もう半分が泣いている

「う………」

 ごり、と側頭部から音がした。目を開けようにも腫れ上がっているらしく、重たいまぶたは大した仕事を果たさず起きている事態を理解するには至らなかった。何が起こっているのかはわからない。
 でも今何をされているのかはわかる。──頭を踏まれているのだ。

「いつもみたいに反撃はして来ないんだな。記憶喪失ってのはデマじゃなかったってわけだ」

 病室に押し入ってきた(と言うにはあまりに静かだった)面をした男に誘拐された次第である。本当にアラサーの大人として情けないことだが、今の私は中身貧弱の会社員であるうえにまだ足の骨はくっついていない。
 それでなくとも私の戦闘力はたったの五、言われるまでもなく雑魚なわけだが、先日の我愛羅の別れ話はよしてくれよライブのおかげでなんとか五代目風影のコバンザメ状態は続いている。その時我愛羅に懇切丁寧に説明されたが、風影の恋人ということでたびたび刺客に狙われていたニンジャ私は、その都度自分でボコボコにして刺客を送り返していたらしい。強すぎる。
 まあそんなことが今の私に出来るはずもなく、まんまと誘拐された私は現在覆面をした抜け忍さんに拘束された状態で足蹴にされている。展開がテンプレすぎて笑えてくるがここは我慢、我慢だ。

「お前がもっとしおらしくボコボコになってれば風影も哀れんで首くらい差し出してくるかもな」

 なるほど、我愛羅の首が目当てか。偉いと敵も増えて凶悪になるから大変だ。でもそうだな、今の私のためにフリでも我愛羅が首を差し出すかと言われると、それは微妙だな。なにせ私だから。

 あれからと言うもの、綱手さまの薦めで記憶を取り戻すきっかけになればと色々なニンジャ私の知人が病室をひっきりなしに訪ねてきたが、依然私は会社員私であるので彼らからすれば妙な態度を取り続けている。そろそろ挙動不審っぷりでバレるのではないかとヒヤヒヤしていたりする。
 聞くところによると私の記憶喪失は周囲の人々の中では深刻なものと思われているらしい。会社員私にはニンジャ私の底のない明るさと天真爛漫さはどうにも出せないことで、段々ニンジャ私と会社員私の違いに彼らも気付き始めている。
 私の演技力不足による影響は多々あったが、唯一ニンジャ私の先生だったカカシさんにはこの会社員私は好評だったりする。曰く、「前より素直で裏表ない感じがとっつきやすい。単純に馬鹿っぽくなったよネ」とかなんとか。馬鹿で悪かったな。ありがとよ。

「こんな弱くなっちまった女には価値を感じちゃいないんじゃないか? なあ?」

 頭上で大きく張られた声はどうやら私に向けたものではないらしい。
 抜け忍が語りかけていた相手はゆっくり、木の生い茂る森を歩いてこちらに向かってくる。
 ──ああ、あなたが愛したという私は私ではないのに、やっぱり来てしまったのか、我愛羅。

「なまえに価値云々は関係ない」
「絆に価値はつかないって? この女はいとも簡単にお前を忘れたのにか?」
「忘れることは罪ではない。忘れても、思い出はまた作っていけばいい」

 草むらの地面をさらさらと砂が這っていく。同じく地面に張り付いている私には見えることだが、もう我愛羅しか見えていない抜け忍には見えていない。ああ、こいつもう終わったな。第三部、完。

「お前らの綺麗事にはもう飽きたよ。…なんでも思い通りだ、元は化け物のくせに。奪うばかりで奪われたこともないんだろう、大切なものを壊されたことも、幸せを掴み損ねたことも。ああ…それとも、化け物には幸せなんてわからないか?」

 その言葉に反応したのは我愛羅ではなく足蹴にされている私の右腕だった。こちらも足蹴にされて靴跡や打撲で散々な見た目だったが、私の意思に関係なく突然動き出して、私の頭を踏みつける足をものすごい力で掴んだ。多分それは、私ではないなまえのものだったと思う。
 私の突然の抵抗に驚いたのか抜け忍が意識を我愛羅から私に移した瞬間、地面を這っていた砂が一斉に抜け忍を包み込んだ。私の頭を踏んでいた足もすぐに私から離れていった。

「俺はお前のことを知らない。過去に守鶴によって人生を狂わされたか、はたまた風影たる俺への怨恨か…」

 胸の前で組まれていた我愛羅の腕が解かれ、右手がそっと自らの左胸を指した。

「いずれにせよ、お前が狙うべきは"ここ"一点だけだった」

 その後の抜け忍と我愛羅については知らない。ただ私は気絶しかけていたところを後から我愛羅を追ってきたサクラちゃんやナルトくんに拾われて、木の葉の病院に無事戻ることが出来たことは確かだ。
 入院期間は伸びた。


***


 というのが先週のこと。再び病院のベッドに返り咲いた私は今日も今日とて全身の痛みと戦っている。変化があったとすれば、あの誘拐を経て若干防犯レベルが上がってなおかつ個室になったことか。
 あれから我愛羅は見ていない。私の入院期間が伸びたことに責任を感じでいるのかもしれないとサクラちゃんは言っていたが、私は私に愛想を尽かしたに賭けている。というかそうであって欲しい。願望。
 とは言え我愛羅は風影。元々忙しい身分なのに頻繁に私の元に訪れていたことがおかしかったのだ。総理大臣がそんなにほいほい外を出歩いて他の国に行ってたまるかという話だ。私だったら自分の国が心配になる。

「やー、今日は正気?」
「失礼な。私はいつでも正気です」
「そりゃ失礼」

 病室に入ってきたのはカカシ先生だった。あんまり食べ過ぎると太るからネと言いつつ手渡された小さめの紙袋を受け取って一応会釈しておく。この人はなまえに遠慮がない。
 言い方からして中身は食べ物なのだろう。遠慮なく中身を取り出してみると、ちょっと高そうな羊羹の詰め合わせが。しかもご丁寧に片手で食べられるタイプのやつだ。

「わあ、私羊羹好きです」
「へえ、初めて知ったよ。なまえは和菓子嫌いだって言ってたからさ」
「………」

 墓穴を掘った、いや掘らされたのか?
 カカシ先生は他のみんなと違って今のなまえの中身が同姓同名の別人だと気が付いているような発言をする。うっかりパチモンだとバレて殺されてはいけないと私もボロは出さないように気を付けているが、前述した通り私の演技力は雑魚以下、それを通り越して餌の練り餌レベルだとここに明言しておく。つまり結果はお察しの通り。ニンジャ相手に心理戦を仕掛ける方が馬鹿だ。
 とは言え、一番油断ならないこの人が、実は中身がすげ替わった私の中身の会社員私を個人として存在を認めてくれている唯一の人だったりもする。他のみんなにとって私は記憶を失った可哀想なみょうじなまえだが、多分カカシ先生にとっては記憶喪失とかくだらない嘘を吐いているみょうじなまえの体を乗っ取ったパチモンであることだろう。
 中身が違うと勘付かれたからと言ってこの人はなにかをしようとするでもなく普通にお見舞いに来てちょっと失礼なことを言って帰っていくだけなので、私も安心して毒吐けるというものだ。あと会社員だった頃の上司に似ているから。

「お前、あれだけ木の葉に長期滞在して怒られてた我愛羅が顔見せてないことに不安は感じないわけ?」
「うーん、正直これと言って私に変化はないです。むしろお仕事してるんならその方がいいんじゃないですか」

 羊羹の包装をぺりぺり剥がしながらそう答えると、カカシ先生はなるほどねえと笑った。何がおかしいのかはわからないけれど、与えられた羊羹は見た目通りの味をしているのでその馬鹿にしたような笑いも指摘せずにいてやろう。
 そのまま一つ目を食べ終わって、栗が入っているものに手を伸ばそうとした時、彼から一枚の書状を差し出された。何やら厳重に封をされていた跡がある。見せる相手を間違えてやしないだろうか。

「いや合ってるよ。宛先はお前じゃないけど、中身はなまえについてだし」
「…それって私が見てもいいんです………?」
「いいから渡してんでしょ。ほら」

 差し出されたそれを渋々受け取って中身を出す。何枚か高そうな紙が入っていたけれど、細々と書かれている文字を逐一追って中身を読む気にはなれなかった。すぐに布団に紙を散らせた私にカカシ先生は溜め息を吐いた。

「えーと、つまり?」
「なまえを正式に娶って砂の国に迎えたいんだって。これはその宣言書みたいなもの」
「………なるほど?」
「このままだとお前、あれこれ言ってるうちに砂に連れていかれるよ」

 足がくっついたらすぐかなあなんて呑気に顎を擦ったカカシ先生を見つめながらしばし茫然とする。娶る? maitre? いやいやそれは快男児の方。声帯が同じ人はこっちでも会ったけども。
 この世界が知っているなまえは私ではないと言うのに、こんな噛み合わないままで、私が?

「……………無理じゃないですかね……」
「このまま記憶のない無防備ななまえをひとりにしておけないって。まあ妥当だよな、お前忍としてはほんとにアカデミー生にも劣るし」
「それはおっしゃる通りです」
「良いんでないの。悪い男じゃないよ、我愛羅」
「それは知ってるけども……」

 悪い人じゃないのは知っているけども、私が我愛羅を結婚出来るほどに好きかと言われれば答えはノーだ。もちろん可愛い子だなとは思っている。可愛いたぬきちゃん、本当に合ってるあだ名だと思った。けれどその気持ちは完全に親戚の子供を見るおばさんの域を出ないし、こんなアラサーが十六歳のイケメンエリートと結婚? 普通に見積もっても犯罪では? 十六歳って四捨五入したらショタだろ。犯罪だわ。
 いくら体が十六歳といえど中身はアラサー。もう何が何だかわからないけれど犯罪ということだけはわかる。

「まだ捕まりたくない……」
「やっぱ正気じゃないじゃん。…ま、お前がどうしても無理って言うなら顔作り変えてでも逃がしてやるよ」
「……顔………」
「しょーがないでしょ。それともその顔に愛着でもあるの?」
「………あんまりない」

 この顔はニンジャ私のものだ。会社員私のものじゃない。別に愛着もない。
 顔を変えてでも逃げる、か。我愛羅は傷付くだろうか。傷付くだろうな。確かあの子もなかなか壮絶な過去を持っていた気がする。そうしてやっと思い合えたなまえに、整形までされて必死に逃げられるのだから、そりゃあ傷付くだろうな。
 こんなに大切にしてくれる我愛羅を置いて、どうしてなまえは消えたのだろう。もしかして、本当は我愛羅のことも愛してなんていなかったのか。そんな薄情な女だったのだろうか。明るくて、人気者で、心優しかったなまえの底は、そんなものだったのだろうか。私にはわからない。
 それでもあの時、我愛羅を化け物と呼ばれて反応した右腕は、確かになまえのものだった。愛していないならどうして。愛していながらどうして。どちらにしても疑問だ。
 彼を化け物と呼ばれることに腹を立てるなら、最初から逃げなければよかったのに。
(title by 天文学)


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