「はい、どうぞ」

 善哉の入った小さな器とスプーン、そしてそれを差し出す私まで視線を流して、涅さんは眉を顰めた。いや、眉らしいものはお化粧で見えないんだけど、多分眉がある部分を顰めている。
 涅さんは右手に試験管、左手にスポイト(ピペットと呼ぶらしい)を持ったまま硬直している。
 お互いがお互いの真意を読み合う沈黙のなか、涅さんの金色の双眸と見つめ合った。流石にこの謎の数秒の間にも慣れてきたけど、迫力のあるお顔だから緊張してしまう。

「…何であったらすぐ黙って見つめ合うん? 恋?」
「こ……あのねえひよ里ちゃん、これはコミュニケーションの一環です。他意はありません」

 蛇と見つめ合ってるみたいなものだよ。その一言は飲み込んだ私は賢明だったと思う。

 お団子を食べながらひよ里ちゃんが呆れ混じりに呟いた言葉を引き取って、更に後方から浦原隊長が「ボクは職場恋愛肯定派なので事件にならない程度にお願いします〜」と、本気なんだか冗談なんだかわからないことを言う。
 それまで訝しみと困惑が主だった涅さんの表情が途端に迷惑そうな顔に変わってしまった。
 涅さんは浦原隊長のやることなすこと全てが気に障るようなので、茶化すような言い方も当然気に入らなかったのだろう。
 以前と比べ皆が気安く喋れる職場になっているのは良い傾向だと思うけれど、頭の良い人ばかり揃っているはずの開発局でどうして院生時代を思い出してしまうのだろう…。

憎しみとしか呼びようのない熱情を抱いて


 十二番隊に技術開発局が付随してから初めての月末を乗り越えた。ゆえに今の私には精神的余裕がある。ひよ里ちゃんの変なツッコミと浦原隊長の面白くもなんともない茶々も心たいらかに聞き流せた。
 きっとこれもなんだかんだコミュニケーションを絶やさずにいた成果なのだろう。今の十二番隊と技術開発局からは、以前のような微妙な空気が緩和されつつある。

 月末の決算業務という大きなイベントの最中、隊士と局員はそれなりに上手くやっていける関係性にまで進化したのである。
 おかげで私は心置きなく報告書提出と関係書類の整理と技術開発局の周知に追われることができたし、その甲斐あってちょっと洒落にならないお化け屋敷状態だった開発局の敷地内も何とか人が足を踏み入れても平気なように整えることができた。

「月末でこの調子なら年末もボク必要なくないっスか? 他の隊の人達が乙子サン欲しがる理由がやっと実感できたっスよ」

 私に勧められるがままに研究室に籠って、月初めに全書類受理の報せを受けた浦原隊長の談である。
 正直三席と五席が同時に抜けて隊が様変わり、という極限状態でなければ私もここまでしなかったので、来月の決算業務は隊長にも心していてほしい。


「両手が塞がっているのが見えないのかネ?」
「見えてますよ。"近くに置いておきます"、の意思表示込みの"どうぞ"でした」

 今日予定されていた隊外からの仕事を貴族街にほど近い施設で済ませてきた私は、帰り道で行きつけの甘味処に立ち寄って差し入れを買ってきたのだ。お団子とかカップ入り善哉とかお饅頭とか…甘味の衝撃が強くて一発で脳の栄養になりそうだな、という安直な発想のもとである。
 これも月末の追い込み中に知ったのだけど、新しく入ってきた開発局員達も意外と甘いものが好きな人が多いらしい。

 涅さんと個人的な話は彼の要望によりしないのでわからないが、いらないと即答しないあたり嫌いという訳ではないのだろう。

「あ、でも中にお団子入ってますから、硬くならないうちに食べちゃうことをおすすめします」

 涅さんに差し出したのは小さなカップに入った善哉だ。
 注文量と持ち帰りで、の一言で察してくれたお店の御主人が気を利かせてくれて、白玉団子は店で出るものよりも少し小さめにつくられている。
 曳舟前隊長の時代からお世話になっているお店なので、私が顔を見せると何を言わずとも食べやすい状態の商品を用意してくれるのだ。頭が上がらない。

 色々物が散乱している机の中にそっと器を安置する。
 それからみたらし団子の串を一つ持ってきてくれた阿近くんにお礼を言ってそれを一口齧りながら、再び「あ」と声を上げた。

「さっきからやかましいことだ。母音を発声すると何か得が発生するのかネ?」
「ああいえすいません、そういうのじゃないんです。涅さん、この間お話してた観測機のことなんですけど」

 その言葉でやっと手元しか見ていなかった涅さんがこちらを振り返った。

「観測機って、副局長発案の超小型観測機ですか? 乙子さん」
「そうそう。あれ、申請通すのにもう少し時間かかりそうなので、早い段階で試作品ができたら一個ほしいです。実物あった方が伝わりやすいかと思って」
「それは構わんが、何故時間がかかる? まさか隊長副隊長揃って提案書を出したにも関わらず弾かれたのか?」
「いや、弾かれただけなら書類作った私の責任なので隊長とひよ里ちゃんは関係ないんですけどね。単純に信用の問題ですねぇ」
「信用は人命より重いと見える。大層な世の中だヨ」
「そうですね、でも、前例が無い試験ですから」

 涅さんの超小型観測機とは、所謂『仲間割れ・同士討ち事件』を解決するべく十二番隊・技術開発局で打ち出された新製品案である。
 名前の通り、超小型の映像記録機能付きの観測機のことで、それを現世に駐在する隊士に持たせることで原因究明に役立てるだけでなく、普段の隊士の様子も確認できるという優れものだ。
 ちなみに実装が決まった暁には映像庁とも手を組み、観測機と映像庁の映像だけで現世のほとんどを立体的に監視できるという計画もあったりなかったりするのだけど、今のところそれを申請の中に含める予定は私にはない。

「観測機が撮った映像の優先開示権利が技術開発局側なのか隊士の所属先なのかとか、四六時中監視がつくことに対する人道的問題とか、まあ色々揉めるポイントがあるんですよ」
「観測機、自立しますからね」

 阿近くんの言う通り、計画されている観測機は機械のくせにある程度自動で動く。この場合の動くは機能するって意味じゃなく、移動するって意味。
 形状は例えるなら節足動物。見たまんまを端的に伝えるなら蟲だ。
 正直それが懐から勝手に歩き出して首や足を這うと思うと駐在の隊士達には同情の念が湧くが、設計した涅さん曰く「必要な機能だヨ」だそうなので、もしそのまま実装されることになった場合は諦めてほしい。

「"何で機械が自動する必要が?"って訊かれてもその方が便利だからです以外に答えようないよ〜、たすけて阿近くん…」
「あの、離してください」
「アッハイすいません」

 思わず近くにいた阿近くんの小さな体をぎゅうと抱き上げてしまったが、冷静かつ控えめな拒否で急に目が覚めてしまった。
 ついひよ里ちゃんにするように阿近くんにも触りがちだけど、彼は見た目に反して内面が成熟された局員なので、私のその場のノリによる接触を常に冷静に拒否してくる。
 短く切られた前髪から覗くおでことか、大きい眼に小さな三白眼とか、可愛がりたい要素が多いだけに私の自制が上手く効かないのが問題なので、これについてはしっかり大人として自分を律して生きていきたい。あくまで上司と部下ですからね。

 そうして阿近くんと話していると、いつの間にか作業を中断して善哉に手をつけ始めていた涅さんがじろりと私を直視した。

「…問題があることは理解したがネ、君の取り柄は顔の広さと他人の警戒心を溶解させる気味の悪い笑顔だろう。開発局で役に立たない分外で働き給えヨ」
「何ですか溶解って、何ですか気味の悪いって……」

 後半ただの悪口じゃないか。
 あんまりな言いように項垂れると、涅さんは益々視線に警戒色を滲ませて流し目でこちらを睨む。
 もしかしたら涅さんに嫌われているのは浦原隊長だけじゃなくて私もなのかな、とたまに真剣に思うのだけど、涅さんの基本があんな感じだから誰も真面目に取り合ってくれない。

「この際だから言っておくが、私は君のその薄気味悪い笑い顔が浦原喜助の胡散臭い笑い顔の次に不愉快だ、水月乙子」

 やっぱり嫌われてるんじゃ…?
 普通に傷付いてはいるのだけど、私が無抵抗に言葉で殴られているから余計に険悪な雰囲気に見えるのか、涅さんが私に対して嫌悪感を露わにすると少しだけ周りがざわつく。

「何度も聞きましたよそれは……でもずっと無表情で相手のこと睨んでいるより笑っていた方がいいじゃないですか…」
「君のそれは笑顔ではないだろう。吐くならもう少しマシな嘘を吐き給え」
「ええ…」

 お団子が一つ残った串を持ったまま困り果ててしまった私の前で、涅さんは人差し指を立てて掲げた。
 これはあれだ、無知で蒙昧な凡人に講義をしてやろうモードだ。最近心の中でそう呼んでいる。

「笑みは基本的に嬉しさ、好意、敵意が無いことを相手に示す方法だが、君のそれは極端に敵意が無いことを示す方に寄っている。意味もなくただ浮かべるだけの微笑みには好意喜楽も存在しない。君の笑みは虚ろだ。それにも関わらず、熟練されすぎて相手が極平凡な感性を持つ者であるなら、ほとんどの場合騙せてしまうだろう。
 笑顔のような感情を起因とする表情変化や仕草は当然心の機微によって左右されるが、君がこの一か月と少しの間模っていた表情は全て薄い。厚みが無いんだヨ」
「そ、そんなこと言われましても…嬉しいことはちゃんと嬉しいですよ。ええと……そうだ、嬉しい時は追加で踊りますか?」
「目障りの度合いが増すだけだ。諦め給えヨ」

 後方で私達のやり取りを見守っていた浦原隊長が噴き出した。ひよ里ちゃんに後頭部を叩かれている。

「喜怒哀楽が薄いと言うことは、それら感情を発生させる外部からの刺激を受け取る心の発達が未熟か、もしくは死に体か……どちらにせよ、心は単体では反応を示さない。私は君個人については微塵も興味が無いので、そこまでは知らないがネ」
「はぁ…」
「要約しよう。意味のない笑みを貼り付けてそこら中を徘徊しているのが不愉快だから即刻何とかし給え」
「同じこと何度も繰り返さないでくださいよ、傷付くじゃないですか…」

 困っているのは事実なので現実に首を捻っているが、同時に心の中ではいつかに浦原隊長が言っていた言葉を再認していた。
 私のことを『もっと他人に優しい人だと思ってました』と評した浦原隊長と、『理由もないのに笑うな』と批判する涅さん。
 全く違うことを言っているように思えて、その実同じことを私の欠点として指摘しているような気もする。

 けれどそれ以上自分の話を広げる気は起きなかったし、何より爆笑している浦原隊長以外ははらはらした様子で私と涅さんを見守っていたから、局の平穏の為にも私が退室するべきだと席を立つことにした。

「ええと、不愉快とのことなので一旦退却しますね。いつも通り執務室に居ますから、何か用事の方は隊舎の方までどうぞ」
「えーっ、退却しちゃうんスか。じゃあボクも退却しましょ」
「すいません隊長、じゃあの意味わかりません」

 隊長とのやり取りでほんの少しだけ局員に笑顔が戻ったが、微妙に凍えた空気はそのままだ。
 結局意味はわからなかったが、浦原隊長も局の外までついてきた。


「…乙子サン、あれは素直に反論した方が良かったですよ、多分」
「えっ、何がですか? さっきの涅さんとのやつですか?」
「そうっスそうっス。いや〜、このままだとボク以上に嫌われちゃうかもしれませんねぇ」
「何で楽しそうなんですか? 嫌ですよ、隊長以上に嫌われたら業務に支障出るじゃないですか…」
「問題そこかぁ」

 何が面白いのかずっと笑っている浦原隊長の横顔を見上げてみたけれど、やっぱり浦原隊長と私の笑顔の何がそんなに気に入らないのかわからない。涅さんの逆鱗は謎の位置にあるらしい。

「隊長の笑顔は胡散臭くて、私の笑顔は気味悪いんですって」
「元々こういう顔だから直しようがないですよね」
「難しいですね。そのうち開発局で整形とかやりませんか?」
「え、整形外科も扱えるようになったら乙子サンやるんスか?」
「…ちょっと……どうしても業務に支障が出るようなら…検討するかもしれませんね…」

 ついに浦原隊長が膝から崩れ落ちる。何だか猛烈に腹が立ったので、その場に置いていくことにした。


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