空飛ぶ鉄屑に連れ去られたあなた

「先輩って、弾けない曲とかあるんスか?」
「え?」

鍵盤を叩いていた細い指が静止する。
目元に微笑みを湛えたまま、先輩は俺を見て小首を傾げた。

「弾けない曲って、ピアノ?」
「ピアノでも、ヴァイオリンでも、フルートとか、ホルンとか、その他諸々っスけど」
「うーん、多分いっぱいあるよ。数え切れないくらい」

先輩は、学生で天才ピアニストとして大人に混ざって鍵盤を叩いている。その実力は海外でも"怪童"として一目置かれているとか。
でも、今ここで制服を着てピアノを弾いている先輩は、そんなこと感じさせないくらい柔らかな雰囲気で、おっとりしている。

「やっぱり先輩にも弾けない曲ってあるんスね」
「まぁ、そりゃあね。知らない曲も、沢山あるだろうし」
「…先輩、"夜警の歌"弾いて下さい」
「また?成神くん、好きだよね"夜警の歌"」

グリーグの叙情小曲集の中の一曲。
俺は、この曲も好きだが、"夜警の歌"を弾いている時の先輩の表情が堪らなく好きだ。
目を伏せて、自分の奏でている音にだけ耳を傾けて。時折切なげな表情をする先輩が、好きだ。

「…先輩、明後日ドイツに行っちゃうんスよね」
「うん、そうだね」
「俺、その日試合だったのに」
「…それは申し訳ないと思ってる」
「見に来てくれるって言ってたのに」
「まことに申し訳ない」

あぁほら、そんな顔されると、今すぐにでも許したくなってしまうじゃないか。
先輩は、傍らに座る俺の頭をそっと撫でて、困ったように笑った。

「帰ってきたら、練習見に行くよ」
「…ほんとっスか?」
「うん。約束する」
「また海外行くとか言わないっスか?」
「言わない言わない」

先輩の細いしなやかな指が髪を梳く。先輩は、俺の髪をこうして触っているのが好きなのだという。
しばらくは先輩にも会えないけど、留学する訳ではないから、現地のピアニストと交流したらすぐに帰ってくると言っていた。

「私、外国行くの苦手なんだよね」
「そうなんスか?飛び回ってるのに」
「私、英語苦手だし、外国って何だか落ち着かないんだよね」

だから、すぐ帰ってくるよ、と先輩は笑った。
俺も先輩が来るまでにもっとサッカー上手くなって、先輩にすごいねって言ってもらえるようにするんだ。

……なのに。


『…今日、日本時間17時、ドイツ行きの**航空の旅客機が、**付近で墜落しました。現地警察によると、搭乗していた日本人は13名でしたが、現在安否不明。機体の破損状況から、生存者発見の見込みは低いとのことです。
また、この旅客機には中学生ピアニストとして有名なみょうじなまえさんも搭乗しており……』

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