あの後池田くんは興奮状態を脱し、無事鎮静剤が効果を発揮し始めたので私は一旦十二番隊に戻ることになった。
 卯ノ花隊長と少し事務的な話をしてから綜合救護詰所から出ると、入口すぐの壁に凭れかかっていたひよ里ちゃんと目が合った。
 どちらともなく歩み寄る。
 ひよ里ちゃんの小さな頭を抱き寄せて、大きく息を吐いた。

「…びっくりしたねぇ」

 びっくりしただけかと突っ込まれるかと思ったけれど、存外私の声も鉛のような重さを持って沈んでいたので、ひよ里ちゃんは何も言わずに頷いた。
 正直びっくりした程度じゃ済まないくらい動揺していた。していたけども、これ以上私が慌てても仕方ない、と早い段階で自分の感情に見切りをつけていて助かった。

 池田くんは曳舟前隊長時代から十二番隊にいる男の子で、その優秀さから席官入りも近いだろうと噂されていた模範隊士だった。
 もちろん、私もひよ里ちゃんも彼のことはよく知っている。

「――…帰ろっか。皆待ってるよ」
「……ん」
 
 四番隊の敷地から十二番隊の隊舎までの道のりを歩いて帰った。
 久しぶりに、手を繋いで。

一生憎まれていられるならそれでよかった


 私達が十二番隊に戻った時には、もうすでに浦原隊長が負傷して帰ってきた隊士全員分の斬魄刀の分析を終えていた。
 開発局の奥にある小部屋で、モニターに表示された検査結果を見上げながら浦原隊長とひよ里ちゃん、涅さん、私の四人で報告と情報の擦り合わせを行っていく。

 まず今回重症で帰還した隊士の名前と、それから復職するのは難しい者もいること、それと――

「斬魄刀の分析結果っスけど、斬魄刀自体に異常の痕跡は発見できませんでした。刃に付着していた血液は間違いなく彼らのもので、あちこちについていた指紋も本人のものだったんで、事件の渦中に第三者が介入していた可能性は低いっスね」
「池田くんたちは池田くんたちだけで戦ってたってことですね。第三者に襲われたとか、そういうことはなく」
「そうっス。そうなるとやっぱり実体的介入じゃなく精神的介入…例えば何らかの記憶操作、精神汚染っていう可能性が浮上してくるんですけど、意識のあった彼はどうでした? 何か訊き出せました?」
「正直発言のほとんどが朦朧としていて怪しかったですけど、どうやら事件が起こる前に虚と戦闘に入っていたことは間違いないみたいです」
「そんなことは想定済みだヨ。もっと真相に肉薄する情報は無いのかネ」
「すいません…」

 涅さんはいつも遠慮がない。
 今日ばかりは言葉を返す気力もなかったので、曖昧に笑みを浮かべて頷いた。

「でも、しきりに"ひっくり返ってしまった"って言ってました。記憶を繋げていてはいけない、まるで裏表が逆になるみたいに……って」
「記憶を繋げていてはいけない…?」
「記憶の混乱も想定していたより程度が重いです。卯ノ花隊長の言う通り水月乙子を覚えてはいるようでしたけど、私を見ても水月乙子だとは確信できなかったみたいです。あれは多分一時的なものじゃないんじゃないかな…穴が多すぎますし、思い出せないと言うよりは視界に入ったものを脳の記憶と関連付けられなくなっているみたいな……」
「そこら辺の『忘れた思い出されへん』の感覚はうちらにはわかれへんぞ」

 ひよ里ちゃんの言葉にうん、と頷きながら私は少し困ってしまって、指で顎をなぞりながら言葉を選ぶために思考を巡らせる。
 池田くんの言葉はほとんど確かじゃなかったので断言していいものか迷うけれど、あれは多分一般的な一時的記憶喪失のようなものよりも、私寄りの忘却の類なんじゃないかと今は思っている。
 彼の錯乱を惹き起こした原因が記憶喪失なのではなく、何らかの事象が影響した結果彼は錯乱し、その副産物として記憶の混乱が起きたのではないだろうか。

「…例えば、私は涅さんを見た時に、髪が紫色で、お化粧をしていて、身長はこれくらいで…という風に外見情報が記憶している涅さんのものと一致した場合、目の前にいる人を涅さんと認識しますよね。もし涅さんが髪の色を変えてみたりお化粧をやめたりしたらびっくりして最初は混乱しますけど、その場合は他の特徴と照合しながらそれが誰であるかを推測すると思います。
 池田くん、どうやらひよ里ちゃんや隊長のことを完全に忘れている訳ではないみたいなんです。浦原隊長のことは思い出せないけど最近隊長が変わったことは覚えていましたし、ひよ里ちゃんのことも、背が低いとか女性であるとか、そういうことはわかっているみたいでした。でも、対面した相手が自分の記憶している相手だとは思えなくなってしまっているんです。まるで分厚い本の一ページを適当に千切ってしまったみたいに。
 歪んでしまった経験によって蓄積された記憶と、目の前に在る現実存在が同一のものであると信じられなくなる――記憶が信じられないと言うことは自分の存在が信用できないのと同じですから、それで彼は二人を見て錯乱したんでしょう。
 私の場合は外見情報と記憶の齟齬はそれほど大きくなかったようですが、私の詳細な記憶はほとんど抜け落ちてしまっていて話になりませんでしたから、余計な混乱を防ぐ為にも早めに退室して正解でした」

 ずっと暗いままだった顔を僅かに上げたひよ里ちゃんの傍らで、「じゃあまずは乙子サンのその…忘却の勘を信じるとして」と浦原隊長が持っていた資料を指で叩いた。

「記憶の混乱と、所謂『反転』は別と考えた方がいいようっスね。池田サンの口ぶりからも、『反転』が先、記憶の混乱が後で間違いないようですし。そうなると何かが『反転』した後に記憶の混乱が起こった訳ですから、じゃあ一体何が引っ繰り返っちゃったんだろうって話になるんですが」
「…心。人格ではないのか」

 ややあって涅さんの口から飛び出した言葉に、三人で目を見開いてしまった。発言そのものに驚いたと言うより、あの涅さんから心というワードが出てきたことが意外だったからだ。
 涅さんもそう思っているようで、私達の視線に辟易したような表情を浮かべる。

「涅さん、あの…心と人格って言うのは同じ意味なんでしょうか? そこら辺の学は私もひよ里ちゃんも全く無いので」
「…詳細に説明したところで君達が理解できるとは期待していないので、おおよそ同じものと考えていいだろう。人間の心と言うのはその人物が過去経験してきた出来事によって形成されていく。過去の体験を記憶として蓄積する一方で、それに伴って発生した感情も思い出として記録されることになる。つまり自身の経験によって積み重なる記憶にはその時の感情…心もセットになると言うことだ。勿論、この場合知識としての記憶は対象外になるがネ」

 涅さん、言い方がいちいち刺々しい割にはちゃんと私達にもわかるように説明してくれるんだよなぁ。
 つまり、池田くんの中にある私の記憶は、その時々の彼の私に対する感情もセットで保存されているということだろう。記憶に関わる人が増えれば付随する感情も増えていく。
 確かに、情報として得た記憶はただの知識だ。教科書で読んだものを思い出とは呼ばない。過去の経験と感情が伴って初めて思い出、と呼べる記憶ができる。

「特定の人物を唯一たらしめるのは人格。人格の形成は殆どを記憶に依存しているから、その記憶が変われば最早その人物は過去と全く同じとは言えなくなるだろう。ところが件の彼の場合、錯乱が先で記憶の混濁が後だと言う。記憶は勝手に書き換わったりはしない。錯乱した結果、何かを防ぐために脳が防御反応を示し、記憶が歪んだ…」
「……ええと、つまり?」
「思い出に付随した感情の記憶のみが反転、記憶の保持に問題が生じ脳が感情に焦点を当て記憶を修復しようとする、結果一部の記憶の改変・混濁が起こり整合性が取れず対象が錯乱、防御反応として蓄積してきた記憶全体が歪曲──妙な記憶喪失が発生、という流れが予想できるということだヨ」
「じゃあ最初からそう言いや。長いねん、話が」

 また喧嘩になりそうだったひよ里ちゃんと涅さんを引き剥がしつつ、なるほどと内心頷いた。
 心と記憶。ワードだけで聞けばどちらも目に見えないあやふやな実体の無いものだし、心なんかは特に詩的な領域の概念である印象を受けてしまうが、心とは要するに脳の反応であるから、それを踏まえれば同じく脳に保存される記憶と密接な関りがあると言われても納得できる。
 思い出を形成するのは記憶と心で、どちらが欠けても当人には欠損として違和感が残る。
 無理矢理手を加えられた心に合わせて記憶まで歪曲するなんて事象は聞いたことがなかったけれど、脳にとってはどちらが重要かなんて基準はないだろうし。結局突き詰めればどちらも脳の信号に左右される小さな概念であることに変わりないのだから。

「心を攻撃してくる虚、ってすごく厄介っスね。恐らく過去に起きていた同じ事件を経て、そいつの力が強くなってきていると考えていいでしょう。乙子サン、例の事件が最初に確認されたのってどれくらい前でしたっけ?」
「ええと、二週間くらい前ですかね」
「成程、それだけ時間があれば魂魄喰らい放題ですね。天敵の死神も仲間割れさせてしまえば手出しはできなくなりますし、そろそろ共食いが始まってもおかしくない頃じゃないかな」

 共食いが進めば、今は巨大虚程度だろう奴もすぐに大虚――メノスグランデに変化してしまうかもしれない。そこに至るまでにどれほど被害が出るかなんてことは考えたくもなかった。

「現世への駐在任務、平隊士は一度帰還許可出してもらえるように一度総隊長に進言した方がいいかもしれませんね…事件が頻発してるのは、ええと…空座町の付近でしたから、周辺の隊士は一度帰還して、席官クラスと入れ替えるなりして対策を取らないと」
「そうですね。総隊長にはボクから話をしておきます。乙子サンは今回帰還した隊士の代理をどうするか先に考えておいてもらえますか」
「了解しました。うちの隊士を回収してくれたのが七番隊の隊士ですから、愛川隊長に会ったらお礼もお願いします」
「任されましたぁ」
「ちょ、ちょっと待ちや! 平隊士で話にならんから池田達があないになっとるんに、何でまた派遣の話になんねん!?」

 ひよ里ちゃんの言うことはもっともだ。これ以上平隊士を現世に向かわせても同じことが繰り返されるだけなのは容易く想像ができる。
 本来なら、今すぐにでも現世に居る他の隊士達と通信をとるべきだろう。

「…でもひよ里ちゃん、そんな危険な虚がいるなら尚更野放しにしておく訳にはいかないよ。現地の魂魄がどれだけ被害を受けているかなんて言うまでもないし、それに許可が無いまま勝手に任務を放棄させるようなことはできないでしょう」
「せやったらうちが…!」
「隊長格は瀞霊廷の守護に就いたままの方がいい。…大丈夫、いよいよとなったら私が行くから」
「…そうですね、それに関しては同感っス。席次順的にも乙子サンが妥当だと思います」

 自分を忘れてしまった池田くんのことが頭に過ったのだろう、ひよ里ちゃんが弱く私の死覇装の袖を掴んだ。
 その小さな手にそっと手を重ねて、大丈夫だよと根拠もなく笑みを浮かべた。

「浦原隊長がきっとすぐに総隊長に話を通してくれるだろうし。それに私、普段から忘れることには慣れてるから」

 握りこぶしを作って、納得いかなさそうなひよ里ちゃんを安心させるつもりだったのだけど、彼女にはお尻を蹴っ飛ばされたし、何故か涅さんからは盛大な舌打ちまで頂戴してしまった。
 一体今のどこに二人の怒りを煽る要素があったのかわからない。


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