帰りはコンビニに寄って、少しのお菓子と飲み物を買って帰る。いつものようにソフトクリームと、烏龍茶を手にしようとしたところで、ふと動きを止めた。考えた末に、烏龍茶の代わりにサイダーを買ったのだった。店の外に出るとあまりに強い日差し。まだ5月だというのに、もう長袖の制服が鬱陶しいような季節になってしまったようだ。
 また、家に直行するのもやめ、自転車のそばでサイダーのキャップを開けた。太陽の光を浴びてきらきら輝く液体を、ひと口だけ喉にくぐらせると、ぴりぴりと口のなかがしびれた。
 身体は少し冷え、風が涼しく感じられる。わたしがいま思い出すのは、ちょうど1年前のあの日のことだった。


「なに借りんの?」

 レンタルCDショップで、ひとりかがみこんで歌詞カードを読み耽るわたしを、上から覗きこんだのは、同じクラスのオオタくんだった(とは言っても、このときのわたしは、どうしても彼の名前を思い出せなかったのだが)。
 高校1年生の5月。まだ入学して1ヶ月と少ししか経っていないこと、そしてわたしがもともとあまり多くの人と関わらないことから、彼とはそれまで挨拶を交わしたことすらなかった(そりゃあ、名前を思い出せないくらいだから)。だから彼がわたしに、学校ですらない場所、偶然に出会った場所で、こんなにも気軽に話しかけてくることは、とても意外なことであった。しかし、気軽に話しかけられたからには、気軽に返すしかないのだ。

「はっぴいえんど」
「古っ」
「知ってんのかい」
「知ってる。おまえはなー、それは、女子高生が聴くバンドじゃねえぜ」

 40年も前のバンドを知っている男子高生もどうだろう。それにしてもわたしたちは、ほんとうにいままで挨拶も交わしたことがない仲なのだろうか。そう思いはじめたころ、そしてわたしがようやく立ち上がったころ、オオタは1枚のCDをわたしに見せた。

「どうだ」
「……ナンバガじゃん。透明少女が入ってるアルバムだね」
「知ってんのか!あ、まあ、はっぴいえんどを知ってて、ナンバーガールを知らないというのも、おかしな話か」
「あんたたぶんいちばん厄介なタイプの音楽好きだね」
「うるせーおまえに言われたくねー」

 オオタはわたしに見せつけるように、そのCD、「SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT」を借りていた。わたしは結局はっぴいえんどを借りなかった。
 何故か同じタイミングで店を出ると、オオタが入口付近で座り込んだので、わたしはどうしていいのか、なんとなくつっ立っていた。いま思えば、何故あのときわたしは、じゃあまた学校でねばいばいなんて言って、その場を去らなかったのだろうか。思い出すのは午後4時半のまだ強い日差しとそれが生み出す濃い影のことだけだ。

「聴くべ」

 そう言ってオオタがカバンから「ポータブルCDプレイヤー」を取り出したとき、わたしは吹き出さずにはいられなかった。

「なに笑ってんだよ」
「ひとのこと、はっぴいえんどとか聴くとか古いとか、言っといて!なにそれ!ちょう懐かしいよ!」
「ふつうのMP3プレイヤーよりこっちのほうがな、CDそのままの音質を持ち運べるから、いいんだよ。おまえにはわからんだろー」
「あんたにだってわからんでしょ音質だのなんだの」
「そんなこと言ってたら聴かせねえぞ!」

 ……それは、「お前が大人しく口をつぐんでおけば聴かせてもやっていい」ということだろうか。
 なんだか厄介なことになっている気がする。そのアルバムならわたしは聴いたことがあるし、ウォークマンにだって入っている(だから透明少女が入っていることだって知っているのだ)。何故いまさら、それも今日はじめてしゃべったような男子と、いっしょにそのようなCDを聴かねばならないのだろう。しかし、ここで断って帰るのもなんだかかわいそうだったし、帰っても特に用事もないので、わたしはオオタと少し離れて腰を下ろしたのだった。つくづくお人好しだと思う。我ながら。
 プレイヤーにCDを入れてフタを閉じると、オオタはイヤホンの片方をわたしに差し出した。

「こういうことは彼氏としたいんだけどなーとか、言ったって仕方ねえだろ」
「いやなにも言ってませんけど」

 ぐずぐず言っていたオオタも、再生ボタンを押した途端に黙り込んだ。
 なんだか奇妙な時間だった。友人でも、ましてや恋人でもない男と、イヤホンを片方ずつ分けあって、10年と少しも前の音楽を聴きあっている。弱まることを知らない日差しと相まって、その聴き慣れた曲たちも、新鮮に聴こえるようだった。
 帰宅途中の女子たちの笑い声。懸命に自転車をこぐ音。ゆっくり進む足音。夏のはじまりを感じさせる一瞬一秒。ちょうど高校生である、わたしと君と。なるほど、このアルバムはこういうシチュエーションで聴くのが正解なのかもしれない。そう思いながらオオタのほうを少し見ると、まばたきひとつせずに歌詞カードを凝視していた(ああそうか、ナンバーガールほど、ロック好きな男子高校生に影響を与えるバンドはない)。
 そうして、わたしとオオタは、それからずっと黙りこくっていたのだった。うしろから4曲目である透明少女が終わるころには、日も少し傾きかけていた。

「……終わったー」

 10曲目、最後の曲が終わり、停止ボタンを押したのは、わたしのほうだった。耳からむしりとるようにしてイヤホンを外す。

「ほれ、イヤホン、ありがとう」
「……すげえ」

 オオタはひとことそう呟くと、カバンからサイダーを取り出して、一心不乱に飲みだした。
 で、わたしはどうしたらいいのだろう。ひとりの男子高校生の自己革命、青春のはじまりの瞬間を見て、どうしろってんだろう。とりあえず、「それがいまあんたにとっていちばん正しい反応だよ」なんて言ってから、ひとつため息をついて立ち上がった。不思議な色に染まった空の明かりが、まだ立つことのできず呆然としているオオタの姿と、手に持ったサイダーのボトルを照らしていた。
 なんだこれは。
 そのときわたしは、怖いようなわくわくするようなあきれるような、おかしな気持ちに、陥っていたのだった。もしかしたら新しい性癖に目覚めたのかもしれないという気もして、いても立ってもいられなくなった。わたしは駐輪場へ歩み寄ると、自転車に鍵を差し込んだ。

「佐野」

 自転車にまたがろうとするわたしに、オオタが声をかけた。わたしの名前を呼んだ。

「じゃあなー」

 そのときわたしも、名前のひとつでも呼べばよかったのかもしれないが、あいにく、(前述のように)その少年の名前を、どうしても思い出せなかったのだった。

「じゃあな」

 なんとかして出たその声は、少し震えていたかもしれないし、小さすぎて聞こえなかったかもしれないし、あるいは不自然にでかかったかもしれない。
 そのことは小さな後悔のようであり、ただの思い出のようでもある。


 回想終わり。
 袋の中で眠っているソフトクリームが溶けかけているかもしれない。すっかり身体は冷まされて、ソフトクリームなぞ食べる気分でもなかったが、仕方なくサイダーのボトルにキャップをした。
 それからのわたしとオオタはと言うと、案の定教室で話すこともなく、2年になってクラスが分かれて、それっきりだ。噂によると彼はギターをはじめ、バンドを組み、今年の文化祭ではちょっとばかり演奏をするそうだ。なるほどまだ正しい道を歩んでいる。たぶんこの先、自分が向井秀徳ではないことを実感して頭を抱えたりするのだろう。
 そしていま、こんなことを考えているわたしは、やはりあのときに、そのおかしな性癖が、目覚めてしまったのかもしれない。
 たった1年前のなんてことない瞬間を、美しくてきらきらした、遠い昔の思い出のように、胸にしまっては慎重に取り出しているような、こんなわたしは。

 自転車にまたがって道を走りだした。日はまだ真上でわたしを照らしていた。






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