あれから、毎日。毎日毎日毎日。ムラタさんは何事もなかったかのように私の家を訪ねた。漫画を読み、私にちょっかいを出し、そして帰っていった。昨日も一昨日もその前も、そしてきっと今日も明日もその次も。そんなムラタさんの様子を見て、ねえ結婚の話はどうしますか、なんて言い出せるはずもなく、私はため息を吐き吐き、ただ日々の過ぎていくのを眺めている。
 ムラタさん、私、決して軽い気持ちでプロポーズしたんじゃないですよ。
 そんなことを言ってもいまのムラタさんは笑って受け流すだけに違いない。あの人きっと、私のことを姪っ子かなんかと勘違いしていて、なにを言っても真正面から受け取ってくれやしないのだ。餓鬼の言うことだからって。私は16歳だ。車の免許だって取れるし、結婚だって、できる歳なのに。
 学校の最寄り駅から、家の最寄り駅まで、たったの10分。眠ることさえできないその時間に、私はただ席に着いて、向かい側の窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。考えていたって仕方がない。現実がどうしようもなければ理想に逃げるしかないのだ、とカバンを開ける。
 さっき転んで中身をぶちまけてしまったせいで、その中はぐちゃぐちゃになっていた。漁る。ぶつかった人、同じ制服でネクタイに同じ色のラインが入ったあの人。同級生に違いはないんだろうけれど、初めて見る人だった。背が高くて、声は低かった。音程も音量も。思い出しながらカバンを漁る。しかしあういう、普通にかっこいい感じの同級生を好きになることができたなら、たぶん私は今よりもっと幸せになれるのだろう。考えながら、カバンを漁る、漁る、漁る、――。
 漫画がない。

 人の気配すら感じられない路地裏を、たまにため息を吐きながら歩く。どうしてあの人のことを心から信用してしまったんだろう。全て拾ってくれたかどうか確認しなかったんだろう。恐らくあの漫画をホームに置き去りにしたまま私はその場を去ってしまって、あの漫画は、親切な人に拾われて駅員さんに届けられたか不親切な人にパクられてしまったか。また一度、ため息を吐く。
 もう簡単には手に入らないのに。大切な大切な、私の理想だったのに。
 とぼとぼ歩いていると、いつの間にか自分の家の前に着いていた。門にもたれかかって、ムラタさんが煙草をふかしている。

「鍵開いてないし」
「当たり前です」
「今日から学校だったの?」
「言ってませんでしたっけ?」
「聞いてない。腹減った」
「今日はひとり分の材料しかないので勝手になにか買ってきて自分のご自宅で召し上がってください」

 もうこんなやり取りにもすっかり慣れてしまった。16歳の女子高生と30代の隣人職業不詳男の会話だとわかって聞くとなかなかに不穏なものではあるが、私にとってはこれが平穏となってしまったのだ、いつからか。

「あー」

 ムラタさんがわざとらしく腹を抱える。

「あきらめてください。家開けますけど今散らかってるから入らないでくださいよ」
「あいつまだかな」

 あいつ?
 ポケットから鍵を取り出そうとした手が一瞬止まって、そのひと言に対する違和感が、塊となって胸まで喉の奥までこみ上げてくる。

「……あいつって誰ですか?」
「ん?あ、話してなかったっけ」
「なにがですか」
「俺甥っ子と一緒に住んでてさ」
「はあ?」
「おじさん」

 背後から低い声。振り返るとなんとなく見覚えのある顔があった。徐々に視線を下げる。同じ制服。ネクタイに赤いライン。もう一度その顔を見ると、なんだか怪訝そうな表情を湛えていた。

「おーおかえり!洸」
「な」
「……ただいま。……さっき」
「え、うん。やっぱり、さっきの人、……ですよ、ね?」

 なにがなんだかわからない。ムラタさんは私と、コウと呼んだその男とを交互に指差し、「えーなに、知り合い?」とにこやかだ。

「さっき駅でぶつかっただけ」
「そうなんだー。おじさんはね、この子の家によくお邪魔させてもらってるのよ。玲奈ちゃん」
「……おじさんが家にいないことが多いのはそれ?」
「そうそれ。勝手にご飯食べてきちゃうときがあるのも、それ」
「……すません」

 男は困り果てた顔で私に謝った。今日2回目だ。

「おれ、村田、洸」
「え、っと私は花野玲奈……びっくりした、ムラタさんって一緒に住んでる人いたんだ、知らなかった。あ、私は隣でひとり暮ししてて」
「ひとり……」
「うん。ちょっと色々あって」

 特になにもないんだけど。男は俯き、目線を逸らし、頭を掻き回した。挙動不審だ。
 しかしそんなこと気にならないくらい私は驚いていた。ムラタさんと知り合って1年強、私はムラタさんに同居人がいることを聞かされておらず、その存在に気づいてすらいなかったのだ。そういえば彼の口からちゃんと「ひとり暮らしだ」と教わったこともなかったような気もする。ただ頻繁に、自由なペースで私の家に入り込んでくるから、私が勝手にひとり暮らしだと思い込んでしまっていただけの話だ。
 それにしても、叔父とふたり暮らしとはどういうことだろう。
 きっと向こうも、ひとり暮らしって、と思っていることだろうけれど。










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