多くを望んだ方が負け

「おい」
「はい?」
「お前は俺の女だ」
「そうなりますね」


この会話をしたのはもう十年も前のことになる。
肉じゃがが日常的に食べられないならもうとっとと日本に帰りたいと思っていたことも、
そこその歴史のあるジャパニーズマフィア、所謂極道の家に生まれた私が、何だか知らないが日本を訪れていたイタリアンマフィアのザンザスにイタリアに持ち帰られてしまったことも、もう過去の話である。当時はものすごくショックだったけれど、過去は過去だ。

庭で薙刀を振っていたら突然家の前に黒い車が止まって、降りてきた黒服の人達に連れ去られそうになって、当時それはもう騒ぎになった。
しかし、沸点が低い若い衆も、私がよちよち歩きだった頃から知っている古参の組員も、私を車に押し込めようとしていた人達を可哀想なくらいボコボコにして、逆に車に詰めてしまったから、当時の私はこの件についてそれほど大事だと思っていなかった。
本当に恐ろしかったのはこの後で、送り返したはずの黒い車が数日後再び家の前に止まって、中から降りてきたのは前とは違って身体中に傷痕がある男、まあ私の夫となる人なのだが、そんな人が降りてきて、家中がもうパニックだった。主に誰だお前とか顔面偏差値高いじゃねえかとかそんな言葉が飛び交った。うちの組員は普通にしていれば気の良い人達である。
その男は、縁側でお茶を飲んでいた私を指差して、「そいつを寄越せ」と宣った。パニックを超えて何故だか笑い出した強面の組員達に隠すように庇われて、玄関からお父さんが出てきて、何故か決闘が始まった。
「どこの馬の骨ともわからん男に娘をやれるか」とかなんとか言って、お父さんは挑んでいったけど、結局地面に膝をつけたのもお父さんだった。
あまりに急すぎる状況についていけない私を見やって、お父さんを負かした男は「明日迎えに来る」とだけ言い残して去っていった。

え、これ私を賭けた戦いだったの?と当事者の私が困惑するぐらいあっさりとついた勝負の結果に、組員達はそれはそれは涙しながら荷造りを手伝ってくれた。まず引き止めたり何とか逃がそうとしろよと思ったことも忘れていない。
あっちで着てください、と紬をくれたりもした。別にTシャツにジーパンで全然いいんだけどなあ、と思ったけれど、その時の私は訳も分からないまま日本を離れることへの寂しさの方が大きくて、思わず泣いてしまった。

次の日本当に迎えの車が来て、彼は私を大きな屋敷で待ち構えていた訳だけど、本当にイタリアに渡ったのはその数週間後、もっと言えば本当に籍を入れたのはその数ヶ月後のことであった。
私には未だによくわかっていないが、どうやら彼は当時日本で起こっていたイタリアンマフィアの抗争の真っ最中だったらしく、しかもそれに敗れた為半ば強制送還のような形で彼の部下共々イタリアに帰国したのだ。もちろん私もそれについていった。
これから長い謹慎だから、籍を入れるのはもうしばらく待てと長髪の部下に言われて、渋々といった形で私に書かせた婚姻届を奪い取り、そしてこの会話が行われたのだ。

「おい」
「はい?」
「お前は俺の女だ」
「そうなりますね」

以上が私とザンザスが出会って本当に夫婦になるまでの一部始終である。
彼はこの私の返答に不服だったようだけど、当時彼の名前すら知らなかった私にはわかるはずもなかった。


それから十年の時が流れ、私は彼の名前を知り、趣味趣向を知り、彼や彼の部下、組織についても知っていった。今ではザンザスがスクアーロくんにワイン瓶を投げても動揺しない。今でも日本で元気な極道の妻である母の血はしっかりと私にも流れていた。

「なまえー、またボスがスクアーロ殴ってたぜ」
「またぁ?もう。床汚すのも特技に入れた方がいいね」
「ししっ、ボスに向かってそんなこと言えんの後にも先にもなまえだけじゃね?」
「そうかなあ。意外と優しいとこあるよ、ザンザス」

それはなまえがなまえだからじゃん、と言ってベルはフランを引き摺って去っていった。
私はタオルを持ってザンザスの部屋に向かう。ちょうど赤いワインを滴らせたスクアーロくんが部屋から出てきたところだった。ドアが閉まる寸前に追撃とばかりにグラスも飛んでくる。

「スクアーロくん、大丈夫だった?」
「大丈夫に見えるかァ」
「いや、スクアーロくんじゃなくてカーペット。こないだ変えたばっかりじゃない」
「…それでこそザンザスの嫁だ」

スクアーロくんは呆れたように溜め息をついて私の手からタオルを奪っていった。
入れ替わりに重たいドアを押し開けると、ベットで新しいワインを開けようとしているザンザスと目が合った。

「カーペットもワインもタダじゃないんだから、ちょっと考えてよね」
「…フン」
「もう、聞いてってば」

馬鹿みたいに大きなベットに私も腰掛けて、ザンザスの肩に頭を預ける。流れるような手つきでザンザスの手が私の髪を梳いた。

「…おい」
「はい?」
「…お前は俺の女だ」

思わずザンザスの顔を見上げるけど、ザンザスは私のことを見てすらいなかった。
私はびっくりしてしまって、しばらく沈黙が部屋を支配した。

「……それって、今日が十年目だから?」
「…別に意味なんてねェよ」
「…ふーん」

ごつごつした指が唇に押し付ける小さなチョコレートを素直に受け入れると、口の中にとろりと甘さが広がる。けれど、私には少し甘すぎる気がした。

「…初めてイタリアに着いた時ね、肉じゃが食べれないならもう日本帰りたいなって思ってた」
「今でも狂ったように食ってんじゃねェか」
「お黙りっ」

ザンザスの頬を両手で挟む。あひるちゃん、なんて言ったら手を跳ね除けられた。

「ザンザスのこと何も知らなかったし、イタリア語わかんないし、白米食べたかったし、イタリアの人達みんなスタイルいいし、ザンザス何も言わないし、ていうかいなかったし」
「…」
「でもねえ、今は違うの」
「…」
「ザンザスのこと沢山知ってるし、イタリア語わかるし、意外と白米食べてるし、スタイルは諦めたけど。ザンザス何も言わないのも諦めた」

はぁ、と息を吐く。
十年も一緒にいたんだ。彼の気持ちは手に取るようにまでとはいかないけど、さっきまで部屋にいた金髪のお姉さんよりはずっとわかる。

「みんな優しいし、パスタ美味しいし。ザンザスもね、好きになった」

誰よりも彼に愛されている自信がある。だからどんなに危ないことがあったって、家族と離れていたって、全然へっちゃらなのだ。
私にはどこまでも私の味方をしてくれるとっても強い旦那がいるのだから。

「ね、もう一回言って、さっきの」
「あ?」
「十年目だから返事も更新する」
「意味わかんねェ」
「いいから」
「……………お前は俺の女だ」
「うん。大好き、tesoro mio!」

あ、ちょっと照れた。

- ナノ -