ない。
 ないぞ。

「……誰が買ったんだあーくそーあんにゃろーっ」
「飛鳥、もうあきらめなさい」

 ユッコがそう言って腕を引いてきても、私は古びた本棚から項垂れた頭を離せそうになかった。
 ずっと欲しかった1冊の漫画。ずっと欲しかったけどどこの店でも見つけられず、ネットで売られている中古品はあまりに高価でとても手が出せなかった、1冊の漫画。駅の近くのまんだらけでようやく、価格も手頃な――とは言っても定価よりは若干値が張るけれども――その1冊の漫画を見つけたとき、私はまだ受験生であったから、受験が終わるまで受験が終わるまで我慢だと、自分に言い聞かせ続けていたのに、いざ受験も終わって高校生になれて、心躍らせつつ買いに来たら、この仕打ちだ。身を切られるようなとか、胸がえぐられるようなとか、そんな慣用句よりも先に、ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」の美しいメロディと哀愁を帯びた歌詞が脳内に浮かんだのだった。

「もう、そんな子どもみたいな格好やめてよ。こっちまで恥ずかしいんだけど」

 ユッコが小声でまくし立てる。ほんとうに恥ずかしそうな様子だけれど、他人のことを気にしている余裕などいまの私にはないのだ。ずっと欲しかったものに、やっと手に入れられると思ったものに背を向けられた、いまこの瞬間のこの私の胸の内。少し大袈裟かもしれないけれど、失恋と同じ感覚とも言えるだろう。失恋どころか色恋沙汰のひとつもしたことがない私が言うのもあれだけれども。とにかく、悲しくてやりきれないのだ。

「そんな落ち込まなくていいじゃん、ね、またどっかで見つけられるかもしれないじゃん」
「なんでそんなことなんも知らないユッコが言えるの……」
「言えるんだよ。ほら、高校だって、飛鳥なら受かるよって私が言ったら、ほんとうに受かったじゃん、漫画のひとつだってすぐ見つかるよ」

 それは私が自分の学力より少しレベルの低い高校を受けたからではなかろうか。そんなことを思ってしまって、慰めのひとつもまともに受け止められない。もう高校生だというのにこの我侭さ!しかしそれほど、私があの漫画に懸ける思いは強いものだったのだ。
 日の戯れ。

「邪魔」

 背後から突然、ユッコのそれとは違う、低い低い声が投げかけられた。項垂れていた頭も勢いづいて前を向く。そのままの勢いで後ろを向くと、どこかで見たことのあるような容貌の男がひとり、怪訝そうな顔をしてそこに立っていた。
 私と同じ高校の制服を着ている。ということは私と同じ高校だ。ネクタイに赤いラインが入っている。ということは私と同じ学年だ。というかこの感じ、同じクラスで見たことがあるぞ。あれ、それは。

「……む、む」
「名前思い出すのはいいから、とりあえずどいて」

 無表情のまま、低い声でそう要求してくるものだから、なんだか怖くて、慌てて身体を避けてしまった。男は、さっきまで私が寄りかかっていた本棚の前で座り込み、ひと昔前の絵柄の漫画を物色し始める。

「……む、なにくん?」
「なに、知ってる人なの?クラスメイト?あんたもう5月なのにクラスメイトの名前も覚えてないの?そんで私に訊かれてもわかんないよ」

 小声でユッコに尋ねるも、またまくし立てられてしまった。というか、怒られた。やはりユッコとクラスが離れると私はダメダメである。ただの懐かしもの大好きな、人とまともにコミュニケーションも取れなければ名前も覚えられない、おかしな子になってしまう。育てられ方が間違っていたかと心中でくじけそうになりつつ、唯一の頼りの綱であるユッコのそばに寄り添って、私は男の様子をじっと眺めていた。
 男は背が高い。目が少し細くて、色が白い。伸ばしっぱなしの前髪のせいで、男が本棚を覗きこんだり漫画を1冊手にとったりするたび、左目が見えたり隠れたりを繰り返している。恐らく休み時間ずっと漫画を読んでいる男集団のうちのひとりだろう。
 待てよ、だとしたら、私はこの男と仲良くなれるのではあるまいか。普段の教室ではとても話しかけられないような群れ方をしている彼らに、もちろん私はとても話しかけられず、というか話しかけるという発想すらなかったわけだけれども、仮にも私は漫画好きなのだ。いま私がこの店にいるということがその一番の証明になるはずだ。そしてこの男、そんな私と同じ場所にいてしかもこんな古臭いコーナーに居るのだ。教室でいつも読んでいるのも、私の苦手な、某週刊誌のようなたぐいの漫画ではないのかもしれない。例えばそうだな、日の戯れ!のような。
 なんとはなしに、気分が高揚するのを感じた。となるとあとは早いものだ。ふと脳内に、教室内で聞いた、この目の前の男を呼びかける声が蘇る。某週刊誌を手にニヤニヤしている男や、遠くでヒソヒソうわさ話をする女の声。む、む、むら。

「村田くん」

 胸のつっかえが取れたからか、男に自分から話しかけるのなんて久しぶりだからか、想像よりも大きな声が出た。目の前の男――村田はまた無表情で「はい」と振り返る。手に持っている漫画の表紙には、私がこの瞬間、見たくてたまらなかった作者の名前。気分が高揚し切るのを確かに感じた。そんななかでも、一瞬だけ、どうしようかしら、などと考えたけれど。

「私と友だちになってください」

 結局自分でも考えていなかったような行動に出てしまった。その計16文字を言い終えたあとになって、あれ、どうしたものかしら、なんて焦り出す私がいたし、ユッコをちら見したら、すげえびっくりしてる感じの表情だし、村田に視線を戻すと、彼もまた細い目を見開いているし。
 しかし、普段喋らない反動か、興奮した私の口は止まらなかった。

「あと、日の戯れ持ってたら貸してください」

 かくして、私に初めてユッコ以外の友人ができ、その後1年とちょっとの間、やたらと世話をかけることとなったのである。ああ、まるで漫画のような出会い方だと、浮わつく気分のなかで考えたことは、案外外れてはいなかったのだ。






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