無理だ。
 なんせあのひと、もうずっと前から第2ボタンがないのだ。
 あのひとのことだからきっと、どこかで落としたか外れたかしたときに、面倒だって思って付け直すことをせずに、ずるずるとここまで来てしまったのだ。それか予備のボタンを失くしてしまったのかもしれない。あのひとはそういうひとなのだ。
 ベタだけどやっぱり好きな人からボタンもらいたいよね。きっと良い思い出になるよね。友人がそう言うのを聞いてなんとなく悔しい気がした。ボタンが欲しい。

 あのひととは1年の初夏に出会った。出会ったというかわたしが一方的にあのひとのことを知ったのがそのころだった。ある木曜日、4時間目が始まる少し前、教室から、チャイムギリギリに渡り廊下を走るあのひとの姿を見た。5分前行動が当たり前とされているうちの高校ではなかなか見られないその風景は、次の週の木曜日にも目撃することができた。リアル渡り廊下走り隊だ、としょうもないことを考えていた。隊というか、ひとりだし。そのうち、私のなかで木曜日にその光景を見るのことは、習慣となっていった。
 またある木曜日、私も走っていた。特別教室棟に着く一歩手前で忘れ物に気づいたのだ。焦って教室まで戻って、また特別教室棟へ向かっているとき、何故か余裕綽々な様子のあのひととすれ違った。
 あのひとは私を見て、
「お、走る爆弾娘」
 と言った。帰ってグーグルで意味を調べて憤慨した。いくらなんでも例えがひどい。そしてあなたにだけは言われたくない。と。なによりあのひとのそんなひと言をそんなに気にしてしまう自分に憤慨した。私は素直になれない女だったのだ。

 2年になって、あのひとは木曜日に渡り廊下を走らなくなった。その代わりにあのひとと関わる機会が増えた。
「爆弾娘だ」
 何故かあのひとは私を覚えていた。
「不謹慎ですよ」
 いつもより一段低い声で言ってやった。
 あのひとは私を気に入ったらしい。しょっちゅうちょっかいをかけてくるようになった。私は律儀に低い声で言い返しては膨れてみせた。その様子を見た友人が仲良いねと言うようになり、案の定素直になれない私はそんなことはないと息巻いた。
 そんななかでもふと自分に素直になる瞬間はあって、あのひとは笑顔がかわいいなとか、そんないかにもなことを思ったりして、この気持ちの実体を認めてしまう瞬間が近い気も常々していた。
 ある日あのひとと並んで歩いていると、あのひとがプリントを盛大にぶちまけてしまった。あのひとはそういうひとなのだ。なにしてるんですかと呆れながら、1枚、1枚、拾ってあのひとに渡すと、
「ありがとう」
 あのひとはとびきり笑顔でそう言った。それが認めてしまった瞬間だった。

 私は素直じゃないけれど、つらくなかったと言えば嘘になる。誰よりも近いあのひとが誰よりも遠く思えた。軽い疑心暗鬼に陥っていた。あるときはもうあのひとが幸せならそれで良いと悟ったようなことを言って無理やり自分を納得させた。あるときはどうしようもなくハイテンションで、あるときはどうしようもなくローテンションだった。
 ひとりの異性のことを、こんなに、どうしようもなく大切に思ったのは初めてのことだった。だからどうして良いかわからなかった。気持ちを伝えるなんて、ましてや。
 あるときから私は本気であのひとの幸せを祈り始めた。あのひとが幸せなら私も幸せだと知った。ちゃんと自分に素直になった結果のその結論だ。だから、あのひととひとつになれなくても良い、ただこの気持ちだけはちゃんと伝えておきたい、そうしないとあのひとにも悪い気がする。そんなことを考えるようになって、いつしか時は過ぎて、私は卒業することになっていた。
 高校生は終わり。あのひととの時間も終わりなのだ。

 そう考えるとやっぱりいちばん良い手段は第2ボタンを催促することで、でもあのひとには第2ボタンがないのだ。
 他のボタンをもらうのは反則だろうかなどとぼんやり考えていたらいつのまにか卒業式だった。その日は教室に入ると、花をもらうことができた。卒業生だけがもらえる、左胸につける赤くてきらきらしたやつだ。なるほど、と思った。
 卒業式はみんなの胸のきらきらしたやつが輝いてとてもきらきらしたものになった。

 最後のホームルームが終わると、友人が私のところへやってきて、ボタンどうするのと訊いてきた。
「どうするのもなにもないボタンもらえないじゃん」
「じゃあ」
「もらえないなら与えるしかない」
 友人は不思議そうに首を傾げつつ、
「あのひと、校門のところにいるよ」
 最後にそれだけ教えてくれた。

 廊下を駆け抜ける。あのひとが見たらきっとまたからかうだろう。爆弾娘だかなんだか知らないけど、ワンパターンだ。出会ったころからなにも変わっちゃいないのだ。
 私はというと、変わった。あのひとからたくさんの怒りと、かなしみと、もやもやと、笑顔をもらって、人生に新たな色がついた。誰よりも素晴らしいと胸を張って誇れる青春時代ができた。もうつっけんどんしてはいられない、素直な自分になって新しい素敵な色と時代のお礼を言わなければならない。あのひとはまたからかってくるかもしれないけど、最後だからきっとそれもありなのだ。
 靴箱を出た瞬間にいっぱいの陽の光を浴びて、自分がとてつもなく輝いているように感じられた。素晴らしい思い出と少しの別れの寂しさを含んだ胸がはち切れそうで、世界の全てが愛しく思えた。恐らくこれが恋というものなのだろう。
 そのことを教えてくれたあのひととそんなひとに出会わせてくれたこの高校が大好きだ。

「先生」

 駆けつけてその背中に呼びかけると、あのひとは振り返って少し笑った。

「走ってるね」
「爆弾娘ですから」
「やっと認めた」
「最後なんで」

 ふと、そのスーツを見て、思わずえっなんて声を上げる。

「……なんでボタン」
「え?……ああ、よく見てるなあ。流石についてないまま式出るのはどうかと思ってさ」

 ああ、そうですか。一度はがっくりと項垂れた。しかし、新しい第2ボタンは光を反射して輝いていて、それは紛れもなく私が欲しかった輝きで、それでもなんかもう、いらない。よく考えたら気持ちを知ってもらうのに相手からなにかをもらうなんてちゃんちゃらおかしい話だ。だから私は左胸から赤い花をもぎ取って、想いの全てを込めるように握りしめるのだ。

「先生これあげます」

 その全てを、形で、言葉で、ちゃんと残して跡を濁さず、立っていくことにしたのだ。
 そうして私は今日、この高校を卒業する。


「ありがとうございました」
「大好きです」






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -