「良かったな、ななし。美味な菓子が食えて」
「はひ」
「ははは!随分口に詰め込んだな!」
舌の上で広がる甘味は素晴らしい。久々に砂糖の味を楽しんでいる。
それというのも、大和の此処、信貴山城に着くまでの道の途中で大切に食べてきた干菓子を食べ尽くしてしまったからだ。高級そうな高坏に山ほど乗せられた饅頭やらずんだ餅やらはまだまだ減りそうにない、懐紙も心なしか落雁に見えてきた。隣では松永殿と御師匠が厳かな茶会を開いているというのに。そしてこの土地にきて何度となく嬉しく裏切られていることか。松永殿はわたしにも茶を点ててくれた。味のある器も漆器に入った抹茶も、流石は国の主の持ち物だ。
「作法は気取らずとも構わない、楽に飲みたまえ」
「いいやァ、ご心配召されるな松永殿。ななしは中々教養のあるおなごですぞ」
ちらりと視線を遣ってくる御師匠。確かに、気にするなと言われても気にしてしまうのが性だ。それに、こうして御師匠とある程度の身分の方々の元に訪れていれば、いくら女といえどもお目見えするに値する文化的知識は心得ておかねばならなかった。賛辞に勢いづく訳ではないが、畳に置かれた碗を自分の方へ持ち、二・三度絵柄の無い飲口へずらすと、数回に分け飲み干す。程良く鼻を通る抹茶の風味は特別だ。
懐紙で飲口を拭い、絵柄の位置をもどすと、再び畳へ器を置く。碗を鑑賞するためだ。私は商人でも職人でも、ましてや文化人とも呼べないから分からないが、これらが脆く壊れやすいことは解る。膝に肘を乗せて、碗に描かれた絵や色を一通り眺める。
――因みにここまでの私の一連の動作に、松永殿は驚きもしなかった。――
鑑賞の中、一際目を引いたのは螢の灯りだ。全て紅で描かれて、鮮やかだ。ふつう螢の光は青白い。
「無銘の品でね。足利義政公の時に作られたものとされる」
「‥螢」
「そうだ」
「灼かれる魂のようですね」
「‥卿にはそう見えるか」
松永殿はせせら笑った。
それを何故か眉間に皺を寄せながら見ていた御師匠は、唐突にこの歪んだ空気を断ち切るように(気のせいだろうが)、大きな声で、やや、と言う。
「――ななし。すまんが水を汲んできてくれ。茶釜の湯が無くなった」
平蜘蛛を指差した。
確かに湯が切れている。
差し出された水瓶を持ち、立ち上がると足がじんわりと痺れているのがわかった。
「はい、御師匠。‥では一旦失礼致します」
障子を開けると、外の空気が重苦しい茶室に入り込む。
* * *
「さて、卿があの娘に席を外させてまで話をしたい事とは、なにか‥」
松永殿の目は相も変わらず鋭い。まるでおのれの企が全て見透かされてしまうようで胸が詰まる思いがした。彼にあう際はいつもそうである。おのれが優位であるのはこの医学の知識のみで、差し引いた人としての才覚や、教養、すべて一等である松永久秀という男は、まるでおのれを否定するような存在であった。
「松永殿には適いませぬまいなァ」
「大方見当はついているよ、」
「さようで」
「‥何故、あの娘には卿の家の名を付けているのかね」
「‥」
ごくりと息をのんだ。
が、拍子抜けしてしまった。まさか、そのことだとは思わなんだからだ。
崩された姿勢を気取られぬよう、あくまで真っ直ぐと松永殿をみた。
「――ななしは身寄りが居らぬ故です。儂の名を名乗ることで、少しは暮らし安うなればと思い立ちましてな」
「ははは‥、医師は何でも救おうとする。道三はまさしく鏡だな。――誠に、偽善よ」
違う、偽善ではない。
おのれの快楽がためにななしをそばに置いたのではない。真っ当な医学への志を持つななしの力へと昇華させるひとつの手段として、儂は。
脂汗が滲んだ。手のひらが熱い、熱い。
「――松永殿、松永殿こそ、勿体ぶらず要件を仰ったら如何か。なにゆえ一助手にそこまで執心する兆しを見せておられる」
「何を云うと思えば」
「松永殿」
初めて松永殿の顔色が俄かに変わるのをみた。
それは些細なものであったが、確かである。
「‥ななしを此処に預けて行きたまえ、道三」
「‥‥!!」
「心外かね、なに、私もだよ」
だが欲しいのだ。と、熱を帯びた瞳を向ける。
焼け焦げてしまいそうな激しい熱情がななしに向かっていることを漸くここで理解した。そうか、松永殿は預けてゆけなどといいはしたが、本当は返すつもりなど微塵もない。ただ自分の赴くままに求めているのだ、物珍しさ故、ななしを。
「ななしをあなたの蒐集癖に晒したくはない、僭越だがお断り、申し上げっ‥!!」
喉笛に中るのは僅かに揺れた切っ先のようにみえた。刀は有りはせぬのに。茶室にはふつう持ち込まぬ。今此処に見えるのは茶匙だ。それなのに今の儂には白刃にしか見えない。ああ、畏れている。儂は松永殿が、松永久秀がこわい。
「道三、――いつ私が卿の許可等求めたかね」
畏れてはならぬ。
屈してはならぬ。
「儂は、松永殿には、ななしを、遣れぬ」
「‥卿はもう少し賢い男だと思っていたよ」
おのれも。
もう少し現をみることができると思っていた。
てっきり殺されるのだろうと、翳された左手を見上げた刹那。放たれたのは炎ではなく、言の葉だ。
「そうだ、明日京に帰る曲直瀬道三に代わり、弟子である曲直瀬ななしに、私の鍼灸治療を続けさせようか」
「ま‥未だ啓迪院から文は来ぬ。主治医の儂が居る合間に治療を済ませるが医師の勤め」
「おや、ならばその懐の文は偽物かね」
「!!」
抵抗する間もなく懐の文は松永殿の手に収まり、開かれた。やはりか、と、満足げに笑った。儂を嘲りたいのか、文はゆっくりとした速さで燃える。
「‥卿は今の身分を得たゆえに自由が利かない。全く皮肉なことだ」
患者を見捨てぬことは医師の勤めなのだろう、と、うたうような口調は松永殿の思惑に相成ったときと決まっている。
ああせめて、一週間前に、いや、松永殿に軽はずみにななしの話を文にしたためた、あの頃に戻れ。
「医師とは、おのれの預かり知らぬ所で掬い上げだ数多の命や宿命を零れ落とすものだよ。だろう、道三」
もし戻ることが出来たのならば、今ここでこんなにも苦しみに苛まれることなどなかった。
20120611