「あなたは無能の人ですか?」 「え?」 「言い訳と甘え」 「ああ。わたしはスポーツも勉強もできません。無能です」 「なるほど」 「あなたは」 「僕はスポーツが得意ですが無能です」 「あら」 なんてことはない。公園のベンチ、わたしの横に偶然座った男の人は、ええと、男の人に色気という言葉を使うのがあまり好きではないので、大人な雰囲気をまとっているとでも言おうか。少なくとも、高校生でまだお子ちゃまなわたしよりかは、落ち着いている感じがする。 「あなたは日本語の使い方が少しおかしい」 「いいえ。僕は無能の人です」 男の子の泣き声。聞こえてくるほうに目を凝らすと、どうやら風船が木に引っかかっているようだ。 「あの子のもとに風船が戻ればいいのに」 わたしがつぶやくと、風船は不自然な動きで男の子のほうへ戻った。男の子は喜んでいるようだ。わたしは横にいる男の人からの目線を感じたが、気にしないことにした。 「あなたは、スポーツと勉強以外に得意なものはないんですか」 「え?」 「スポーツと勉強以外に得意なもの」 「ああ、ごめんなさい。耳が悪いもので。わたしね、小さいころにお母さんが殺されたんです」 「なるほど」 「頭がふっとんだんです。わたしの目の前で。わたし見てたのに助けられなかったから」 「だからあなたは無能の人」 「そういうことですねえ」 女の子の泣き声。聞こえてくるほうに目を凝らすと、どうやら石にけつまずいて転んでしまったようだ。 「あの子の怪我が治ればいいのに」 わたしがつぶやくと、女の子のひざをぬらしていた赤い血は肌色と同化した。女の子は喜んでいるようだ。わたしがちらりと横にいる男の人を見ると、男の人は小さく、なるほどなるほど、と繰り返していた。 「あなたはどうやら無能ではないようだ」 「いいえ。これはお母さんを助けられなかった後悔から生まれた」 「なるほど」 「これは当たり前のことです。お母さんを助けられなかった代わりに、人を助けるのです」 「なるほど。その技術でお母さんを生き返らせることは?」 「え?」 「お母さんを生き返らせる」 「できないようです。お母さんを助けられなかった代わりに、人を助けるのです」 「償いということですね」 わたしは、どうしてこの人は、わたしが制服を着ているというのに、学校に行かないのかどうかたずねないのだろう、と全く別のことを考えていた。 「この世界はおかしいですね。少し」 理由はすぐにわかった。今日は日曜日だからだ。わたしはどうして制服を着ているのだろう。 「しかしうらやましい技術だ」 「そうですかね。使いようによっては厄介です」 「なるほど。でも僕もそんな技術が欲しいよ」 「あなたも人を助けたい?」 「そうですね」 「でもあなたはスポーツができるじゃないですか」 「スポーツで人は助けられないよ」 「え?」 「スポーツは役に立たない」 「そうですかね。わたしはいいと思います、スポーツができるって。とてもうらやましい」 「そうですかね」 「あなたはどうして無能?」 まあしかし、特になにも、気にすることはないような、そんな気がする。 「僕がどうして無能か、ですか」 「そうです。そのとおりです。あなたはおかしい。スポーツができます」 「うーん。なぜなら僕は人を殺したことがあるからです」 「え?」 「僕は人殺しです」 「あら」 わたしは驚くほど冷静であった。でもそれが当たり前のような気もした。男の人も至って冷静であった。それは当たり前だと思った。 「僕はスポーツができますが、仕事場では頭脳しか使いません」 「そうですか。それじゃあ、本領発揮できませんね」 「そうです。つまり僕は仕事ができません」 「いらいらしましたか?」 「いらいらしたから人を殺したのです」 「あら」 鳩が一斉に飛び立った。 「仕事をやめました。人の家に入りました。不法侵入というやつです」 「あ、それ、もしかしてわたしの家ですか」 「そうです」 「あら」 「あなたの家に入って、幸せそうな女の人を殺しました」 「それがうちのお母さんですね」 「首をはねとばしました」 「知っています」 わたしは驚くほど冷静であった。でもそれが当たり前だと思った。男の人も至って冷静であった。それは当たり前のことだ。だってそもそも、この世界はおかしいことばかりなのだから。 「明るい話をしましょう」 「そうですね」 「今日はいい天気ですね」 「え?」 「いい天気」 「そうですね。まことに」 「ところであなたは僕が憎いですか?」 「それは明るい話というのでありましょうか」 「なるほど」 黒猫が通る。 「この世界はおかしいですね。少し」 ほら、この人殺しだって、こう言っている。 そしてそんな、おかしい世界のなかで、わたしはひとり、涙が出そうなほど、悲しくって寂しかった。きっと、いまこの瞬間までずっと、そうだったのだ。 きっとこうした感情だけがまともすぎた。こうした感情だけが、この世の中で、ぽつんと、浮いてしまったのだ。 「憎いか憎くないかでいったら、憎いです」 わたしは、いかにも冗談ですよとでも言うような笑みを浮かべた。男の人はずっと笑っている、悲しいような寂しいような。ふと、それでは、この出会いは必然だったのかもしれない、なんて、陳腐なことを思った。それじゃあ。 「なるほど」 この人殺しは、スポーツはできるけど頭がちょっぴり悪い、ありふれた犯罪者になって、牢屋のなかで人並みに罪を償う。わたしは、小さいころに母親を亡くしてしまったけれど、それでも前向きに生きる、耳の良い、ありふれた高校生になって、休日は私服を着てどこか見晴らしの良い場所に出かけるのだ。 「この世界はおかしいですね。少し」 だからこんな、おかしい世界とは、しばしお別れだ。 「それもあれですね。ええと」 「言い訳と甘え」 わたしは少し笑って、小さく、あなたも、わたしも。と言った。 「頭、ふっとべばいいのに」 |