だれかの思考が煩くて眠れない

 例えば、16時にとる遅めの昼食。文字通り身を削っての社会貢献を促す会社規範に従ってせっせか働き、自炊もままならない白の面積がほとんどを占める弁当箱をデスクで開けたとき。
 例えば、陽の昇りきらないうちに布団から這い出て急いでシャワーを浴びて出社するとき。早朝と呼んでもまだ相応しくないほどの時間に、物音に気を付けながら部屋を動き回るあの時間。
 例えば、被っていた仮面をかなぐり捨てて目の前の綺麗に磨かれた窓から紐なしバンジーを決行したくなったとき。確かあれは、課長に話を聞いてもいない仕事のことで架空の指示をでっちあげられて怒られたんだっけ。この会社にはナスリーがいるぜ。
 「みんなそれぞれ悩みなんて沢山抱えている。あなただけじゃないのよ。あなただけがつらいわけじゃない。そういう悩みや苦しみを抱えて、上手く付き合っていくのが大人ってものでしょう」。そう言ったお局さまの横顔を眺めながら私は、随分美しい寝言をほざくもんだなと思った。
 "現在"が苦しい人間にとってそんなものはなんの慰めにもならない。そんなド正論はもう何百回と自分の中で審議して、煮詰めて、納得しようとして、出来なかったんだ。その工程をも経て人は潰れていくのに、今更そんな社会の宗教的"大人の慰め"みたいなものでとどめを刺してくるなんて何事なんだ。お前に私の何がわかるんだ。その同じ苦しみを抱えているらしいみんなは私に何をしてくれるって言うんだ。
 そんな美しい寝言は多分、多少の人の正気をかろうじて取り戻させたりもするし、多少の人の背中を突き落としたりもする。救った人と殺した人の数を引き算したら、多分ゼロに近いけれど。それは果たしてド正論が世の真理で、それから逃げ出す人間は悪だとする理由になりうるだろうか。いや、多分ならない。なってたまるか。冗談は顔だけにしろよな。なんつって。
 例えば、例えば、例えば、エトセトラ。

 そういう記憶のすべては、私の意思は関係なくこの広くも狭くもない白いだけの病室に集約されていった。

「………」

 緩慢に首を振る。目覚めは最悪だった。
 ニンジャ私の失踪理由に想い馳せてから数日が経過したが、あれからというもの私は以前の世界の記憶の夢ばかり見ている。まるで私自身があちらに引っ張り戻されそうになっているかのようだ。
 退去の時間が迫っているのかもしれない。(推定)同じ人間の体とは言え、この体はニンジャ私のものであって会社員私のものではないから。退去って言ったって引き摺り込んだのはそっちだろと文句も言いたくなるが、心停止は困ると安易にそれを受け入れたのも私であるし。やはり短絡的な発言は良くない。あとあと自分の首を絞めることになる。
 で、閑話休題。

 ようやく松葉杖を用いての歩行を許可された私は、さりとて特にやることもないので病院徘徊に多少の時間を費やしている。例の誘拐事件からみんなからの信用のない私は病室から出るたびに「どこに行くの」と尋ねられて若干辟易しているが、他国のお偉いさんが嫁にくれと毎日のように書状を送ってくる件の女がその辺をふらふらしていたらそりゃ気になるよな、悪いと思ってる。
 けれども綱手様には「少しは体を動かせ」と叱咤を受けている身なゆえ、誰にも怒られない範囲で動いておかなければと謎の義務感に駆られているので、病室をカタツムリのスピードで飛び出すしか道はないのだ。後半の一部はいささか誇張表現だったことはさておき、今日も今日とて無人の最上階の病室に失礼して外を眺める私なのであった。

「なまえ」

 開けっ放しの扉を無視して背後から足音が迫ってくる。声色は努めて穏やかだ。
 我愛羅だ。

「えっと、いいの? 風影様がこんなところにいて」
「そのうちテマリも着くだろう。先に来ただけだ」
「そうなんだ」

 我愛羅とも、比較的自然な会話が可能になってきた。あくまで、"記憶をなくした"みょうじなまえと我愛羅という設定のうえでの話だが。一番ボロを出してはいけない相手と言うことでだいぶ緊張を強いられてきたが、我愛羅は私がいくら挙動不審に振舞っても以前のニンジャ私との乖離を指摘することはなかった。それも、なまえという人間に対しての愛ゆえなのか。私にはわからない。

「なまえ、本当に俺の妻として砂に来る気はないか」
「………ええと」

 話題の展開が随分大胆な構成だな。慎ましさを美徳とする日本人としてはもう少し前置きが欲しいところ。まああれだけ書状を送って意思表示を求めているのにあれやこれやと避けられてしまっている状態が続けば、流石に本人をとっ捕まえて喋らせるほかないものな。反省はしている。
 きょろきょろと忙しなく部屋の隅やらベットの足やらを見つめる私を、我愛羅はほんの少しだけ寂しそうな顔で眺める。どうやら答えを急かす気はないらしい。存分に言い訳を考えさせてもらうことにする。

「……記憶…がない忍として失格の私じゃ、きっと他の人達が納得しないだろうし」
「そんなもの俺がどうとでもする」
「我愛羅のことが好きだった私は今の私じゃないし」
「本当に俺が嫌だと言うのなら大人しく身を引こう」
「……」

 なんかもういい人過ぎて言い訳するこっちが苦しくなってくるんだよな。まるで負けが確定のオセロをやらされているかのような。かといって投了の選択肢はないし。
 我愛羅は今のなまえの中に入っている女が記憶を失っただけのなまえだと思っているからこんなになまえを自分の国に迎え入れようと必死なのだろうが、あいにく中身は同じ名前なだけのアラサー会社員だ。どうあがいてもその溝は埋まらない。説明したところで、理解なんて出来ないだろうから。それならもう逃げ続けるしかない。

 ………あ。

「もしそうでないのなら、どうかもう一度、俺の手を取ってはくれないか。例えお前が優秀な忍でなくなったとしても、なまえではなくなったとしても、必ず俺がお前を守る」
「……なまえで、なくとも?」
「………正直な話、少し、ほっとしている」

 全身の肌がじわじわ粟立っていくような感覚。思わず顔面を掻きむしりたくなる悪寒は、おそらく私の頭に浮かんだ想像を肯定している。
 みょうじなまえがすべてを投げ出して逃げた理由は、きっと。

「記憶を失う前のなまえは、確かに天真爛漫な善を体現したような人間だったが、あまりに真っ直ぐ立ち続けるなまえは、俺には少し遠かった」
「…」

 人々の理想のなかに生きる。善の側の人間であり続ける。そうすることで、きっと彼女は愛されてきた。
 もしそれが、苦痛を伴う生き方に変わっていたとしたら。本当の自分と、現実を生きる自分の溝が埋まらないものになってしまったら。
 理解なんて到底されないだろう、体の内側から刺してくるような自分と他人への拒絶で全身を覆われたら。
 本当の私は、そうじゃないんだと声を上げることも出来なくなってしまっていたら。

「もしも今のその姿がなまえの素なんだとしたら、俺はきっと、今以上にもっとなまえを好きになれる」


 『どうか私をこれ以上見ないで。

 うつくしいみょうじなまえの夢を、これ以上見ないで。

 潰れてしまった亡骸の私を、どうか否定しないで』


 世界の向こう側で蹲って泣いているなまえの姿を垣間見た。

 だから私は、正気を保っていられなくなった。
 脳と体の両方が向こう側に引っ張られて、転がるようにして風通しのいい窓辺に駆け寄っていく。
 叫び声にもなっていないノイズのようなものが耳を介して体を貫通していく。
 世界が逆さになったのか、私が元からこの世界にとって逆さの存在だったのか、わからない。
 窓の外から見えた病室は、存外白だけの世界ではなかった。
 私に向かって手を伸ばす赤が、あんなにも鮮明だ。

 そうして私は、ずっとやり損ねていたいつかの紐なしバンジーを決行した。
(title by 天文学)


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