ちさきのパーフェクト数学教室

「治崎ー数学教えてー」
「良いですけど、俺のことはオーバーホールと呼んでください。相変わらず物覚えが悪いですね」
「最近治崎ズケズケ言うよね〜」

そうでもないですよ、と治崎は私と一緒になって数学のワークを覗き込む。
機械の掃除の話をするようになってから、治崎のマスクがいつもの黒いのじゃなくて鳥マスクになったから、近付くと当たって邪魔臭い。昔は近付いて下まつげの数とか数えてたのに今はくちばしが邪魔で出来ない。そして静かに頬を抓られる。

「この確率のやつわかんないんだよね」
「何で基礎が出来てるのに出来ないんですか」
「いやこいつら卑怯じゃん、最初はサイコロ1個だったのに急に増えるじゃん、しかも大きいのと小さいの」
「章ごとに復習しないからいつもそうなるんですよ。ちゃんと勉強してください」
「何言ってんの、私が頭良いのご近所でも有名でしょ」
「有名かどうかは知りませんけど、確かにお嬢の頭は良いです」
「頭は?」
「頭は」

頭はってなんだよ。まるで頭以外は駄目みたいじゃないか。
治崎に1ページ戻って説明を読めと言われて渋々ページを捲る。治崎はいつから私の前で手袋を外すようになったっけ。
じいちゃんが倒れてからだっけな。

「最近みんな見ないけどどうしたん」
「別に何も。いつも通りですよ」
「ほんとに?」
「俺がお嬢に嘘を吐いたことありますか」
「……ほどほどにある気がする」
「気のせいでしょう」
「そうかなあ」

まずい、1ページ戻ってもわからない。これはもう1ページ戻るべきか。全く話違うけど。
つい最近まで私とよく喋っていた組員がいなくなった。いや、家のどこかにいるんだろうけど、私の前に姿を見せなくなった。それと同じくらいにじいちゃんも私の前に姿を見せなくなった。
治崎はじいちゃんの体調がよくないって言うけど、あんな怒鳴るのに声張れるじじいがそんないきなり倒れるのかな。年寄りってそんなもんかな。

「じいちゃんが倒れてからさ」
「…」
「治崎気持ち悪いくらいお喋りになったよね。前は話しかけても6割は無視してたのに」
「お嬢が言ったんじゃないですか、無視するなって」
「言ったけど、これはこれでなんか気持ち悪い」
「そうですか」
「うん」

白い紙を途中までほどほどに黒くして、治崎を見上げた。
昔とは違う、何かに取り憑かれたように燃える目は私に警告をする。いつかお前も祖父のように、と。

「治崎さあ」
「はい」
「じいちゃんに何したの」
「…」
「あの声の大きさと元気だけが取り柄みたいなじいちゃんが、急に倒れるわけないじゃん。治崎何かしたでしょ」
「…俺が?」
「治崎以外に誰がいんの」

怖くないわけじゃない。治崎の目は射殺すように私だけを見ている。そんなの、怖くないわけがない。
でももう限界なのだ。私は家族が家族を手に掛けるのを見ない振りして平和に過ごせるほど悪人ではなかった。
じいちゃんという堰をなくした治崎を叱るのは、もうここには私しかいないから。じいちゃんと同じ目を持つ私がやらなければ。

「治崎」
「……はい」

震える手を治崎の頭に伸ばす。ドがつく潔癖症の頭に触れることもなく叩き落されると思った指先は、確かに治崎の髪に、かすかに触れる。

「駄目でしょ、悪いことしたら」

私より少し高い場所にある頭を何度か叩いて、それから手を下ろす。年下の小娘に叩かれてもなお、治崎は私から目を逸らさなかった。

「…で、今度は私なわけ?」
「………すいません。でも、貴女に邪魔される訳にはいかない」
「まあ治崎は一度決めたら折れないもんねー」
「お嬢、わかってて俺を呼んだんですか」
「うん。ここ最近治崎ずっと私のことバラそうとして機会伺ってたでしょ。流石に怖かったわ」

嘘。今も怖い。
昔うっかり治崎の個性でバラバラに弾け飛んだ奴を見たことがあったから。今から私もそうなるんだと思うと、震えるのも無理ないと思う。

「…お嬢が今まで通り何も知らずに学校で馬鹿やっていてくれていれば、俺だってこんなことしなくて済んだんだ」
「家族が倒れたら誰でも心配するよ」
「……知らなくても、生きていけたのに」
「何だかんだ言って決意したら後は早いの、知ってるでしょ」
「…そうですね。そうだった」

治崎の手がぴたりと頬に触れる。
決意してすぐ動いた私と違って、治崎は私をじいちゃんと同じにするのに一週間も迷っていた。その間、私の前に現れる治崎はド潔癖症のくせに手袋をしていなかった。覚悟が決まり次第すぐに私を消し飛ばせるように。

「…大丈夫、一瞬です。事が済んだら、オヤジも目を覚ましますから」
「本当かなあ」
「本当です。お嬢はこれから少し眠るだけです」

黄金色の目に促されて目を閉じた。

「信じてるからね。マジで頼むよ」
「はい」
「……治崎」
「何でしょう」
「悪いことはしちゃ駄目だけど、きっと組の為なんでしょ。ありがとね」

治崎が何か言いかけた気がするけど、それを聞き届けることなく私は文字通りバラバラになった。

そして私は二度と目覚めなかった。

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