鈍色の保健室

俺は、名前も知らない曲のメロディだけ、ピアノで弾ける。
別に好きでもない曲だし、第一曲名も知らなければ誰が作った曲なのかも知らない。でも、小さい頃からずっと、右手だけで弾き続けてきた曲だ。
左手は、保健室の先生が弾いてくれていた。

俺が先生と会ってから、先生は俺に知らない女の人を紹介した。
「この人は誰?」って訊いたら、「学校には保健室の先生も必要だろう」と言われた。
保健室なんてないだろ、と思ったりもしたけど、今思えばあの人の存在自体が保健室だった。例えとかじゃなく、物理で。あの人の個性は「他人の傷を自分の体に転移させる」ものだったから。
保健室の先生は、「私のことはなまえと呼んでね」と綺麗に笑った。それが本名かはわからなかったけど、不思議としっくりくる名前だったように思う。

なまえは俺が先生と出掛けるたびに笑顔で「いってらっしゃい」をしたし、帰ってきたら「おかえり」と笑顔で俺を抱き締めた。
逆に言うと、俺がそれに返事をするまでは靴すら脱がせてもらえなかった。ここ本当に敵連合本拠地で合ってるかな、って確認したくなるくらいにその光景は普通の家族だった、ように思う。俺にはわからないことだ。
毎日なまえの手作りのご飯が待っていたし、風呂から出るとタオルを持ったなまえに追いかけ回された。あの瞬間だけなまえは異常に足が速くなるのだ。
風呂から上がって時間がある時は、なまえと古ぼけたピアノを弾いた。そこで俺は、名前も知らない曲を覚えたのだ。
ぼろぼろの絆創膏塗れの指が、静かに鍵盤をなぞっていくのを、俺はただじっと眺めていた。暫くすると、絆創膏塗れの手が俺の手を取って、同じ鍵盤をなぞり始める。
それを繰り返している内に、俺は右手だけメロディを覚えて、左手は教わることなくなまえと一緒に、飽きもせず同じ曲を弾いていた。
ピアノを弾いている時、なまえはぼろぼろの横顔で、目を伏せながらいつも俺に「大人になってね」と語りかけていた。
俺が「大人って?」と問いかけると、なまえは「弔が、どうであれ大きな怪我をしないで、こんな感じで大きくなっていってくれると、私は嬉しいなぁ」と笑った。
それを聞いて、俺はぼんやりテレビで見た母親に、少しだけ、ほんのちょっぴりだけ似ているかもしれない、と思ってしまった。


だから俺は、なまえを殺した。
先生が、「保健室はもうお終いだよ」と言って、なまえを指差したから。
そのまま俺は、両腕をなまえの肩に回して、両手でしっかりと抱き締めた。
ぼろぼろ、少しずつなまえが崩れていくのが指先から伝わってきて、俺は初めて人を殺すことが怖くなった。
なまえは、痛くないみたいに、いつも通りに綺麗に笑って、俺の腕の中にすっぽり収まった。昔は俺が小さかったのに、今ではなまえの方が小さい。
なまえの暖かい手がしっかりと背中に回って、俺は気が狂いそうだった。
怖くてがたがた震えるのも、人を殺したくないって思うのも初めてで、なまえは全部わかってて、わかってて笑っていた。

「弔、大きくなれた?」

たったこれだけの、短い問いかけだったけど、俺は何て答えればいいのかわかっている。わかっているけど、それを言ったら今度こそなまえは完全にいなくなってしまう。
俺が大きくなったなら、大人になったなら。学校は卒業しないといけない。保健室と、なまえと、さよならしないといけない。
だから、俺は崩れるなまえの肩に顔を押し付けたまま、笑った。

「うん。…なまえより、ずっとずっと大きくなった」
「…………そっかあ」

もう、なまえの背中は掴めなかった。放っておいてもなまえは崩れる。保健室は、もうお終いだ。

「じゃあ、私がいなくても、もう大丈夫なんだね」
「うん」
「よかった、弔、ちゃんと大きくなれたじゃん」
「うん、あのさ、なまえ」
「…なあに」
「嬉しい?」

その時、もうなまえは塵になる寸前だった。だから、俺の問いかけになまえは答えてはいないのかもしれない。
でも俺は、確かに聞いたんだ。

「もちろん!嬉しいに決まってるよ」

そうして、俺だけの保健室は終わって、なまえのお墓を作った。
全部が終わって、オールマイトを殺したら、もっとしっかりしたお墓を作らないと。
そして、来世にコンテニュー。セーブデータを読み込めば、きっと戻れる。
なまえとピアノを弾いていたあたりの、あの頃に。
戻れるといいなあ。

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