現世の空は曇天だった。まるで夜のような暗さに目を細めながら地面に足を着ける。
 瀞霊廷の穏やかな晴天の記憶を断ち切るように、容赦なく斜めに降り注ぐ雨が地面に叩きつけられ音を立てている。この調子であと数十分も降り続けば、この道も冠水して足元は水浸しになってしまうだろう。

 しとど降る冷たい雨の中を地獄蝶を連れ立って歩み出す。観測機が示した隊士達の位置とできるだけ近い場所に穿界門を繋げてもらったので、本当なら彼らはすぐに見つかるはずだった。
 現世に降り立っても尚霊圧がほとんど感じられないと言うことは、池田くん達のようにすでに瀕死の状態まで追い込まれているのか。嫌な想像を振り切る為に頭を振った。

 雨に濡れながら、張り付く髪をそのままに歩いていく。
 

 やがてどんより暗い道を照らすガスの灯りと出会った。

「前山さん」

 嵐のなか、ガス灯のぼんやりとした光の下に立ち尽くす隊士の後ろ姿を見間違えるはずもない。数日前私が現世駐在任務を打診した。二つ返事で「乙子さんの頼みなら」と頷いてくれた。
 短く切った髪がよく似合う、爽やかな笑顔を浮かべる彼女。
 黒い袴を裾まで水に浸して、私も彼女も絵に描いた幽霊のようだ。

 ガス灯の灯りが不意にゆらゆらと揺れ、明滅する。
 足元すら確かでない暗闇のなか、ふらりと力ない動作で前山さんが振り返る。

 苦しげに寄せられた眉。身体のあちこちには傷。そして何より、顔半分を真っ赤に染めてしまうほどの返り血。
 彼女は青褪めた唇を歪めて血を零しながら、この豪雨のなかでもはっきりと聞こえる声でこう言った。

「貴方は、此処に来てはいけなかった」

なにもかも貴方のせいにしていいですか


 硬い声でそう言って、前山さんは斬魄刀を下に構える。それは明らかに虚による干渉を受けている証だった。
 私も静かに斬魄刀の柄に手を掛けながら、雨で煙って見える彼女の姿を正視し、慎重に言葉を選んでいく。

「――前山さん、私のことが誰だかわかりますか」
「ええ、はい………乙子さん、そんなに久しぶりでもないけど、妙に懐かしい気がします」
「それは何よりです。…他の隊士をやったのは貴方ですか」

 暗い影に同化するように、死覇装姿の隊士が複数名倒れている。
 雨に流されてしまってどれほど出血しているのかまではわからなかったが、この場に立ち込める血の臭いが事態の危険さを何よりも雄弁に語っていた。
 前山さんはがちがち震えながら曖昧に頷く。

「そうかもしれない、し…そ、そうではないかも……わかりません、記憶の混濁が、私にも……」

 寒さを堪えているような震え。けれど歯を食いしばった表情は寒さと言うより、怒りのような。
 口調こそ冷静さを保っているように聞こえるものの、刀をこちらに向けて構えている姿から彼女の内心が『反転』しまっていることは想像に難くない。
 応えるように私も刀を抜いた。

「では、最後に一つだけ。…件の虚は、まだ近くに居ますか」

 獣のように荒い呼吸に肩を揺らしながら、前山さんが顎を引く。彼女は刀を握っているのとは反対の手で、半身を僅かに引いて背後を指さした。
 その仕草に従って、束の間目を凝らして闇を凝視する。

「――うしろ、うしろに――…」

 ぼうと浮かび上がった白い仮面に目を疑った。
 想定していたよりもずっと体の小さな個体だ。しかも、これだけ至近距離、それも真正面に居ながら姿を視認するまで気付きもしなかった。
 潜伏能力の高い虚だ。これなら低級虚と勘違いした隊士が次々"喰われて"いったのにも頷ける。
 豪雨に身を曝し、冷たい水に踝まで浸かりながら、私は微笑みを浮かべて鋒を震える前山さんに向けた。

「わかりました。もういいですよ。あとは私に任せてください」

 雨音に負けないよう声を張ったその宣言に、彼女は瞳だけで心底救われたような表情をした。地獄で糸を見つけたような笑みだった。


 瞬間、私達は互いの活動を止める為に水に浸された足場を蹴った。


 言動こそ何とか平静を保っていた彼女だったが、その剣筋には一切の容赦がない。
 張り詰めた表情は完全に敵意や殺意に満たされて、確実に私の弱点を狙って致命傷を負わせようとしてくる。
 そのあたりは鬼道で彼女の身動きを封じてしまえば一応は止められるんだけども、攻撃を続ける前山さんを躱しながら私は意識だけで近くで佇んだままの虚を探っていた。

 地面に伏せている隊士達も今のところ動く気配はない。
 このまま前山さんを行動不能にした場合私が次のターゲットにされるのか、はたまたすでに瀕死のように見える他の隊士達が何らかの方法で動き出してしまうのか、そのどれでもないのか、それすら明らかではない。
 まだ私は『反転』を経験していないからどの程度の影響力があるかはわからないけれど、もしもそれが心を通じて脳すら支配してしまう力にまで及んでいる場合は息さえあれば死に体の体も操ってしまう可能性がある。
 それよりも前に、何とかして根本の原因である虚を斃す方法を考えなければいけなかった。

 一か八か、両手で振り下ろされた斬魄刀を霊力で強化した右手の刀で受け止めながら、左手を虚のいる方向へ掲げる。

「…君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ――真理と節制、罪知らぬ夢の壁に僅かに爪を立てよ…破道の三十三『蒼火墜』!」

 蒼い焔が吹き荒ぶ雨を切り裂いて虚の方へと放たれた。
 ――その進路に、身を捩って私から離れた前山さんが侵入する。

「前山さん…!」

 可能性を考慮してある程度加減したものの、平隊士が防御もせずに受けていい威力ではない鬼道が彼女の身体に直撃した。
 間違いない。虚によって盾にされたのだろう。
 一度奴の支配下に置かれてしまえば、身体が動く限りは奴の思うままの人形にされてしまうということか。

 それさえはっきりすれば、もう少し手の打ちようはある。

「縛道の六十三『鎖条鎖縛』!」

 爆風に包まれていた前山さんの体を太い鎖が拘束する。
 そのまま右手に握っていた斬魄刀をくるりと逆手に持ち替え、鋒を地面に向けたまま小さく解号を口にした。


「――揺蕩え『空海月』」

 構えた斬魄刀の、青白く透き通っていた刀身が唐突にぶくりと膨らむ。
 純度の高い氷のような白花色がたちまち青く、やがて蒼く変色しながら水風船のようにぶくぶくと膨らみ――破裂した。
 現れたどろりと粘性を持つ刀身だった液体が水浸しの足元を蒼く塗り替えていく。
 刃だった部分すべてが液状化し握っている柄だけが残されると、足元に広がっていた蒼はすでに水と同化し判別がつかなくなった。


 水を掻き分けて一歩を踏み出すと、水分を吸って重くなった死覇装の裾が波を起こす。
 顔を上げて、何も言葉を口にせずこちらを見つめている虚の仮面の落ち窪んだ眼窩を見据えた。

「動かす人形はもういませんね。そろそろ自分で仕留めに来たらどうです?」

 言いながら、握った柄だけを一振りする。
 虚は応えず、けれども自分の身に迫った見えざる力を感知して真横に跳ぶ。――その軌道を追って、虚の動きを凌駕する速度で蒼い触手が雨を弾くつるつるとした皮膚を掠めた。
 耳障りな悲鳴を上げて身を捩った虚の背後から再び触手が飛び出す。その速度と鋭利さから最早飛び道具のようなそれに身を貫かれた虚がのたうち回る。

 空海月の触手は毒を持つ。肉体を痺れさせるものだったり、全身の筋肉を麻痺させるものだったりとその効果は時々変わったりするけれど、一発でも掠れば接触箇所から徐々に体が動かなくなっていく。
 触手が貫通した虚は、間もなく動くことすらままならなくなるだろう。

 水に浸透し広がった空海月の触手が雨水の中で時折実体化しうねうねと蠢いている。それに少し足を取られながら、痙攣する虚に歩み寄っていく。

「本体はそれほど強くないんですね。これなら、何とか私だけで済みそうです」

 言いながら握った柄を振り上げる。
 振り上げて、絶句した。
 動けなくなったのだ。

 身体の異常を感知した瞬間から一拍置いて、キーーーーーーーーンという酷すぎる耳鳴りのような音が鼓膜を劈いた。脳がひっくり返されるような吐き気。
 全身を透過した衝撃波のようなものに堪らず膝をつく。それが虚から発せられたものだと言うことは理解できた。
 けれどそれ以上のことを考える前に、火花が散ったように視界が白む。

 言いようのない不快感と喪失感、そして混乱。
 漸く波を引き始めた吐き気と頭痛を堪えて目を開いた時には、視界に映る手が自分の手ではないような気がした。
 敵は目の前にいると言うのに、体が勝手に振り返る。


 背後で疎らに倒れ伏している部下達の姿を見留めると、何故か私は握った柄を振り下ろして――――


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