僕を苦しめて君を傷付ける僕を許す君へ

「や、ただいま」

当たり前のようにドアを押し開いて玄関に上がってきた赤い頭を半ば呆然と見ていた。
私のエプロン姿と、キッチンから漏れ出す匂いで「今日はカレーかな?」と宣った男の
肩を水に濡れたままの手で押しのける。
動揺を表に出す私とは対照的に、ヒロトは特に驚いた様子もなかった。

「…よく、よくのこのこ帰ってきたね」
「だって、君がいる場所が俺の帰る場所だし」
「アンタが作った檻だよ、ここは」

ヒロトは困った顔をする。私はヒロトのこの顔が嫌いだ。何でもかんでも飲み込んで、とりあえず自分の中でどうにかしようとする、堪える為の顔が。
ヒロトがこの顔をするたびに、私は体が裂けるような思いをするのだ。

「…ごめんね」
「悪いと思ってるならもっと顔に出しなよ、私はアンタの周りと違って察しよくない」

後ろ手に持っていたガーベラの花束を隠すこともせずに、靴も脱がないまま私に向かって腕を伸ばす。
黙って抱き締められたりするものかと、ヒロトの壊れ物に触れるような腕とは反対に、背中に爪を立てるように広い背中に手を回した。
がさがさ、私の背中で音を立てる花束の音に思わず口元が歪んだ。

「ガーベラ別に好きじゃないって前も言ったじゃん」
「え」
「ほんと私のこと興味ないよね、いっつも話聞いてないもんね」
「えっ、えっ」
「ふははは」

悪魔みたいな笑い方をした私と、今知りましたというような顔で私の顔色を伺うヒロト。かたやスーツで靴も脱がないまま、かたや窓から射し込む西日で汗の滲むエプロン姿で、変な姿勢で抱き合っている。側から見たらきっとおかしな光景だろう。

「ごめん、知らなかったんだ、本当に、いつ言ってた?」
「この前同じような感じでアンタが帰ってきた時に」

私にくっつく腕をもぎ離して、リビングへと戻る。慌てて靴を脱いでヒロトもすぐ後ろをついてきた。
私がいつも黙って花瓶に挿すものだから、ガーベラが好きだと思ったのか。

わかっている、別にヒロトが私の話を聞いていないわけではないということを。これは私の意地悪だ。
私がこの家に腰を落ち着けてから数週間経った夜に、ぽつりぽつりと寝ぼけたヒロトが言っていた。
私が生きて目の前にいてヒロトの名前を呼ぶだけで充分すぎて、他の細かいことは何も頭に入っていないのだと。人と生きるの下手くそかと突っ込んだことも、もう大分昔の話だ。

「今寝かせてるからまだ出せないよ。先に着替えてくれば?」
「…ううん、もうちょっとここにいるよ」

座る場所なんてどこでもいいのに、わざわざ2人がけのソファに座る辺り、何も考えていないわけではないのは明白だ。ヒロトのお望み通りエプロンを机に置いて隣に座ると、投げ出した手をしっかり握り込まれた。

「…ごめんね、なまえ」
「何に謝ってるの?」
「俺がここに帰ってくると、なまえいつも怒ってるから」
「…だって、アンタはいつも外で傷付いてくるじゃんか」

私の手を握っていた大きな手がぴくりと揺れた。
私とヒロトと、皆がお日さま園にいた頃の話だ。昔から何というか、度を越した元気で女の子らしさというものがなかった私を心配した瞳子姉さんが、特に私にひっついていたヒロトを使って私を大人しくさせようとした、呪いのような、当たり前のような話。

「どれだけサッカーがアンタにとって大切なものでも、それでアンタが苦しむと私が傷付くんだよ」

私が他所の何も知らないクソガキの喧嘩を買って怪我をすると、ヒロトが苦しむのだと。私を馬鹿にしてヒロトを悲しませる奴らなんて相手にすることはない、そう言って瞳子姉さんは人を殴るのも蹴るのも、これでお終いにしなさいと言った。
いつもの喧嘩で拳の皮が破れて血塗れだった私の手の痛みはヒロトの痛みになるのだと聞いてから、私は一切の喧嘩をやめたというのに。

「別にここに1人で置いていかれるのはいい。大変な事件に巻き込まれるのも、まあいいけど。それでアンタが苦しむと私も苦しいから、だから怒ってる」
「…」
「そう、怒ってるんだよ。本当ならぶん殴ってやりたいくらいだ」

私の拳はもう傷ひとつない。私はヒロトを傷付けない為に、苦しむのをやめた。
なのにヒロトは、苦しいままここに帰ってきて私を傷付ける。

「…殴られるのは、困るなあ。なまえのは本当に痛いから」
「なに、ヒロトを殴ったことなんてないじゃん」
「そうだけど、ずっと見てたから。なまえが僕達の為に戦うところ」
「…戦うとか、大袈裟」

ううん、と否定とも唸り声ともつかない声を漏らしながら私の頭に自分の頭をこつりとぶつける。
あの時の私はただ、家族を馬鹿にする奴らが許せなかっただけだ。苛立ちをぶつけていただけかもしれない。

「…ねえなまえ」
「ん?」
「結婚しようか」
「はあ」

この曖昧な半同棲状態に終止符を打つらしい。
ムードもへったくれもないな、と思いながら、元々そんなものを作るような関係でもなかったと思い出した。私達は元から家族だった。

「毎日ここに帰ってくるよ」
「そりゃ当たり前だ」
「もしかしたら、なまえが寝た後帰ってくるかもしれないけど」
「いつものことじゃん」
「多分、僕はまだ沢山外で苦しむことになる」
「…」
「なまえを傷付ける」

ぎゅ、と今度は私からヒロトの手を握る。それが合図だ。
ヒロトがまた謝り出す前にとくっつくヒロトを剥がしてキッチンに向かった。

「アンタがそういう酷い男だっていうのはずっと昔から知ってた」
「うん、ごめんね」
「いつも私怒ってるけどさ、でもさ、苦しいのを隠される方が多分もっと痛い」
「うん、僕も」
「だからこれでいいんだと思う」

弾かれたように顔を上げたヒロトを尻目に皿を取り出して鍋に火をつける。
酷い男なのは知っている。それ以上に繊細で優しい男なのも知っている。知っていたから、私はこいつを含めた家族が害されるのが許せなくて拳を振るっていたのだから。

「着替えてきなよ、ご飯食べよう。それからちゃんと、ゆっくり話をしよう」

感極まったヒロトが立ち上がってキッチンまで突撃してきてカウンターに背中を打ったので、またヒロトを叱ることになる。こいつと一緒にいたら、いつか私の血管は切れてしまいそうだ。

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