無機質な研究室の扉を男がノックすると、間延びした高い声で返事がされドアロックが解除される音がした。
中から顔を覗かせるのは、中性的な顔立ち、くしゃくしゃのセミロングの黒髪をかなり跳ねさせ、それに余りにも目立つトパーズの瞳が来客の姿を上から下まで眺める。見覚えのある人物に目を丸くした。少し強張った表情を浮かべたのは、苦手意識を抱いていたのだろうか。
「なまえ・みょうじ‥ホグワーツ魔法魔術学校の臨時教授を依頼した、アルバス・ダンブルドアの代理人だ。君は――」
「久方振りです、スネイプせんせ」
「‥卒業出来て何よりでしたな、」
「ウワア、厳しいですね昔のことなのに」
「‥着いて来たまえ」
来客――もとい、セブルス・スネイプはこの時なまえという生徒がいたということすら既に忘却の彼方にあった。今回臨時教授として写真が挙げられるまで、彼女自体思い出すことはなかったのだ。名前をもとに在学中の成績に目を通すと、天文学以外は殆ど赤点寸前、勿論魔法薬学も例外ではなく。余程成績不振が印象的だったのか先日、ファイルに挟まれた追試の山を見て漸くかつての深刻そうな彼女の顔がぽんと浮かんできたらしく、他人ごとのようなスネイプの目が生徒を見る視線に変わった。
なぜダンブルドアはなまえ・みょうじを臨時教授に選んだのか。もっと優秀な成績を修めている卒業生が居るにも拘わらずそして何故この年の、スネイプが教授になった年に入学した彼女なのか。彼の疑念が晴れないまま、殆ど乗客のいないホグワーツ急行に乗り込んだ。
コンパートメントの中でも特に広いものを選んだなまえは向かいに座るスネイプにチョコレートを勧めながら、純粋な疑問を訪ねる。彼も不思議に思っていたことだ。
「何故わたしが?」
「‥OWLやNEWTを見る限り、‥成績が芳しくない事は確かだが」
「これは恥ずかしい、けど丁度今月で失業だったので、短期間でも雇って下さるなら有り難いです」
「‥失業?」
「あの研究所が今年度で潰れるんです、いやあ本当、どうしようかと考えあぐねていたんですよう」
チョコレートはスネイプに受け取られないまま、それでも悪い気は起こさないのか、手元に戻して軽い音を立てながらなまえによって咀嚼される。
「髪を」
「はい?」
「髪を梳かしては如何ですかな、」
「ああ‥そうですよね、掃除してたら引っかかったりして、」
あちらこちらに跳ねる髪はスネイプにとって、忌々しい人間を浮かべる切欠になってしまうらしかった。眉間に皺を更に寄せた彼を見て、困り顔をする。しかし彼女にはその訳を知る由もなく、すみません、と言いながら手櫛でまとめようとしたが、やはり天辺は上にアンテナのように飛び出ていた。
「‥頭を此方へ寄越したまえ、見るに耐えん」
いきなりなまえの髪を鷲掴みし、杖を一振りすると鳥の巣のような様より随分と落ち着いてみせたものの、やはりアンテナは変わらない。
「すみません、なんか」
「‥ところでミスみょうじ、確かマグルの街で暮らしていると聞いたが」
「はい、ロンドンで」
「――この期間、魔法を生活最低限しか利用していなかっただろう」
ふと一つの不安がよぎったらしい。彼女の魔法の腕が更に鈍くなっているのではないか――、なまえがここまでなかなか杖を出そうとしないところから、確認を試みるために懐から羊皮紙のきれっぱしを出し、窓際に置いた。
「まあ‥そんなようなもんです。(本当は全然使ってないけど)」
「‥‥。試しにその紙を“浮かして”みろ」
長い間マグルの街で暮らしていたのなら魔法を使う機会は無かったはずだと踏んだのだろう。
――そしてその厭な予感は見事に的中した。
「うぃっ、ンガーディアム・レビオサー!」
ぼかんっ
爆発音と共に燃えていく紙きれが空を切り、燃えかすが床に落ちていった。
「‥成る程、基本呪文集を読み返して貰わなければならないようですな、みょうじ臨時教授」
「わたし呪文学は余り得意じゃ」
「アクシオ」
「‥あいたっ」
呼び寄せ呪文でなまえの上に落ちてきたものは、随分昔に古新聞とともに彼女がゴミに出してしまったであろう、教科書、基本呪文集一年生版。スネイプは杖を軽く突きつけながら早口で怒鳴った。
「ホグワーツに着くまでにこれを通読するように、着いたら覚えたか試すから死ぬ気でやりたまえ教科書45頁から100頁まで」
「これ嫌い‥、じゃありませんよう、ハイ頑張ります」
「宜しい」
静かなコンパートメント内で、時折脅されながらも必死にページを暗記していく若い臨時教授には悲壮感が漂っていたという。
20110310