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季節外れの物音だった。
季節外れの始まりだった。


珍しく、それは本当に珍しく、赤司は忘れ物をしたからと共に部室を出た虹村と通り抜けた校門を一人引き返して、別れ際に受け取った部室の鍵を閉め、一人何の物音もしない体育館裏を歩いていた。校門へ向かうには、校庭よりも、体育館裏を抜け、プール前を横切った方が、早く辿り着くのだ。もう秋も深まり、冬と呼んでも遜色ない肌寒さを増した夜の学校はセーターを着ていない赤司に酷い薄ら寒さを与えていて、自然と足取りを速まらせる。ちなみにセーターは、部活前にふざけた青峰と黄瀬が零したスポーツドリンクの犠牲になっており、その時点で彼ら二人の翌日のメニューが決定した。死んだような顔の彼らに同情はしない、当然の報いだ。足早に告白の定番スポットである体育館裏を抜け、プール前を通りかかる。

ぱしゃん。
そんな音がしたのは、半分ほどの位置を歩いていた頃合だった。ほとんどの部活生でさえ帰宅したこんな夜更けに、そしてこんな肌寒い季節に、水泳部など活動しているわけがない。素行のよくない生徒だって、わざわざ好き好んでこんな場所にたむろしないだろう。それくらい、今の時期、水辺というだけで寒いのだ。


「誰かいるのか」


ならば何か、無くし物でもしたのだろうか。いや、清掃員だろうか。自他共に認める完璧主義者で現実主義の赤司は、この時点で誰もが想像するであろう幽霊や怪異現象などといったものを端から可能性として排除しており、そこに人間がいるのだと信じて疑わなかった。返事がないのを不審に思い、通り過ぎたプールサイドへの入口までまた引き換えし、鍵が付いているのを承知で柵の近くまで歩み寄るも、夜が深まった暗さに加え、距離もあり、いくら彼の視力が文句なしによかったとしても、プールの様子など視認できるわけがなかった。仕方なし、再び真ん中辺りまで歩いて戻り、少々品のない行為だとは自覚しながらも、金網へと手をかけ、何の苦もなしに、プールサイドへと降り立つ。既に教師も帰宅した頃合であると赤司は知っていたし、状況が状況で、そして赤司は文句のつけようのない模範的な優等生である。季節外のプールへと侵入しているのを万が一見咎められても、大した問題にはならないだろう。そこまで考え、侵入したプールサイドにて、赤司はゆっくりと周囲を見渡した。特に、誰かがいる気配もない。しかし何か物音がしたのは事実であり、一度気に為ると妙に考え込む気質であるから、このままにはしておけなかった。このままに、しておいてはいけないと、妙な勘が働いたからでもある。そして、結果として、赤司の勘は当たっていた。否、結末から考えてしまえば、この時赤司は、もしかしたら、気付かなかった方が幸いだったのかもしれない。けれども赤司本人の意思だけを述べるとするならば、この時、彼は、物音に気付いて正解だった。これが彼の、赤司征十郎の人生において、唯一であり、最初で最後の、分岐点である。


「……君、は…」


一度視線を離した隙に、プールの淵に、誰かがいる。そこには確実に、先程まで、誰もいなかったはずだ。黒く長い髪を乱し、倒れ伏すように、プールから上半身だけを出している。髪と腕に隠れて、顔は見えなかった。よくよく目を凝らせば、彼女が着ているのは、ここ帝光中学の女子制服であることが視認出来た。ここまで見れば、普通の生徒なら、帝光中七不思議だか何だかにある、「プールサイドに現れる女子生徒の霊」であるとすぐに気付き、慌てふためいて逃げ出すだろう。しかし、ここにいるのは、あの赤司だ。人外とまで言わしめた、完璧主義でリアリストで、生きる伝説、魔王様のような、そんな存在だ。彼女を見つけた後、開口一番、彼が吐き出した台詞は、良くも悪くも、ぶっ飛んでいたのである。


「君…っ、大丈夫か、こんな季節に、プールに落ちたのか!?」


この台詞に、「プールサイドに現れる女子生徒の霊」が、目を真ん丸にして驚いた顔を上げたとしても、彼女は何にも悪くない。