私が洗濯機に洗い物を突っ込んで広間へ戻った今このとき、本棚にもたれかかった男が真剣に読んでいるその1冊の漫画は、以前私が薄暗い古本屋で手に入れたものだった。定価より少し、高い金額を出してまで、買ったものだった。

「ムラタさん」
「なんでこんな古い漫画持ってるの」
「ムラタさん。人ん家に勝手に入らないでって言ってるでしょう」
「鍵開いてたし。ねえ、これ、高かったんじゃないの」
「あんまりレアでもないらしいんですよ、それ」

 ムラタさんはふうんなんて適当に返すと、また黄ばんだページをいくつかめくった。

「まんだらけで買ったの」
「ええ」
「おたくだねえ」
「ゲームばっかりのムラタさんに言われたくないです」

 私はしばらくムラタさんの横で彼の漫画を読む姿を観察していたが、やがてすぐそばのちゃぶ台までふらりと歩み寄り、突っ伏した。

「女子高生なんだからファンタジーとか読むべきでないの」

 ムラタさんの声が近寄る。その男はちゃぶ台の、私の向かいに座り込んだようだった。

「ファンタジーはどーせファンタジーですからね」
「深いねえ、よっと」
「だから、禁煙だって言ってるじゃないですか」
「まあまあ」

 少し顔を上げて、ムラタさんが器用な手つきで火をつけた煙草に、そっと舌打ちを投げてみた。
 3月の第1週、感じられるのは、この間までより随分と和らいだ寒さだが、暖房器具と呼べるものが何一つないこの家は、まだ充分ひんやりしている。ぴんと張り詰めたような冷たい空気に、無機質な物音は異様なほどよく響いた。ムラタさんが漫画のページをめくる音、煙草の煙を吸って吐く音、洗濯機が回る音、だけのこの空間の雰囲気は、どこかデジャヴを感じさせる。冷たいちゃぶ台に右頬をくっつけて、なんなんだろうな、なんて考えたりしてみた。

「春休みまだなの」
「終業式はだいぶ先だけど、明日学校行ったら、実質休みです」
「おう。たまに遊びにくる」
「春休みじゃなくてもくるじゃないですか」

 ムラタさんがへらへら笑っている。煙草の匂いは徐々に部屋を侵食し、私はふと、点と線がつながるのを感じた。
 この家に移り住んで1年が経つのだ。

 あの黄ばんだ漫画は確か30年ほど前に出版されたもので、当時齢15だった私の知らない世界が描かれている。昭和時代、木造アパートの一室でふたり身を寄せ合う夫婦、決して裕福ではないけれど、青臭い言葉を使って表現するならば、そこには確かな愛がある、のだ。
 引っ越しのちょっと前、そして高校受験のほんのちょっと前、私が薄暗い店の一角でその漫画を手に取ったとき、確かに持ったのは、その世界への好意と、そして、憧憬だった。あれほど古臭い漫画を、定価より少し高い金額を出してまで、買ったのはそういう理由からだろう。
 今自分が同じような状況に身を据えているのも同じ理由からなのか、ただの偶然なのかは、未だにわからない。
 木造の家、必要最低限の家具、必要最低限のお金。すっかり漫画の世界に入り込んでしまったようだ。我が家は一戸建てなのでアパートに比べるとだいぶ広いし、家具だって量や種類は最低限とは言え新型のものばかりなので、全く同じ世界ではないけれど、この家にいて平成の世らしさを感じることはあまりない。

 それでも、15歳の私が知らなかった世界は、16歳になった今でも、知らない世界のままである。その原因は私がひとり暮らしだからだというのが今わかったことだ。

「次高校3年生だっけ」
「だったらもうちょっと焦ってますよ。高2です」
「そうかあ。いいねえ。いちばん楽しい時期だよ」
「そうですか?」

 そうだよ、おれ友だちいなかったけど、なんて適当なことを言うムラタさんの姿を、おもむろに上半身を起こして、きちんと見つめてみる。

「ムラタさん」
「んー」
「結婚しましょうか」
「そうだねえ」

 冬の木造一戸建て。それでも庭の桜は芽吹き始め、2度目の春の訪れを知らせていた。






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