ぱらぱら、と手帳を捲って中身を眺める。
 別に記憶がなくなった訳じゃなかったけれど、何となく忘れていることが無いか怖くなって、時々こうして日々の記録を意味もなく見返すことがあった。
 もう少しで書き込みのできるページがなくなりそうだったので、そろそろ新しいものに引継ぎをしておかなければいけないだろう。

「……ええと。私は、水月乙子…」

 一番最初と最後のページに書いている一文を何となしに読み上げた。
 自分が何者であるかの記述はそれだけで、逆に言えば名前さえも忘却する可能性がある私は、けれども自分が死神であることは絶対に忘れたりしないというある種の信頼の証がそれだった。
 名前を忘れても、別に刀の握り方を覚えていて、仕事のことをちゃんと思い出せて、死神として生きていけるのなら私は多分それで合っている。
 
 …自分に関する記載は必要最小限にした過去の私のことを私はもうあまり覚えていないんだけど、過去の手帳を見るにそう・・らしい。
 初志貫徹とは対極の生き方をしていると自負しているものの、もしかしたらその認識が"志"に当たるのであれば、私にも最期まで貫けるモノがあると言えるかもしれない。
 最初から最期まで死神として働いて死ぬ。
 名誉だとか誇りだとか、そういった美しいものとは縁遠い理念が、満ち欠けを繰り返す私を構成する最小限だ。

決して君を見縊っていたわけじゃない


「涅さぁん」

 長い会議から戻ってきた私を振り返って、涅さんは心底嫌そうな顔をした。
 これでも少なくない時間何度も隊長格と議論を重ねて、何とかその強者独特の圧に負けないように頑張ってきたと言うのに、そんな健気な部下に向けていい表情ではない気がする。
 特徴的なお化粧のおかげで不機嫌な表情の迫力に拍車がかかっている。

「その呼び方は浦原喜助を彷彿とさせる。この場に居ない者を思い出して苛立つのは不愉快だから止め給え」
「また無茶言いますね…だって名前で呼ばれるの、お嫌でしょう」
「当たり前だ」
「…努力します…」

 涅さんはたまに私と浦原隊長が似ている旨の指摘をするが、正直出会ってまだ半年も経っていない上司と部下に似ている似ていないの議論は無駄な気がする。だってどう考えても似ていない。
 ひよ里ちゃんに訊いたら「無性に腹立つ感じの言い方しとんねん」と突き放されてしまったし。あれだろうか、絶妙に人の神経を逆撫でする周波数の声をしているんだろうか。

 思考に意識を埋没させていると、涅さんが視線で用件を促したので脇に挟んでいた書類束から一枚を抜き取って差し出した。

「超小型観測機、やっと通りました。とりあえず例の事件が頻発している空座町付近の隊士に携帯をお願いすることになったので、人数分の用意をお願いしたいです」
「とっくにできているヨ。必要分だけ勝手に取って行き給え」
「わぁー頼もしいです」

 がさっと観測機が入っている籠を突き出された。そんな雑な収納でいいんだろうか。
 そう思いつつ、口に出したらまた「そんな軟な作りはしていない」と怒られてしまいそうだったので、大人しく頭を下げて人数分拝借した。
 一つを摘まみ上げてやっぱり生理的に嫌悪感を抱いてしまうデザインのそれを眺める。それから、静かに涅さんの背中に視線を流す。

「……個人的に一つ持っていてもいいですか?」
「…それは自主的に情報収集に協力するという意志表示かネ? あれほど気持ち悪いと絶叫していたのにどういう風の吹きまわしだ?」
「いや、デザインについては追々協議を重ねていけたらいいなと希望してますけど…」

 涅さんが聞いて感心しそうな考えは特に無いんだけど、と思いながら室内に並んだ監視用モニターをざっと流し見た。
 浦原隊長達の根回しで、それらは色々な場所を常に映しており、見ようと思えば尸魂界全域の様子を見ることもできるらしい。そのなかで、十二番隊の隊舎内を映しているものは実はそんなに多くない。注視して見ようと意識しない限りはきっと視界にも入らないだろう。

 けれど涅さんは、先日の十一番隊の隊士と対峙していた私をずっと見ていたと言う。
 別に涅さんが私をずっと見ていると思っている訳ではなく、涅さんはこの膨大な数の映像情報を正確に処理して、かつ取り囲まれて困っている私を観察して体幹がどうのと感想を述べられる程度に余裕があるという事実に他ならない。

 道徳観や倫理観、必要最低限あると生きやすいだろう他人への思いやりの欠如は度外視すれば、これほど頼もしい直近の上司が他にいるだろうか。
 それに、この妙に薄暗い研究室で働いている新しい十二番隊の構成員達を、私はもうずっと好ましく思っていた。
 それは涅さんも例外ではない。


「これがあれば、何か起きても涅さんがずっと見ていてくれるんですよね。外見はともかく、持っていた方が安心じゃないですか」


 外見はともかくですよ、と念押しすると、それまで背を向けていた涅さんがくるりと椅子ごと振り返る。
 こちらに顔を向けた涅さんは奇妙なものを見たような形容しがたい表情を浮かべて、半ば愕然と私を見ていた。珍しく思考まで凍り付いてしまっているらしく、口は小さく開いたまま何の音も発しない。

「でもただ眺めてるだけじゃ私が死んじゃうかもしれませんから、せめて応援要請くらいはしてほしいですけど。涅さんがわざわざ現場に来てくれるとは思ってませんから」
「―――」

 眼鏡を押し上げながらそう言ったところで、ようやく涅さんの瞳が生物的な動きを取り戻す。
 嘆息するように重い息を吐き出して、特徴的な声音が「君は」と小さく呟いた。
 それから少し迷うような素振りで、数秒の間。

「…………いつも私の想定を超えて気持ち悪いネ……」
「え? 今の話のどこに私が気持ち悪い要素ありました? 何で上司を信頼すると蔑まれるんです…?」

 涅さんが私を気持ち悪いだ何だと非難するのはもういつものことだけど、相変わらず彼の地雷はよくわからない。
 限界まで余所余所しくしろだの馴れ合うなだのと謎の要求があるけれど、絶対険悪な職場でお仕事をするより職場でだけでもそれなりの人間関係を築いていく方が効率的だろうに。
 十二番隊・技術開発局の最高責任者たる浦原隊長は私も涅さんも特に咎めることはないし、何より涅さんに一番嫌われているのは暫定浦原隊長なのでもうこの件については誰も改善の兆しが望めないと半ば諦めている。
 まあ、めちゃくちゃ冷たくされても本気で傷付く身体的な悪口だとか、嫌がらせだとかに発展しない辺りはまだ良心的な嫌悪だろう。…いや、嫌悪に良心的とかあるのかな…? わからないけども。

「よくわからないですけど、毎度ご期待に沿えずすいません。そろそろ始業時間なので、退却しますね。本当にこれ持って行っていいんですか?」
「同じことを二度も訊くな」
「すいません。あ、今の書類は目を通したら処分して下さって結構ですので」
「あァ」

 世間一般の"上司部下"図と比べるには圧倒的に良識が足りないけど、それでも結構良好な関係だと思うんだけど。
 そう思いながら、しっしと私を追い払う真っ白い手に苦笑いしながら開発局を後にした。私は犬か。




 その日の業務は凡そ滞りなく進められていた。
 特筆する点もなく、いつも通り書類を捌いて、たまに隊士が持ってくる書類に署名をしたり、他所の隊からやってくる隊士の応対を隊長に代わってこなしたり、開発局から隊長を引っ張りだしたり、そういういつも通りだ。
 午後からは浦原隊長とひよ里ちゃんが用事で隊舎を外すので、隊首室の扉にはこの間ひよ里ちゃんと手作りした"隊長不在"の札を下げておいて、私は来客があった時に気付けるように執務室の扉を全開にしている。
 室内の窓も少し開けているので風通しがよく、たまに飛んで行きそうになる書類も適当に文鎮や本を重しにしておけば万事解決。あとは快適な仕事場だけになった。

 最近の隊士達は隊舎と開発局を頻繁に行き来するようになったので、隊舎には以前ほど隊士がいない。思っていたより馴染むのが早くて何よりだなぁと頷いていたのは記憶に新しい。
 旧十二番隊のアットホームな雰囲気を少し削って科学屋な一面をエッセンスに再構築された新十二番隊は、思っていたよりもずっとずっといい状態に着地しつつある。
 此処に藤さんとあきさんが居ないのはやっぱり寂しいけれど、それを業務中に思い出すことは少なかった。
 色々なものを振り切って潔く"再建築"された十二番隊に、隊士達が心を決めてくれたことも大きな要因だと思う。再建築と言うのは文字通りの意味だ。


「…あ、これ提出来週までだ。あ〜、署名だけ欲しい…」

 小声で言いながら、結んだ髪が乱れない程度に後頭部を掻く。
 結局再配置された新任の駐在隊士達は数日前に現世に到着していて、一緒に持たせた超小型観測機も一緒に現世に渡った。
 それに伴って、代理に立候補してくれた隊士達の直筆の署名を加えた報告書を一番隊に提出しなければならないのだけど、如何せん色々急いでいたので完全に存在を失念していた。

 結局池田くん含めた現世に駐在していたウチの隊士達は正式に復帰不可能と判断され除籍となった。
 その事後処理と新しい隊士の派遣が重なって忙しかった、と言い訳はしようと思えば沢山湧いてくるのだけど、それで「じゃあしょうがないね」とならないのが仕事である。


 仕方なく現世に向かうべくこっそり地獄蝶を一匹引き取りに行って、隊舎に帰って来たところで人気の少ないはずの隊舎が妙に騒がしいことに気が付いた。
 また十一番隊の強襲かと失礼なことを考えながら廊下を進んでいくと、どたどたと足早に走っていた隊士が「水月四席!!」と叫んで足を止めた。どうやら捜されていたらしい。

「はい、何かありました? 隊長とひよ里ちゃんはしばらく戻ってきませんからね、私で対応できることだといいんですが…」
「――現世の隊士達と連絡が取れなくなりました! 観測機からの映像ではすでに例の異常事態が……!!」

 持っていた書類が手元でぐしゃりと音を立てた。驚きと言うよりは、とうとう来たかという諦念と覚悟。
 顔を真っ青にして報告してくれた隊士を押しのけるように執務室に入ると、最早ゴミと化した紙を手放して斬魄刀を引っ手繰ると強引に帯の間に差し込んだ。
 髪を振り乱しながら部屋を飛び出した私の後を、ふわふわと黒い蝶が追いかける。

「場所は?」
「空座町の北東部です、百十五の三から百二十の八の辺りだと…」
「それ開発局基準の呼称ですか? ああ、帰ったらそれも覚えないと…」

 言いながら足音を立てて廊下を足早に進んでいく。私を追いかけるのは地獄蝶と報告してきた隊士だ。

「四席! どこに――」
「現世です。また除籍なんて言う一番最悪なお別れは御免ですから。それと、隊長には連絡がつき次第このことをそのまま報告してください。以降の指示は涅さんに仰ぐように」

 目的は違うけれど、元々現世に向かおうとしていたので、あとは穿界門を通ってしまえば現場に辿り着ける。
 本当は隊長の許可を得てから向かいたいところだけど、この状況でそれを待っていたらまた瀕死の隊士の顔を拝むことになってしまう。それだけは嫌だった。

「ああ、それと…涅さんに"ちゃんと見ててください"と、伝言お願いします。それでは」

 それだけ言って、瞬歩で隊舎を後にした。
 腰の辺りで音を鳴らした斬魄刀に手を添えながら、ちりと痛む胸を押さえて、あとはそう、どうなろうと後の祭りだ。
*reboot all



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