2013年4月22日。 「こちらに記名お願いします」 夕日が廊下を照らす午後6時前の中学校。受付で差し出された名簿に名前を書くと、僕は隣にある職員室をも素通りして、教室棟へ続く渡り廊下へ向かった。受付のお姉さん、今ごろ怪訝そうな顔をしているだろうか。しかし僕だって卒業生だから、特に問題はないはずだ。 渡り廊下からは、グラウンドで練習に励む運動部員たちの声がよく聞こえた。部活に所属していなかった中学生の僕も、同じようにこの声を聞いて、複雑な気分になったものだった。 階段を上がる。教室を目指す。 中学生の僕には、なにもなかった。友人も、恋人も、頭の良さも青春も、なかった。 そんな僕の生きがいは、ポプラちゃん、だけだった。 いつも読んでる漫画雑誌に載っている、絵は綺麗だけどストーリーはあまり面白くない、ある漫画の主人公の、ポプラちゃん。女神であるポプラちゃんは、いつもその大きなスカートを揺らしながら、地球の平和のために奮闘する。ドジをしたり、泣いてしまったりしながら。 そんなまっすぐなポプラちゃんの姿に、同じようになんの汚れもなかった僕は、惹き付けられたのだった。髪が黄色でつやつやで、透き通るような白い肌に大きな黒い瞳、人形のようなポプラちゃん。それが人間の手によって作られたキャラクターだと知りながら、僕は完全に恋に落ちてしまっていた。 いつも、ポプラちゃんのことばかり考えていたのだ。他になにもなかった僕は。 教室棟の2階。一番端にあるのが、僕が中学2年生のとき、1年間を過ごした教室――しかし、辿り着いて見てみると、その教室プレートは、「2年1組」という文字を失っているどころか、なにも書かれず真っ白になっていた。 今は使われていないのであろう教室。しかし扉の鍵は開いており、簡単に中へ足を踏み入れることができた。 綺麗に整列された机と椅子。教卓と、かなり古びた黒板。天井に貼られた誰かのプリクラ。僕がいたころとなにも変わっていない。そう言って懐かしみたいところなのだが、変わっているのか変わっていないのか、それすらもわからない僕がいた。 この教室にも、なにもないのだ。青春も思い出も。もう今さら悲しくもない。教室の様子なんて覚えているわけないのだ。だって、見ていなかったんだから。僕は本当にポプラちゃんしか見ていなかった。 僕はゆっくりと、窓際へ歩み寄った。唯一覚えている、この教室の特徴。それがこの、窓枠に彫り込まれた文字だった。 2013年 4月22日 地球が終わる わたしに あいにきてね 中学2年生。担任の先生は、「全く席替えをしてくれない」という理由で、クラスから少し嫌われていた。もちろん、僕も1年間ずっと同じ席だった。後ろから2番目、一番窓際の席。春の暖かさが夏の暑さへ変わり出したころ、僕はこの落書きを見つけたのだった。 2013年。ずっと先の話のように思えた。誰がなんのためにこんな言葉を彫ったのか、そもそも落書きという行為自体を好まなかった僕には、全くもって理解できなかった。しかし、いつしか僕は、こう思うようになっていた。 これは、ポプラちゃんから僕への誘いではないのか。 2013年――そのとき僕は、19歳になっているだろう。今は紙媒体の中でしか、動くこともしゃべることもままならないポプラちゃんが、僕を迎えに来てくれるのだ。 「いっしょにおいで。もうすぐこの地球は何者かにこわされてしまう。みんなみんな、死んでしまう。でも、きみは生きなくちゃだめ。きみは神様になって、わたしといっしょに、新しい世界を、生命体を作るのよ。そして、護っていくの、ずっと、ずっと」 そう言って、僕の手を引くのだ。そして、この世界は――。 そんな都合の良い妄想は、そのころの僕の日常を、随分と支えてくれたようだった。嫌なことがあっても、死にたくなっても、2013年までは生きなくちゃ駄目だと、ポプラちゃんが迎えに来てくれるまで待たなくちゃいけないと、そう思うことによって、僕は救われていた。 かわいそうな奴だったと、今ようやくそう思える。 「おじさん、誰?」 はっとして振り返ると、教室の扉付近に、ひとりの少年が立っていた。少し大きめの制服を身にまとい、ふたつの大きな目でこちらを不思議そうに見つめている。 「……卒業生だよ。昔、この教室を使っていた」 「ふうん」 「今はもう……使われてないんだよね?」 「うん、空き教室」 そうか、とだけ呟いて、プリクラの貼られた天井を意味もなく見つめたりしてみた。少年は何故かここを去ろうとしない。ずっと不思議そうに、僕を見つめている。 「……なんで、使われてないの」 まるで、ひとりごとのように、しかし少年に強く詰め寄るように、またはむなしさを噛み締めるように、僕はそう、振り絞った。ただ天井を見つめながら。僕の気持ちなどわかるはずもない少年は、間も空けずに、けろりとして答えた。 「自殺した女の子の落書きがあるから」 中学3年生。僕らの教室は1階になった。そして、それとほぼ同時に、ポプラちゃんの漫画は終わってしまった。かなり強引な終わらせ方だったのが強く印象に残っている。恐らく、打ち切り、だったのだろう。それをきっかけに、僕のポプラちゃんへ対する熱も、徐々に冷めていった。 「2年1組の教室あるじゃん。2階の端っこ」 そして6月、修学旅行の夜。そのころもなお友人がいなかった僕だが、部屋内で行われていた怖い話大会には、なんとなく聞き手として参加していた。 「10年前ね、うちの一番上の姉貴があの教室使ってたらしいんだけど。クラスにすげえ変わった女子がいたんだって。自分のこと、女神って言い張ってたって」 「うわー、いるいる、そういうやつ」 「それでさ、みんなに対してもなんか偉そうでさ、もちろん友達なんかいなくて、ていうかちょっといじめられてたんだって。1年のときからずっと」 「あ、なんかその話知ってる」 「やっぱ知ってる?でさ、クラス替えして、2年になってすぐ、1組の教室で首吊って死んだんだって」 「えー!知らねえよ!俺去年ふつうにあの教室使ってたし」 「空き教室にしたらいいのに。なんでそのままなんだよ。霊とか出るかもじゃん」 「なんか遺書とかあったの?」 「それが、ないんだって。まだどっかに隠されてるかも」 「こえー」 まるで、どこかの遠い国の人達が、テレビの中で話しているかのように聞こえた、そのやりとり。僕はただひとり、ずっと、ずっと黙りこくっていた。 「……ねえ、いつから空き教室になった、の」 そう言いながら振り返ると、少年の姿はもうなかった。一番訊きたかったことを訊きそびれてしまった。「僕しか知らなかった秘密は、いつみんなに知られてしまったの」。 チャイムが流れる。放送が部活動の終了時間を告げる。僕はただ呆然と突っ立つことしかできなかった。 「……ポプラちゃん」 中学時代、何度も呼んだその名前。久しぶりに声に出して、呼んでみる。 「ポプラちゃん」 女神なんていなかった。どこにもいなかった。僕が神様になんて、なれるはずもなかった。中学生の僕には、なにもなかったのだから。しかし、そこに、いたのだ。存在だけは、確かだったのだ。僕も、あの子も。 「ポプラちゃん」 「呼んだかしら?」 振り返ると、そこにはポプラちゃんがいた。ゆれるスカート、黄色の髪、白い肌、黒い瞳、紙媒体の中の彼女と、全く同じ姿で。そして彼女は、その小さな手をそっと差し出して、言った。 「あいにきてくれてありがとう。さあ、行きましょう」 にっこり笑って、そう言った。僕は、僕はゆっくりと、自分の手をポプラちゃんの手に、重ねた。一瞬、ポプラちゃんの手を少しだけ、握った。そしてひとつ、まばたきをすると、もうそこにポプラちゃんはいなかった。 ぼんやりと立ち尽くしたまま、僕は自分の右手を強く握った。確かなぬくもりが残る手を。ポプラちゃんの、そして、いつしかこの場所で女神を名乗っていた少女の、体温が残る手を。 運動部員が片付けを続けるグラウンド。 地球が壊れる音が聞こえた。 |