泥まみれ心中

I Beg Youの後・野坂渡米前




テレビをこんなに見ているのは生まれて初めてかもしれない。かなえの勧めもあってサッカーを見始めてから、テレビが点いている状態が当たり前になってしまった。
あの日私にぶつかってきたのも悠馬で、紙きれを上着のポケットに押し込んだのも悠馬で、かなえの言う「顔のいいキャプテン」も悠馬だった。
すべてすべて、悠馬だった。野坂悠馬。
私は悠馬のことなんて何も知らなくて、悠馬が私にずっと一緒にいようなんて言う理由もわからなくて、私はそれ以来悠馬のことを考えるのをやめた。
これではまるで呪いのようだと思ったからだ。夏の呪いは、気温が上がって蝉が鳴く季節になるたびに私を苦しめる。
どうして子供の頃の、ほんの2ヶ月にも満たない記憶にこんなにも縛られ続けるのだろうと考えもした。答えはすでに私の中にある。
その答えが、いくつも年下の少年に対して抱くものでは到底ないことに恐怖していた。



だから悠馬がこうして私の家まで探り当てて訪ねて来たことが、こんなにも恐ろしい。

「………なまえ、ちゃん」
「…野坂悠馬」

昔のようにおずおずと私の名前を呼ぶ悠馬と、昔のぶっきらぼうな呼び方がもう出来ずに、喉に引っかかるものを吐き出すように名前を呟く私。それだけで悠馬は傷付いたような表情をしてみせる。
虚ろな目が私を見つめて、それから私の腕に手を伸ばした。

「僕のことは、もう忘れていた?思い出したくもなかった?」
「…」
「僕はずっと覚えているよ、なまえちゃんと会った公園のことも、なまえちゃんがくれた沢山のものも」
「…悠馬」

悠馬の細い腕を、恐る恐る掴んだ。それだけで悠馬は安堵したような、幸福に満たされたみたいな顔をする。
あの頃と比べて悠馬はとても大きくなった。体のあちこちに見え隠れしていた痣もなく、比較的健康そうな肌の色と、この年齢の男子特有の細さはあるものの筋肉のついたしっかりした体。
そんな悠馬が、私が腕を掴んだだけで嬉しそうにするという事実がとても怖かった。

「悠馬のことを忘れたことなんてないよ。でもそれは悠馬が友達だからだとか、そういうんじゃない」
「ともだち、」
「私も悠馬もあの頃より大人になったよ。だからわかるでしょ、これは罪悪感だ」

悠馬の体のあちこちに見受けられた痣は確実によくないものだ。あんなに小さい子供がずっと1人で公園にいるのもおかしい。わかっていたはずなのに、理解しようとしていなかったんだ。
私は今も昔も、悠馬を助ける力なんてなかったから。

「同情と言ってもいいと思う、これは親愛とか、そんな綺麗なものじゃないよ。悠馬が可哀想だったから私は悠馬を忘れなかったんだ」

悠馬の腕から手を離す。悠馬の後ろに控えている車も、こちらを窺うように見ている少年のことも、何もかももう知りたくなかった。
悠馬のことを知れば知るほど、私は罪悪感で悠馬のことを忘れられなくなっていく。

悠馬は少しだけ呆気に取られて、それから何故か私の手を取って微笑んだ。およそ中学生がするものではない、昏いとろけるような笑みだ。

「罪悪感でも同情でもいいんだ、なまえちゃんが僕から目を逸らさないでいてくれるなら」

私よりも少しだけ低い頭を見つめながら、ああ、悠馬はきっと悪い夢を見ているのだと思った。あの頃の何も考えていない私がいなければ生きてはいけないという強迫観念にも似た認識か何かがあるのだ。

「なまえちゃんが慈愛だけの綺麗な人間だなんて思ってないよ。…機嫌の良い時特に優しくて、それ以外だと素っ気なくて、でも困ってる人を見ると良心で放っておけない、そんななまえちゃんが好きなんだ」

白皙の肌に鬱屈とした笑顔が浮かぶ。
ずっと悠馬と過ごした夏の記憶が呪いなのだと思っていた。けれど、実際悠馬に会ってその考えは違ったのだと知った。
悠馬の存在自体が私にとっての呪いだったのだ。悠馬が記憶の中でどんなに私を美化しているのかは知らないが、悠馬の言葉と表情のすべてが私をあの夏に縫い付けてしまう。
私がどんな顔で悠馬を見ているのかはわからない。ただ、悠馬はとろけるような微笑みのまま、するりと私の手に指を絡めて言った。

「ずっと僕と一緒にいてほしいんだ」

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