きみと同じ轍をふんでいる
「みょうじー!! 数学教えてー!」「ほんっと朝からうるさいな」
まだ人もまばらな教室でひと際大きな声を発する木兎をいやいやながら見上げると、ブレザーと鞄を持ったままやってきた奴はそのまま私の隣の席に腰を下ろした。
この地獄の席になったのは春から。うちの担任は面倒臭がりなので年に2回程度、基本的に春と秋しか席替えをしない。
厳正なるくじ引きの結果窓際の後ろだとガッツポーズをしたのもつかの間、私の隣にやってきたのはあの木兎で、春の私はさっさと席替えお願いしますと担任に心の中で合掌していた。
今の私はどうかと問われると、やっぱり席替えお願いしますと祈り続けている。なにせうるさい。とにかくうるさい。どうしようもなくうるさい。
私が静かに本を読んだり課題に取り組んだり出来るのは、部活の朝練で木兎がいない早朝と、すぐに昼飯を平らげてやっぱりバレーをしに行く昼くらいだ。木兎が教室にいる時は基本的にいつでもうるさい。
思い切り顔を歪める私もなんのその、木兎はさっさと机を近付けると数学のワークを開いて見せてきた。
「ここ! 昨日の宿題のとこ! 全然わかんなかったんだよなあ」
「……発展演習だけじゃん。普通のとこは解けたんだ」
この席になったばかりの時はあれわかんないこれわかんないと逐一待ったをかけられ何度木兎をはっ倒したくなったかわからない。わからないものをわからないままにしておかないのは良い姿勢だが、いかんせん数が多すぎたのだ。本当にお前自分で考えたかと問い質したくなる程度には。
しかし教えたことは素直に頷くし、曖昧な返事で誤魔化すことも木兎はしない。抜け落ちていた基礎のところを補ってやると、木兎はあっという間に"そこそこ普通の成績"を手に入れた。
「もー最近の授業サッパリすぎる。多分みょうじが隣じゃなかったらこの前のテストも死んでた俺」
「別に木兎のテストが死のうが私には関係ないんだよなあ………いや、そうでもないな。また木葉とか猿杙に囲まれても困る」
以前のテストの時にバレー部3年組に囲まれて「木兎の成績がこの頃いい感じに安定してるのはひとえにみょうじのおかげだ、頼むから木兎を見捨てないでくれ」的なことを言われたのだった。図体のデカい男子高校生に囲まれるのはなかなかにスリリングな経験だった。正直に言ってかなり怖かったからもう勘弁してほしい。
「みょうじの教え方良いから俺もアイツらにテスト返ってくるたびにやんややんや言われなくなった!」
「そりゃ良かったね…」
「やっぱセンセーになるから教えんの上手いのかな?」
「………さあ、どうだろうね」
無事ワークを閉じた木兎は、ぜってーそうじゃん、と勝手に頷いた。
いい加減木兎に将来のことについて言及されるのは慣れてしまったが、愉快かと言われればまたそれは別の話で。
端的に言えば、今の私は将来に迷っている。
一応教師志望で大学進学を決めて受験に向け勉強しているが、本当に自分が教師になりたいのか、本当に4年間大学で勉強する覚悟があるのか、その他諸々不安要素が漂う今、はっきり将来の夢を語ることが出来なくなっているからだ。
その点木兎はいいな。バレーを極めて、きっと高校を出てその先はプロにでもなるのだろう。木兎がバレーをやめるのは木兎が静かになるのと同じくらいありえないことだ。木兎は絶対にこの先もバレーを続けるのだろうな。
そんな将来有望な男子と隣の席で、しかも机を合わせて勉強をともにしているなんて、人生何があるかわかったもんじゃない。
「私にとって最善の未来がこの先にちゃんとあるのか、自信なくなってきちゃったからさ」
ぽろりとそう零した私を、木兎が目を丸くして見つめている。
意外だったんだろう。木兎にこういう弱音は聞かせたことがなかった。この席に着いている時だけ私は、不安も悩みも忘れてひたすら勉強に打ち込むことが出来ていたから。
こんなこと木兎の前で言うべきではなかった。
私もワークを机の中に仕舞って机の隅に追いやっていた本を開こうとすると、横から伸びてきた大きな手に右手をがっしり掴まれてしまった。
「ちょっと、なに」
「みょうじ、ひとりで泣くなよ」
「………はあ?」
突然の意味不明発言に木兎を見返すと、先ほどまでいたって普通だったはずの木兎の目は爛々と輝いていた。思わず固唾を飲む。
こういう人を圧倒してしまうような表情を、時々木兎はする。
「みょうじがひとりで落ち込んでセンセーになるの諦めるのは、なんか納得いかん」
「……は………?」
「つーか勝手に落ち込むなよ! 落ち込んでんなら俺に言えよ!」
「いやなんでだよ」
掴まれた右手を振り払おうと少し腕に力が入ったのは木兎も気付いたはずだけど、特に何も言わずに木兎は続ける。
「だって俺みょうじ好きだもん」
「………?」
「…………あっ、やべっ待って、間違えた! みょうじ絶対センセー向いてるから!! って言いたかった!!」
「声デッカ」
なんだかとんでもないことをサラッと言われた気がしたが、あまりの木兎の動揺っぷりに逆に私は冷静さを取り戻した。
慌てて私の腕から手を離した木兎は、そのまま両手で顔を覆って机に突っ伏す。しょぼくれているのかどうなのかと言われると、多分しょぼくれとは違う、と思う。
「………驚かねーの?」
やがて首を傾けてちらりと私を見てそう問いかけた木兎の顔があまりに真っ赤だったので、思わず吹き出してしまった。
音を立てずに笑う私を見上げて、木兎は悔しそうな顔をする。
「くそ…………ほんとはもっとこう、卒業式とか学園祭とか、そういうすげー良いタイミングで言うつもりだったのに……」
「口が滑った?」
「めっちゃ滑った………事故レベル……」
「然様ですか」
あまり大きな声で言わなかったことと、そもそも教室にいる人数が少ないことが幸いして、木兎の事故発言は私と木兎以外には反応されていない。聞こえていたけどノーリアクションを貫いてくれている可能性もあるけどね。
「だってみょうじ嫌そうな顔するわりにめっちゃ優しいじゃん………? そんなの好きになるじゃん…………」
「なるほど。木兎はそういうのが好みなのか」
「ウワーーーーッ記憶を失えーーーー!!」
「痛い痛い痛い」
起き上がった木兎に肩を掴まれてシェイクされる。相当照れているんだな。木兎の照れはそうそう見れたものじゃないから、貴重な顔としてこの乱暴なシェイクも許してやろう。
そしてちょっと考え込んでから、木兎は私の肩から手を離した。
「………みょうじは俺のこと嫌い?」
「普通寄りの好きかな」
「なんだそれ」
「まあとにかく、嫌いじゃないよ」
「あー……うーん………俺ってさ、5本指の男じゃん?」
「って言われてるらしいね。突然どうした」
「この先プロになって、世界のエースになる男じゃん?」
「木兎がなりたいならきっとなるんでしょうね」
「…でもさ、いくら俺が世界の俺になったとしても、多少は不可能もある」
「そりゃそうだな」
「……俺はみょうじ好きだけど、みょうじが最善って思う未来が俺の先にあるかはわかんないじゃんか」
「………」
「だからそのー……なんつーか、そうやって弱ってるみょうじにこんなことをカミングアウトするつもりはなかった…」
「なるほどね。じゃあ忘れた方がいい?」
「それは…………悩む……」
「悩むんかい」
木兎に好きと言われても、不思議と嫌な感じはしなかった。
確かにいつもうるさいし、思考は理解が及ばないし、動いていないと死ぬのかと思うほど騒がしいし、面倒臭いし、うるさい男だけど、木兎は悪いやつではない。
そんなのはこの半年でよくわかっていたことだ。
「みょうじが忘れても俺がみょうじ好きなのは変わんねーし……」
「……ええい優柔不断だな。好きなら付き合ってくださいで良いだろバカ木兎」
「エッ付き合ってくれんの」
「それはこれから考えるけど」
「上げて落とすのやめろよ!!」
朝から嫌な不安の海に落っこちそうだったところを、誤爆とは言え木兎に救われた。この先もこうして倒れそうになった私を引っ張ってくれるのが木兎なら、それも悪くはないと思える。
何だか変な気分だ。
夏も、秋も冬も、その先もずっと一緒にいたいと言ってくれる物好きがすぐ隣にいたなんて。
「まあ私も木兎のこと嫌いじゃない時点でお察しなんだよな〜」
「は? なにどういうこと?」
「わからんでもいいよ。わからせる気ないから」
変な気分だけど、嫌じゃないんだよな。
それってつまり、そういうことだろ。
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