拝啓、私へ。


10月2日
明日はやっと田中くんのシングルの発売日だ。
売れるといいな。
田中くんのよろこぶ顔がみたい



 日記帳はそんな記述で終わっていた。
「……誰だよ、タナカ」
 思わずへへっと笑い声をこぼす。なんだかすごく、性悪な女みたいだった、いまの私。
 西日が差し込むこの赤い部屋は、ただひとりの男に対して執拗なまでの愛を綴っているこの日記帳は、私のものであって私のものでない。後ろめたささえ感じてしまう自分もまだ確かにいた。本当に、なにも覚えていないんだなあと、改めて実感する。
「誰ですか」
 あの日、真っ白な病室で目を覚ますと、知らない男の人と女の人が、涙を流し手を取り合い、喜んでいた。


9月29日
田中くんに会いたい
シングル出るんだったら、アルバムも出してくれるよね?
そうしたらライブやってくれるよね?
それまで待てるかな。



 頭を強くぶつけたのだと医者は言った。学校への行き道、車に轢かれそうになって、咄嗟に避けて、その勢いで自転車ごと道路に叩きつけられるように転んで。で。だからって、記憶喪失って。いまどきそんなベタすぎる話、少女漫画でもないぞ。それでも私自身がそうなってしまったからには、あるんだよなあと、納得せざるを得ない。
 誰ですか。目を覚ました私の第一声がそれだった。男の人と女の人――紛れもない、「私」の両親だ――は、その言葉に一瞬固まった。というか、時間すらも固まったように、私には感じられた。ごめんなさい、わからないんです。ここはどこですか。私は、私は。私も相当なパニックに陥って、ひたすら意味不明な単語ばかり発してしまった気がする。まあなにせ脳内にひとつとして記憶が残っていないのだから。
 ケンボウだと、医者は言った。
 漢字がわからない。

 そんなわけで自分の名前も学校も友人も恋人も忘れてしまった私は、そこそこに長い入院期間を経て「私」の部屋に戻ってきたのだった。記憶はまあ、徐々に戻ってくるらしいから、焦る必要はないと。それより元の生活に慣れることがいまは大切だと。記憶が戻ってくるのが先か、慣れきるのが先か、といったところであろうか。私自身もパニックからはすっかり抜けだして、病院での生活に飽き飽きしていたところだったから、まあ良かった。
 それでもまだまだわからないことだらけなんだから困る。両親はまだ私に対して他人のように接してくるところがあるし、私自身もそうで、事故の前のことについてなにも訊けていない。友人などが見舞いに来ることもなかった。あれもしかして私友だちいない?と思って日記帳開いたら、「タナカくん」のことばっかりだし。
 わけわかんねえわ。立ち上がって部屋をぐるりと眺める。タナカくんって、何?私が好きだった人はなんなの?そこで目に止まったのが机の前に貼ってあるポスターだった。
 あ、このローマ字、タナカって書いてある。
 個性的な感じの絵で飾られたその大きなポスターには、ちょっと前の日付と、「RELEASE」の文字が書かれていた。リリース、か。シングル、アルバム、ライブ、リリース……。
 ミュージシャンか、ミュージシャンが好きだったか、私よ!
 しかも日記の内容からすると、「中学のとき好きだった男の子が高校にも進学せず上京して音楽を始めたの、いまでも応援してて、そばでサポートしてあげてるの」的な、距離の近いミュージシャンでもなさそうなのだ、これが。報われない恋というやつか、これが。ああ、大事なことばっかり忘れて、こんなどうでもいいことばっかり覚えてる。
 しかしそう考えると、記憶を失くす前の私って。


8月31日
夏休みが終わる 学校行きたくないな

田中くんは遠いな
共通点もないしつながりもないし田中くんは人気だから私ひとりに気づいてくれるわけないし
田中くんはあんなにがんばってるのに私は勉強も部活もがんばれてない
近づきたいと思うのに行動がついていかない。どんどん遠くなるばっかりだ
バカ



 相当面倒くさい野郎だったんだな。暗くなってきた部屋で私の日記を貪り読みながら思った。
 まずミュージシャンを好きになってしまうなんてその時点でかなり面倒くさい。日記を読む限りだとそこそこ名の知れた人であるようだし。学校の先輩とかとは次元が違う話だ。そして、日記にこんなことを愚痴愚痴書いてしまうあたり、さらに面倒くさい。そうやって悪態つきながらも、やはり自分自身のことだ、同情の気持ちがふつふつ湧いてきているのも事実だった。

 不運だと母親は言った。病院からの帰り道。高校生なんて、これから楽しいことがいっぱい待ってるのに、出鼻くじかれちゃったわね。
 全くその通りだと思った。いくらなんでも記憶喪失は運が悪すぎる。しかしこれも、こういう恋愛も「楽しい」にカウントしていいものだろうか。シングルを買ってアルバムを買って、テレビに出たと言っては録画してニヤニヤしながら見て、そういう光景はいまの私でも容易に想像できる。そういうことを自分がしていたのかと思うと恥ずかしくて仕方がないという気持ちすらある。けれども、それと同じくらい苦しんでいたんだなあなんて、そう考えると、自分のことながらずいぶんとしょんぼりしてしまったし、この恋愛をなかったものとしてしまうのはあまりにかわいそうな気もした。
 最終的にタナカくんとどうなりたかったのか、問いかけても返事はあるはずないが。


8月20日
わからない
私にとって



 最後まで書けよ。


8月13日
田中くんがシングル出してくれるって!うれしい。
どんな曲になるかなあ
とりあえず会いたい



 あまりにも生々しく悲しい言葉の連鎖に、目の前に自分自身の姿が見えるようだった。短くて黒い髪と一重の目。いま壁にかかっている自校のものらしき制服を着て、大袈裟なまでのヘッドホンをつけるその姿。確かに自分は女子高生だったんだと改めて自覚した。
 その姿にはたくさんの忘れたくない記憶や思い出があったんだ。自分のことや学校のことや友人のこと。タナカくんのことだってきっとそうだ、苦しみながらも、心から好きでいたんだから。
 そう考えると私は紛れもない悲劇のヒロインだ。過去の自分の姿が悲しむのが見えて、これはやばいなと、早く思い出したいなと初めて思った。自分の名前――はもう教えてもらったけれども、学校のことも友人のことも、タナカくんのことも。
「……私にとって」


8月11日
私にとって、田中くんって、何?



 知るかよ。
 でも訊かれたからには、返事でもしてやろうか。
 机の上から勝手に私のペンを拝借した。
 なんだかんだで漢字はあまり忘れていないようだ。


11月1日
拝啓、私へ。



 いつのまにか空は真っ暗になっていて、夕飯ができたからと、私を呼ぶ声がした。そういえば病院食以外のご飯を食べるのは記憶をなくして以来初めてだ。少し明るい声ですぐ行くと伝えた。カレーの匂いがする。好きな食べ物、すっげえベタだなあ、私。
 とりあえず食卓で、もう自転車通学は懲り懲りだと訴えてみよう。


残念なことにあなたの記憶は全てなくなってしまいました。名前も学校も友人も、あなたの愛するタナカくんとはどういうやつだったのか、どんな顔でどんな性格でどんな声でどんな音楽を作るやつだったのか、私はどういうタナカくんが好きだったのかどうなりたかったのか、少なくともいまの私にはさっぱり思い出せません。

そのことも、いまの私には軽い感じでしか考えられないけれども、いつか親とも普通に話せるようになって、壁の制服を着て学校に行けるようになって、全てが元通りになったら、全てを思い出せたなら、いつかの私の気持ちも思い出せるでしょうか。普通でない恋愛の感覚に見悶え苦しみ涙を流せる日が来るでしょうか。
来ることを、祈って――おいたほうが良いのか、良くないのか。
しかしなにせ私自身のことですから。
1日でも早く、あなたと私がひとつになるよう、努力してみようかと思います。

私にとっての田中くんは、指標のひとつです。

とりあえずもう少し落ち着いたらライブでも見に行ってやります。感謝しろよ。

私より







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