完全な円になりたい

「ぱまぎーちぇ……」

 夜。珍しく食後にしょんもりしているヴァシリはそう呟いたっきりソファに倒れ込んでしまった。
 クッションに顔を埋めて、再びくぐもった声で「ぱまぎーちぇ〜……」と呻く。
 何を言っているかまったくわからない私を一瞥もせず、テーブルで晩酌していた尾形だけが「ははっ」と笑い出した。
 尾形とヴァシリはロシア語でやり取りが出来るが、私が話せるのは日本語と、日常会話程度の英語だけだ。

「Прости, но я не могу」
「Я не говорил Огате…」
「私にもわかる言葉で話していただける?」
「俺には用がねぇとさ。心配してやってんのに冷たい奴だ」
「Шумно!」

 ぼすん、と淡い水色のカバーのクッションが尾形に投げつけられた。どうやら本気で滅入っているらしい。
 とはいえロシア語でやりとりされては私には1ミリも話が通じないので、とりあえずソファで轟沈しているヴァシリの脇でしゃがみ込んでその背中を擦った。

「まぁ落ち着きなさいよ。尾形じゃ駄目ならなまえさんはどうだい」
「ン〜……」
「おいなんでそこ悩む」
「戦力になるか考えている」
「失礼なやつめ……」

 そうは言うものの、「役に立たないなら退散します」と離れようとした私の手はがっしり掴まれてしまった。
 仕方ないので再びソファの脇に座り込む。今度は顔を横に向けてこちらを向いたヴァシリの顔は何だかげっそりしている。

「大学の同じクラスのオンナノコが、アー……Это очень настойчиво, и я в беде…尾形」
「女子に付き纏われてウザいんだと」
「へ〜意外」
「意外? なぜ」
「だっていっつもまんざらでもない顔してるじゃん」
「してない!」
「うわっごめんて」

 ぼすん、とクッションで叩かれた。ヴァシリの持ちクッション残機は残り1である。
 全員にクッションが行き渡った謎の状況のなか、ヴァシリは更に続ける。

「毎日、ご飯誘われる…Я спросила своего друга, могу ли я выпить и вернуться домой до утра. Вынужденный утренний дом, я не знаю, что будет сделано, кто пойдет, этот ублюдок!」
「尾形さ〜ん?」
「…酒飲まされて朝まで解放されんらしい。強制朝帰り、何されるかわからん、誰が行くかこの野郎……だってよ」
「あら〜」

 相当嫌なんだな。
 寡黙で基本的に興味のない話題には全力でスルーをキメるヴァシリがここまで疲弊すると言うことは、相手も相当粘り強いらしい。
 ヴァシリ以外の留学生はそういないと前に聞いたから、恐らく日本人だろう。日本人が外国人に迫ってるって、なんかイメージと違うなあ。

 ヴァシリはお酒が嫌いではない。
 むしろ、週末には必ず尾形とお酒を飲みながら溜まった録画番組を消化したり、ご機嫌で絵を描いていたりする。ロシア人らしく度数の高いものもパカパカ空けていくから、多分相当強いのだと思うが。

「お酒飲むのが嫌なの? それとも朝帰り? 外食別に嫌いじゃないでしょ」
「アレと飲んでも楽しくない。ゼッタイ」
「アレとか言うな、仮にも女の子でしょ」
「アレが女の子!? だったらもうニホンはヤマトナデシコ絶滅してる!!」
「そうだよ、ヤマトナデシコは絶滅してるよ。そんなもん外国人の幻想に過ぎん」
「ナンデ!?」
「なんでも」

「アー!!」ヴァシリの大きな手が両肩を掴む。そのまま前後に揺すられて、果てにはがばりととんでもない力で抱きしめられた。

「迎えにきて! 学校のまえ! 最悪尾形でもいい!」
「え〜やだよ〜」
「最悪ってなんだ」

 迎えにきてなんて簡単に言うが、私達はもれなく全員大学生。更に私と尾形は同じ大学だが、ヴァシリの美大は電車の線も違うし方向も真逆だ。
 ヴァシリも私達がわざわざ電車を乗り継いで来る確率が限りなく薄いと踏んでいるのか、「オネガイ! オネガイ!」と繰り返している。

「最悪って言われたしな、俺は期待すんな」
「あっおまえ」
「なまえ!」
「嫌だよぉわざわざそっちまで行くのぉ。定期に入ってる分のお金じゃ足りない気するし」
「ソコヲナントカ!」
「こういう時だけカタコトになるな」

 ヴァシリの拘束から逃れて自分の部屋に引っ込んだ。
 明日私か尾形が行ったからって事が解決するわけじゃないだろうし。毎日迎えに行くなんて無理だし。
 流石に無理があるよ。うん。


『なまえ冷たい……』
「…『お前、明日何時に終わるんだよ』」
『3時過ぎ』
『随分アバウトだな』
『尾形来てくれるのか? お前役に立つのか?』
『お前本当に年上への敬意ってもんがねぇよな』

「……でもまぁ、俺はともかく多分アイツは来るぞ。何だかんだ言ってお前には甘いからな」
「Что?」
「何でもねぇよ」


* * *


「――何だ、尾形来たの」
「お前こそ」

 結局、ヴァシリの通う美大の前で尾形と鉢合わせてしまった。
 この分だと多分乗ってきた電車も同じだろう。どうして気付かなかったのか。
 ふたり並んで塀に凭れかかってスマホを開く。

「ていうか3時過ぎってなに? ギリギリすぎてめっちゃ走ったんですけど」
「マジか、ガチじゃねぇか」
「しょうがないでしょ、またそれでヴァシリがへこんでたら正直めんどい」
「それ絶対本人に言ったら拗ねるぞ」
「言うわけないでしょ」

 ちょうどその時、学校の敷地内から「えーっ」という甲高い声が聞こえてきた。
 お互いびっくりして肩を竦めながら辺りを見渡していると、「ヴァーシャ」と聞き流せない名前まで飛び出す始末。
 確実にこれだろ。
 隣の尾形を見上げると、尾形もこちらを見下ろしつつ髪を撫でつけて微妙な顔をしている。
 確かに、そんなに仲良くもない相手に略称で呼ばれたらあのヴァシリ相手なら機嫌を損ねまくるだろうな。あの子よくわからない人見知りだし。

 とはいえ近くにヴァシリがいるのは確かなようなので、スマホをポケットにしまって尾形を肘でつつく。

「なんて呼ぶ? あっちがヴァーシャならヴァシリューシュカ?」
「オイ待て意味がわからん」
「いや、こっちの方が仲良いですよって牽制しといた方がいいかなって…」
「いらんいらん」

 尾形は止めたが、私はもう二度とこんなくだらない理由で私よりも大きい子供のお迎えに来る気はないので、気合を込めて「ヴァシリューシュカ〜!」と大きな声で叫んだ。
 通行人が何人か振り返り、ついでに尾形が大きな溜め息を吐いたが、甲高い猫撫で声は止んだ。

 反応がないので仕方なく門から敷地内を覗くと、少し離れた場所から見覚えのある大きな人影が一心不乱にこちらへ向かっているのが見えた。競歩と小走りの間くらいの速度だ。
 数歩後ろにはコンパスの差により完全にヴァシリに置いていかれている女子たちが見える。なるほど、あれが。

「遠くてよく見えないけど結構カワイイ子多いね」
「目腐ってんのか?」
「失礼すぎんか? 喧嘩なら買うぞ?」

 料理担当にあまり舐めた口は利かない方が身のためだぞ。

 ヴァシリはすぐにやってきた。
 私達が揃ってやってくるとは思っていなかったらしく、何やら感激した様子で私達をぎゅうぎゅう抱きしめる。

「Почему вы двое там!? Я думала, никто не придет!」
「なんて?」
「来てくれてウレシイ!!」
「おーおー嬉しいね〜よーっしゃっしゃっしゃ〜」
「おい外でくっつくな」
「あとВасильюшкаって呼んだ! いつもは呼ばないのに!」
「気合のあらわれです」

 ややあって、私達に抱き着く(というか覆い被さる)ヴァシリの後ろから、「ヴァーシャ〜」「置いてかないでよぉ」という声が聞こえてきた。
 ヴァシリの逃亡もあえなく、すぐに距離を詰められたうえ、未だ彼を連れていくことを諦めていないらしい。
 ヴァシリに隠れて私達が見えていないのかもしれない。

「尾形、合わせてね」
「内容による」
「そこは応って言えや……」

 尾形の脇腹を肘で突いてから、ヴァシリの抱擁から逃れ出来る限り穏やかな声で「ごめんね〜」と微笑む。
 私と尾形でヴァシリを挟みながら、二人していつもは浮かべない穏やか過ぎて不気味な笑みを貼りつけた。

「うちのヴァシリューシュカ、仲良くない人とはご飯食べれないタイプで。今日もこの後3人でご飯食べる約束してるから、手、放してもらえる? 家族水入らずみたいな感じなんだ」
「時間が押してるんだ、すまんね。いつも仲良くしてくれているようだが、夜は揃って飯を食うのが我が家の決まりだ」

 そのままヴァシリと腕を組んでUターン。尾形はヴァシリの背中に手を当ててぐいぐい押している。
 三十六計逃げるに如かず、あとはさっさと逃げるに限る。

 文句を言われる前にさっさと大学前から退散して、曲がり角を曲がったタイミングで歩調を緩めつつ「は〜」と詰めていた息を吐き出した。

「めっちゃ目がガチすぎて怖かったんだが。あれガチ恋じゃないの? 本当に私達介入してよかった事案?」
「知るか…二度とやらん」
「それは同感。てことで二度目はないからあとは自分で何とかしてね。……ヴァシリ?」

 見上げた顔はぽかんとしたまま。あの短時間に何か衝撃を受けることでもあっただろうか。
 ややあって、力の抜けた顔をしていたヴァシリが「семья?」と呟く。

「すぃ…なに? なんて?」
「……家族? なまえと、尾形?」
「あー、まぁ言葉の綾ってやつだけども」
「お前の家族は海の向こうだろ」

 どうやら私達の言葉は耳に届いていないらしい。
 比較的表情の変わらない仏頂面が基本ステータスな彼の表情は、みるみるうちにふにゃふにゃになっていった。

「Я люблю тебя до смерти!」
「ちょっと、あんまりくっつかないでよ。歩きづらい」
「だから外でくっつくな…」
「Я люблю тебя! Я люблю тебя! Вернемся вместе в Россию в конце этого года!」
「なんて?」
「行かねえよ寒いに決まってるだろ」
「ねぇなんて言ったの? ちょっと?」

 サンキューぐーぐる翻訳


(title by 天文学)


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