「ただいま」

 8月31日23時を過ぎたころ。家のなか、くらやみのなかに声をかけるも、返事はない。大学の友人と海でさんざん遊び呆けた僕の脚は、軽くふらつき、真っ暗な廊下を通ってリビングまで行くのも少しつらく感じるほどだった。手探りで電気のスイッチを点ける。

「ただいま」

 ソファーで眠る彼女に、再び同じ言葉を投げかけた。今日は1日じゅうこの家に居させてな、そのかわり掃除とか洗濯とかしたげる、大丈夫私めっちゃ暇やから。その言葉はどうやら真実だったらしい、リビングもキッチンもずいぶんとすっきりしたようだった。ありがとうを言いたがったがあいにく彼女は爆睡していた。まだ日付も変わっていないのに。
 そっと彼女の寝顔を覗きこむ。あんまりにも安らかな表情だった。こちらまで肩の力が抜けてしまうような。なにかと過激な発言の多い、ふだんの彼女からは考えられないような、そんな表情を、僕は食い入るように見つめた。
 短いような長いような時間だった。ようやく動き出した僕は、冷房で冷えきった部屋の中心で、唯一温かみを持った彼女の首筋に、そっと触れて、その日は眠りについた。



「ただいま」

 9月1日19時の少し前。ほの暗い廊下にまた声をかけるも、やはり返事はない。早朝からのバイトと昨日の海のおかげでずきずきと痛む脚を引きずって、なんとかリビングまで辿りついた。電気を点ける気には、なんとなくなれなかった。

「ただいま」

 ソファーで眠る彼女に、再び同じ言葉を投げかけた。部屋の状態は昨日となにひとつ変わっちゃいなかった。ソファーの前に置かれた小さなテーブルに、帰りのコンビニで買ってきたビールやスナック菓子を広げると、僕はひとりで小さな宴会を始めた。
 ビールの缶に口をつけながら、ちらりと彼女の方を見ると、また同じ安らかな表情がそこにあった。
 彼女は、よく寝る。あんたん家のソファーめっちゃ寝心地良いねん、とか言っては僕の家に押しかけ、しばしのあいだ眠っては、なにもさせてくれずに帰っていく。大学の講義中も当然のように寝てたりするらしい。いったいその睡眠欲はどこから沸き上がってくるものなのだろうか。
 家を出る前に消した冷房のスイッチをもう一度点ける。冷たい風が伸びすぎた前髪を小さく揺らす。少し寒すぎるかもしれないと、設定温度を上げながら、夏の終わりを感じていた。

 いままでな。
 彼女が先日、ふと思い立ったように話しだした。
 学校がほんまに嫌いやって、やから夏休みの終わり、8月31日とかすごい憂鬱やってんやんか。毎年、31日になったら、ああ、わたし今日で死なへんかなあって。今日っていうか、31日の夜におやすみって寝て、9月1日の朝、ベッドのなか見たらもう死んでるみたいな。理想的やと思わへん?夏休み、いっぱいいっぱい遊んで、最後の日宿題も終わらせんと寝て、眠って眠って、溶けるようにそのまま死んでいくねん――
 まあ大学入ってからは夏休み長なったし、そんなことなくなったけど、そう付け加えて彼女は酎杯を煽っていた。日差しが少し弱まり、空気の中にどこか、違う季節の香りを感じられるようになる、うつくしく、もの哀しい、夏の終わり。無表情でぽつりぽつりと思い出を語る彼女の姿にどこか似ていた。
 彼女はいつかほんとうに、眠りこけて死んでいってしまうのではないか。そのとき、そんな物騒なことを考えたのだった。苦しみ全てから、世の中のごたごたした事象全てから逃れるために、すやすや眠り続け、生からフェイドアウトする9月1日が、来てしまうのではないか。僕の家のソファーで?

 やっと部屋の電気を点ける。彼女のあまりに白い肌が照らしだされた。
 彼女にとっての、夏って、なんだったんだろう。
 電気は点けたままで、その日ももう、僕は眠ってしまった。



「ただいま」

 9月2日20時丁度。返事はない。今日は友人と話して買い物をしてきただけなので、身体は疲れていない。ゆっくりと廊下を歩き、リビングの電気を点けた。

「……ただいま」

 彼女は眠っている。今朝、僕が家を出る前と同じ体勢で。意識的に肩の力を抜くと、手に持っていたスーパーの袋がどさりと床に落ちた。
 あまりにも純粋な白をたたえたその顔。僕が家を出る前と同じ――と言うより、ずっと、ずっと同じ体勢で、眠る彼女。
 もう起きない彼女。




 でもな、いまでもな、夏の終わりになるとな、なんか寂しーくなんねん。それはわかるやろ?また8月31日が来る、って。あの暗い暗い8月31日が……ほんで、その時期になると、うちほんまに死ぬんちゃうか、って思ってまうねん。あのとき思ってたみたいに、ほんまに9月1日になったら死んでるんちゃうかって……(酔っていた僕は、確かこのときに、それも寂しい?とかなんとか、訊いたのだ)うーん、わからへんなあ。本望なんちゃう?楽しい夏のまま死ねるんやから。
 彼女は回らない舌でそんなことを話すと、お気に入りの僕のソファーに、ぼすんと身を預けて、最後に小さく呟いた。
 やから、夏は楽しいけどな、嫌いやねん。


(酔っていた僕は、確かこのときに、本当に今はそうじゃないの?とかなんとか、独り言を)




 彼女は死んだ。僕が殺した。8月31日のあの夜、殺した。彼女の白い首筋に、指を沿わせてうずめると、彼女は簡単に呼吸をやめてしまった。まるでひとつの季節の終わりのように溶けるように死んでしまったのだ。もう二度とやり直すことはできないのに。もうただ眠り続けるだけの、スリープマシーンになってしまうのに。
 僕は何故彼女にそんなひどいことをしたがってしまったんだろう。彼女の思い出話を聞いたからか。まだ晴らされない夏の終わりへの恐怖心を、まだ諦めきれない願望を知ったからか。夏のあいだじゅう、僕のソファーですやすや眠る、その姿の美しさを、見たからか。
 なににせよ、その根底にあるのは、彼女に対する愛情、それ以外の何物でもなかった。

 白い白い彼女の顔に触れる。今日はもう涼しいから、冷房は点けていない。それでも彼女の頬は冷たくて冷たくて仕方なかった。
 彼女は美しい。彼女の寝顔はよりいっそう美しい。僕の心は満たされている。それなのに、涙が溢れて止まらなかった。もう彼女に次の季節は来ないのだ。ただひとり、こうして僕の部屋で、同じ夏を続けるのだ。終わりのない夏を、終わらない夏を。
 ねえ願い叶えたよだから早く目を覚まして寝ぼけたままでいいからようやったなって笑って僕を褒めて。
 ソファーに顔をうずめて、僕は彼女のぶんまでいっぱい、いっぱい泣いて、泣いた。






(Spend Bubble Hour in Your)Sleep Machine






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -