行するため――つまり私を殺すために動いている。
 明らかに感情の『反転』では説明のつかない域まで力が及んでいる気がするけど、魂魄そのものを操る霊体を相手に常識で物事を考えても仕方ないだろう。そこら辺の思考は放棄することにした。
 これ以上動けば彼らは本当に死んでしまうだろうが、生きている限りは永遠に好き勝手操られてしまう。どちらにしろ結局命が危険だ。それはもう充分わかった。

 虚の操作はあくまで記憶が起点。感情を『反転』させるだけであって、記憶の改竄はあくまでそれに伴う副作用。


 ――道具になる記憶が消えてしまえば。

「…うふふ」

 過った最悪の手段に思わず笑ってしまった。自嘲気味な笑い声に、少し離れて横たわっている虚が微かに反応を示した。

 それをしたところで、どうなるかはわからない。何せ私にも上手くコントロールはできないし、正確には記憶を消す訳じゃない。ただ、過去をそうであると認識できなくなるまで滅茶苦茶にひっかきまわしてしまうだけの悪手。はっきり言って最悪もいいところ、倫理も道徳もない。
 …けれど、部下をこのまま虚討伐の障壁として殺してしまうことだけは避けたい。かと言って彼ら全員を一度に相手取りながら、かつ自分も正気を保ったまま殺されまいと全力で抵抗するだろう虚を斃すには時間も体力も技量も足りない。

 …私だって、何か大切なものを失くすかもしれない。
 でも、それでも。

「人が死ぬよりは、いいよなぁ」

 どっちにしろいつまで正気を保っているかわからない私の勝ち目は薄い。下手に応援を呼ばれて被害が拡大したらもう手の付けようがない。強い人が来れば来るだけ収拾がつかなくなっていく。
 …涅さんが応援を呼んでくれるかわからないけど。でもこれだけズタボロな私を見てるなら、ちょっとくらいは哀れんで応援要請くらいしてほしいな。
 そっと死覇装の内側に手帳と一緒に忍ばせた観測機に思いを馳せた。してくれるといいな、というかそれくらいの情はあってくれ。


 声に出した思想をもう一度心の中で反芻する。
 まだ生きている部下達を死なせるよりは、マシな選択を。
 最善を択ぶのではなく、最悪を回避するための悪手を。

 感情は永遠じゃない。
 現実に起きた出来事が薪となって、感情という炎が燃え上がる。薪を失えば、時間経過と共に炎は消えるし、感情は風化する。
 ――記憶さえなければ。


 意を決して、握っていた柄を曇天に向け掲げる。
 振り上げた右腕からはぽたぽたと水滴が零れて、もうこれ以上ないほど冷え切った肌を伝っていった。

「…涅さん、何とか頑張って状況を理解してくれるといいんだけど」

 感情を食い物にして記憶を塗り替えられるのであれば、こちらは記憶を食って感情を劣化させるだけだ。

「卍解――『殲宮水母せんぐうすいぼ』」


 ぴたり、荒れ狂っていた風が止まる。雨の暗い湿度が、昏い粘度にすり替わる。
 宙に伸ばした私の右腕を追いかけるように、水面の下で蠢いていた蒼い触手達が我先にと天を目掛けて縺れ合い、絡み合いながら昇っていく。
 それらは瞬く間に、雨を遮断するドームのような形状になり領域を分断した。
 そこそこの広さを持った空間には、のろのろ立ち上がる隊士達はもちろん、虚も含まれている。その場に居た全員がこの空海月――殲宮水母の領域内に入ったのである。

 水を吸って重たい死覇装を引き摺るようにしながら立ち上がり、瀕死の身体を引き摺って向かってくる隊士達と対峙する。
 水滴を振り払って柄を鳴らした私の背に、ゆらりと大きな影が差した。

 私の背後、頭上で浮遊する巨大な青白い海月である。
 卍解した時のみ顕現する殲宮水母だ。幽玄の美を持つ幻想的な姿は、しかし同時に生理的な嫌悪感を引き起こす毒々しい色彩を持っている。
 半透明な傘の部分で私に影を落としながら、数多の触手のうちの一つで柄を握る私の手を撫でた。粘性のある触手が触れた部分がぴちゃりと音を立て、夜空の星々を内包したように不気味に光る蒼い液体を滴らせる。

「…ごめんなさい。少し力を貸してください、"お母さん"」

 殲宮水母は答えなかったが、代わりに慰めるように、労わるようにこの世ならざる触手で私の肌を丹念に撫でる。その慈悲深さは永劫だ。
 要らない事故を起こしては堪らないので、その触手を握ってあくまで友好的に微笑みを浮かべる。

「まず『腑分け』をしましょう。私の中から奪って構いませんから、仔を一匹産んでください」

 囁き声に従って、私に触れていた触手の先端がぼこぼこと膨らむ。やがて音を立て破裂したそこからは、宙を浮遊する殲宮水母によく似た小さな海月が産まれた。キイキイという背筋が粟立つ鳴き声。
 ふよふよと頼りなく宙を漂うそれに、「私の"友達"にはらわたを見せてあげてください」と言いつけると、それは外界と領域内とを隔てる殲宮水母の触手壁を緩慢な速度で透過していった。
 それを見送って、改めて怨嗟の声を上げながら近寄ってくる影達を正視する。

 意識は最早胡乱だった。

「『反転』しているんだから、今は皆さん私が憎いんですよねぇ……元から私のことが憎い方がいたら、それはそれで悲しいですけど…」

 足元で触手をうねらせ始めた私から、殲宮水母がふらりと離れていく。最早こうなった以上、彼女は"子ら"の争いが治まるのを見守るのみだ。
 そう、あとは、私の頑張り次第。

「迅速に片を付けましょう。…"母"が心配していますから、私達が己の名前を忘れてしまう前に」

 風も雨も、雑音さえも遮断された異空間で、私の声は宙を揺蕩う彼女とは対照的に呆気なく墜落した。



 すでに動ける状態ではないはずの隊士達が一斉に動き出す。
 水に満たされた足場で十分な速度は出ていないがそれはこちらも同じこと。躊躇なく振り下ろされた刀を避けて、振り向きざま斬魄刀を握る腕の腱を突き上げた触手で掻き斬った。
 その反動で姿勢を低くした私に覆い被さるように飛び出してきた一人を避けて体勢を崩すと、片膝をついたところで足首を掴まれる。ついさっき腕の腱を斬ったはずの彼が、鬼のような形相で私の足を掴んでいた。
 力なく投げ出された右腕は動かないようなので、身体機能そのものが停止してしまえば虚による干渉は途切れるらしい。

 分析しながら、柄を握ったままの右手の手首をくいと内側に曲げる。
 水飛沫を上げて水面から飛び出した蒼い触手がどちゃ、と音を立て彼の手首を貫通する。耳を塞ぎたくなるほどの絶叫があがった。
 その声に含まれる怨嗟と憎悪は無視して、解放された足を引きながら身体を起こし微笑んだ。

「大丈夫ですよ、今は私のことが憎くて苦しくても、直にそれも忘れます。忘れてしまえば、痛いだけですからね」

 大丈夫、だいじょうぶ。
 うわごとのように繰り返しながら、キイキイという不気味な鳴き声に束の間目を閉じる。

「―――」

 意識が一瞬霧がかって、次に目を開いて息を吐いた時にはその違和感が何なのかすらもわからなくなっている。
 今見ている景色が、はたまた数秒前の光景が、掻き消されてしまったように白んで戻らない。

 襲い来る彼ら一人ひとりを判別できていたはずの数秒前の自分との別れを惜しむ間もなく、数の暴力で何とか私を抑え込もうと接近してくる隊士達に、触手で命に関わらない程度の毒を流し込みながら、最低限肉体の動作を阻害する程度の傷を負わせ、確実に体の自由を奪っていく。
 今の彼らには保身の思考が無いだろうから、意識を落とすことよりも動きを止めることを優先してやらなければこちらの身が保たない。やっていることはさながら拷問だが、殺したりは絶対にしないから、と意味も無く心の中で釈明した。


 そうして数分格闘しているうちに、敵意に満ちていた彼らの表情が曇り始めた。
 恐らく殲宮水母に何か重要な記憶が食われた・・・・のだろう。赤子のように体を丸めて蹲ったり、倒れ込んだりしている数名は、すでに虚の支配から外れているように見える。
 そちらに気を取られていると、背後から容赦なく腕を捻られ、うつ伏せのまま押し倒されて水の中に倒れ込んだ。拍子に眼鏡もどこかに飛んで、視界が一気に悪くなる。
 変な音を立てた肩は知らない振りを決め込んだ。不思議と痛みはない。

 首を無理矢理捩じって背後を見ると、両腕がひしゃげた女隊士が無理矢理私を上から押さえ付けているところだった。確実に知っている相手…何なら蒼火墜を当ててしまったし鎖条鎖縛で拘束していたはずなのだけど、咄嗟に名前が出て来ない。
 力技であの鎖を壊すことは平隊士である彼女には不可能なはずなので、恐らく無理矢理自分の身体の方を壊して抜け出してきたのだろう。
 虚の認知支配の怖ろしさを噛みしめながら、最早正常に動きそうもない両腕でなんとか私を殺そうとする髪の短い女隊士の後頭部を水面から突き出した触手で打った。

 背中から重しが消えてもしばらく体を起こすことができなくて、水に顔を半分ほど浸したままごほごほと咳き込んでいた。
 無傷の応戦とはいかずそれなりの怪我を負ったし、ずっと卍解を維持し続けているせいで霊圧も枯渇気味だ。正直つらい。

 やっとの思いでころりと仰向けになると、いつの間にか寄ってきていたのか巨大な海月の傘が覗き込むようにして私を見下ろしていた。
 暗く果てのないように見える傘の中身を見つめながら、ふと息が荒いままの体を起こす。
 危うく根本の大事な記憶まで奪られるところだった。危ない危ない。

「休んでる場合じゃないや、さっさと虚を斃してしまおう…」

 ばしゃ、と体を反転させた拍子に、懐から手帳が落ちて水に沈んだ。
 傷だらけになった手でそれを拾い上げて開くと、中にまで水が染みて文字が滲んでしまっている。かろうじて読めるが、このまま放っておけばすぐに判読不能になってしまうだろう。それは困る。

 同時に、手帳と一緒に懐から転げ落ちた小さな物体があることに気付いて水底に手を伸ばす。

「……うわっ、蟲…?」

 外見の気持ち悪さで反射的に思いっきり遠くへ放り投げてしまった。ぼちゃん、と音を立てて波紋が生まれた。
 手帳と一緒に入っていたようだから自分で仕舞っていた説が濃厚だけど、何だってあんなものを自ら進んで隠していたんだろう?
 手帳と同じ場所に入れていたあたり大切なものだったかもしれないと考えもしたが、どうしてもあの生理的に受け付けない外見のナニかが自分にとって大切である意味がわからなかったので、すぐに思考を放棄してしまった。

 ――記憶と行動に矛盾が生まれている。何か忘れてしまったようだけど、この状況じゃ大した損害じゃないな。
 そんなことよりも、虚に止めを。
 はやく終わらせて卍解を解かないと、どのみち誰も此処に入れない。

 周りでぷかぷか浮かんでいる死にかけの知らない人達のためにも、はやくすべてを終わらせないと。
be absent-minded



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