「ひよ里ちゃーん、この任務報告書、奥に仕舞っちゃっていいかな? 流石に三十年前のものなんか頻繁に読み返したりしないでしょ」
「うん…ていうか、何で三十年前のが最近のやつと肩並べとんの?」
「わかんないけど、多分曳舟隊長が日誌とか持っていったからスペース空いた影響だと思う」

 振り返ったひよ里ちゃんに見えるように報告書が纏めて綴じられた紙束をぺらぺらと捲る。そこそこの年代物なだけあって紙は少し黄ばんでいて、背表紙なんかも日に焼けて変色してしまっている。
 一応規則で報告書はすべて綴じた後ある程度は隊で管理し、それが溢れたら今度は別の場所にまとめて移されることになっているものの、言った通り読み返すことなんてほとんどないので正直ただのインテリア…鑑賞物となっている。
 隊首室が浦原隊長によって"模様替え"されてしまった影響で、とりあえず執務室にそれらを避難させていたのだけど、そろそろどうにかしなければと重い腰を上げたのだ。

「やっぱりさ、こういうのの保管を義務にするんだったら隊舎の外とかに一括で所蔵できる書架みたいな独立した建物ほしいよね」
「喜助に言えばそれくらいするやろ。あんなデカい建物一から建てるよりずっと簡単やから」
「建物一つ建てるのって簡単じゃないでしょ…言いたいことはわかるけど」

 確かに、ひよ里ちゃんの言う通り技術開発局の建物を建てたことに比べたら、ただ書類を保管できればいい倉庫を建てることなんてわけないだろう。
 ほとんど私専用の作業場と化している執務室で日の目を浴びずに鑑賞物になっているよりは、湿気や強い日差しを避けられる場所で適切に虫干しをされながら保存される方が彼らも安心だと思うのだ。
 様子を見ていると、開発局の局員達も積極的に論文や研究資料を作ったり集めたりしているようだから、書庫を兼ねた蔵の建設を前向きに検討してもいい気がする。

「今度浦原隊長に話してみようか。この山積みスペースが空いたら、仕切りを立てて応接室にしてもいいかも。ねえひよ里ちゃん――」


 ――ガンガンガンガン!!!


 突然耳を劈いた警報音に肩が跳ねた。
 持っていた書類束を派手に取り落として、ばさばさと音を立てながらくすんだ紙が広がる。
 それまで雑談をしていた口を閉ざし、告げられる警報の内容に耳を澄ませた。

『――緊急招集! 緊急招集! 十二番隊隊長、及び副隊長は四番隊綜合救護詰所までお願いします!』

 …十二番隊。ちら、とひよ里ちゃんを見る。
 すぐに背後から駆け足の足音が聞こえてきて、隊首室の扉を押し開けながら浦原隊長が顔を出した。

『現世駐在任務に就いていた十二番隊隊士複数名が重症で帰還しました! 霊圧反応微弱です、十二番隊隊長、及び副隊長は――…』

「ひよ里サン」
「…行ってくるわ、乙子」

苦しいのも悲しいのも同じだったら


 浦原隊長とひよ里ちゃんが招集に従って隊舎を出てからすぐ、今度は四番隊の隊士が執務室を訪れた。
 ただごとではない警報の内容に静まり返っていた十二番隊隊舎にやってきた彼は控えめに私を呼ぶと、「浦原隊長と卯ノ花隊長がお呼びです」と言った。

「私ですか…? 隊長と副隊長はどうされたんです?」
「救護詰所に居られます」
「……、…わかりました。すぐ行きます」

 結局あれから心配で大して進まなかった執務室の整理を中断して、四番隊舎へと駆け出した。


 緊急事態、最悪訃報も覚悟しながら向かった四番隊・綜合救護詰所は嫌な静けさで満ちていた。
 清潔感溢れる白で塗られた壁がどこか灰暗く見えて、奥に足を踏み入れると板張りの床には血の跡があった。
 まるでここで惨劇が起きたような状態に、死覇装の裾を握り締めながら「十二番隊四席、水月です。お呼びと伺い参りました」と声を張る。
 ややあって、病床のある奥の部屋から卯ノ花隊長が現れた。

「水月さん。よく来てくれました」
「卯ノ花隊長、あの、どうして私が? 浦原隊長とひよ里ちゃんは…」
「浦原隊長は技術開発局へ。猿柿副隊長は別室で待機して頂いています」

 帰還、別室で待機。益々私が呼ばれた意味がわからなかった。
 卯ノ花隊長の様子を見るに、重症で運び込まれた隊士達の誰かが死んだわけではないようだし、それなら負傷の原因は本人達が回復し次第聞き取り調査をするのが定石じゃないだろうか。

 微かに首を傾げた私を見て、卯ノ花隊長は病室の扉を後ろ手で閉めながら説明してくれた。

「まず、帰還した隊士に亡くなった者はいません。全員重症であることに間違いは無いですが、今すぐ命に関わることはないでしょう」
「そう、ですか…」
「……ですが、数名は回復しても死神としての復帰は難しいかと思います。腕の腱が切れている方や、救命の為に手足を切断せざるを得なかった方もおりますから、まずはそれを理解してください」
「……」

 卯ノ花隊長の口にした言葉を静かに飲み込み、疑問を口にする。

「彼らは、例の隊士同士の仲間割れによる怪我で搬送されたんでしょうか」
「…恐らくは。彼らを発見し運んで来たのは、付近の区域で任務に就いていた七番隊の隊士達です。彼らが異常を察知して駆けつけた時にはもう全員が瀕死の状態だったと聞いていますから、もし発見が遅れていたら、本当に同士討ちになっていたかもしれません」
「……斬魄刀は」
「回収済です。そちらは分析の為、浦原隊長が持ち帰りました」

 なるほど、だから浦原隊長は開発局に戻ったのか。
 頷きながら、もう一つの疑問を提示した。

「…では、私は何故呼ばれたんでしょうか?」
「手術の際にほとんどの方は麻酔で眠って頂いているのですが、一人だけ、麻酔の効き目が無く搬送中に意識を取り戻してからずっと錯乱している隊士の方がいるのです。記憶の混乱があるようで、浦原隊長と猿柿副隊長のことがわからないようなのです」
「…わからない、とは?」
「お二人を前にしても、彼らが誰なのかわからないようでした。他にも自分の所属や任務のことについても。…発言の中にかろうじて貴方の名前が聞き取れたので、少しでも落ち着きを取り戻してもらう為に水月さんを呼ぶようにと、技術開発局に戻る前に浦原隊長が仰っていたのです」

 正直話の概要はあまり理解できていないけれど、死覇装の袖をほとんど血で汚している卯ノ花隊長と、床に残されていた血痕を前に、「よくわかりません」なんて言えるほど頭が悪い訳ではない。
 傷付き苦しんでいる部下が自分を呼んでいると言うのなら尚更、少しでも上司としての責務を果たすべきだ。

 ぐ、と両手を握り締めて、俯かせていた顔を上げた。

「わかりました。……話をさせてください」




 通された室内は、病室と言うよりは広い安全房のようだった。高い位置にある窓から日の光が差し込んでいるにも関わらず、室内は薄暗い。
 その最奥にあるベッドで、金属を軋ませる音が断続的に響いている。

「池田くん」

 私の声に反応したのか、不安になるほど鳴り続けていた音がぴたりと止んだ。
 できるだけ足音を立てないようにベッドに歩み寄ると、四肢を拘束された年若い隊士が、見るも無残な怪我を負ってそこにいた。
 幻覚でも見たかのような表情で、血走った眼球がぎょろぎょろと私を見上げる。身体のあちこちは傷だらけで、きっと酷い暴れっぷりに手当のしようがなかったのだろうと推測できた。
 彼からはつい先日も定期連絡で報告を受けたばかりだったが、あの気性の穏やかな喋り方をする池田くんが正気を失いかけた貌をしているのは信じがたかった。

「――だれ……誰ですか、あなた」

 叫びすぎでとうに嗄れてしまったらしいか細い声の問いかけに、頭を殴りつけられたような混乱が湧いてくる。私のことは判別できると聞いていたのに、話と違うじゃないか。
 けれど、私がここで慌てても仕方ない。自分で自分を宥めながら、「水月乙子です」と穏やかに言った。

「結構長いこと一緒にお仕事してきたけど、私のこと忘れちゃったんですか?」
「水月――――四席?」

 彼は私の名前をうわごとのように繰り返しながら、次第に見開いていた目から涙を零し始めた。
 警戒と敵意が漂っていた空気が霧散したのを確かめて一歩、また一歩とベッドに歩み寄る。

「ごめ、んなさい……覚えてるんです、ちゃんと、…多分、貴方が知っている人だってことはわかってるんです、そのはずで……」
「ええ」
「けど、どうしても自信が無いんです、まるで繋がっていた糸がぶっつり切られてしまったようで――…水月さん、は、…貴方なんですよね」
「同姓同名の隊士がいたら話は別ですが、貴方が知っている水月乙子は私以外に居ないと思いますよ。…大丈夫ですか、ゆっくり呼吸をしてください」

 言いながら、彼に見えるように壁際にあった椅子を持ってきて腰を下ろした。
 私にカウンセリングの能力は無いので、とりあえずは話ができそうになってきた池田くんを刺激しないように言葉を選びながら、状況把握が進むような証言を彼から引き出したい。
 記憶の混乱があるという彼に合わせて、時系列を辿って話をしていくことにした。

「池田くんは数時間前まで、現世での駐在任務に就いていましたね。ウチの隊からは他に二人が同様の地区を任されていたはずです。広かったですからね、あの区域。一緒にお仕事をしていた同僚の名前はわかりますか?」
「は、い。でもええと、……僕は…ああ………」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
「……自分が死神なのは覚えてるんです、でも四席、僕は一体…現世に、どうして………僕は何番隊の隊士だったんでしょうか?」
「十二番隊です。大丈夫ですよ、きっと一時的な記憶の混乱ですから。直に思い出せるでしょう」

 私の言葉に、池田くんは愕然としながら「いいえ」と緩く首を振る。
 何が違うのか問いかけるよりも早く、池田くんのしゃがれた声が早口に捲し立てた。

「いや、違う、本当は僕は…、わからない、わからないんです四席、思い出せないんです。どれもこれも、繋がっていないんです、繋げてちゃいけないと思って、僕は…」
「繋がっていないって言うのは、記憶が?」
「……塗り替えられていくようだったんです。覚えていること、覚えているはずのこと、何もかもが……まるでくるんって回って、表裏が逆になるみたいに。あれほど信頼していた、一緒に何度も飲みに行って、背中を預けたり……とにかく、あいつらを、僕は、わからなくて…」

 彼の言葉はほとんど要領を得ないものだったけれど、その様子から例の連続している仲間割れの事件が彼らにも起こってしまったのだろうと確信めいた予感が強くなった。
 けれど、池田くんの状態は他に耳にしていた事件よりも更に酷いように感じる。
 斬りあった隊士達は不安がったり恐怖したりと言ったことはあったものの、こんな記憶の混濁や情緒不安定さはなかったはずだ。

「…当時の話をしましょう、池田くん。貴方達は現世で、突然斬り合い始めて仲間割れを起こしたんですか? それとも、何かきっかけみたいなものが?」
「わか、わかりません…確か虚を見つけて……小さな虚、でも、そうじゃなく………」

 やっばり虚か。
 何のきっかけもなく、突然訓練を受けた死神達が意識も斑なまま仲間割れを始める訳はない。必ず何らかの原因があるはずだと思っていたが、それが虚だったとは。
 本来虚を浄化することが使命のひとつである死神が、こう何人も似たような被害で命を失いかける事態が続いている以上、今後現世に席官クラスの隊士の派遣が検討されることになるかもしれないな。

「何もわからないんです、自信がない……これが自分の記憶、体験だって自信が…」

 両腕を拘束された池田くんが、ベッド全体を軋ませながらシーツを引っ掻く。
 徐々に大きくなるその揺れを見つめて、彼の胡乱な嘆きに耳を傾けた。

「それまで話をしていた相手が突然、何の前触れもなくこの世の何よりも憎くなるんです、無理矢理脳を裏返されたようで痛くて、くるしくて、それから逃げたくて必死で…何が何だかわからなくなって、天地がひっくりかえって、僕自身ももしかしたら、裏返ってしまったのかもしれない、ですけど……あれが――あの時の感情が僕のものであるはずないのに、記憶を辿ってみたら間違いなくそれは僕のものなんです、おかしいですよね、でも確かに僕の、僕が――」

 間違っているのは僕ですか、それとも記憶ですか。
 それっきり池田くんは口を閉ざして、血の混じった赤い涙を零し始めた。
 震える声に滲んでいたのは最早敵意でも警戒でもなく、ただ自分と世界がずれてしまったことを認知したがゆえの恐怖だった。
 何より恐ろしいのは、ずれてしまったのが自分なのか世界なのか、一番重要な事柄が現状誰にも判別できないことだろう。


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