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ふるえている娘が居た。しかし訳もなく助けるほど自分が仏かぶれているとは思えなかった。だから理由を捜したのだ、あの娘に一碗の飯を与えたわけを。
面影が、亡くした妻(さい)に似ているような気がした。眦が柔らかく孤を描くところだとか、欲のない質だとか、――しかしどうにも悩むのだ。儂はななしを立派な医師にしてやりたい、とつねに願っていた。しかし願わくば、誰かに見初められ独りのおんなとして幸せな婚姻を果たしてほしいとも、どこかで思っていた。だからいけない。あの男の元では幸せになどなれる訳がない。きっと蒐集品の一つとして、いつかは壊されてしまう。永劫愛玩されることはないだろう。しかし、自分の力だけではななしは守れやしない。ああ、――力が欲しい。




目を閉じれば、ただただあの濁りを帯びた微笑を浮かべるあの人が私を見つめているような気がした。だから、真っ直ぐに足を運ぶことが出来た。

戌の刻を告げる鐘が鳴る。私は京から送って貰った地酒を手に、煌々と光る月を見た。手を伸ばせば届きそうな程近くに、青白さは広がった。確かこうして月を仰ぎ見たのは、――救って貰ったあの夜が最後。確かあの時の月も満ちていた。曇り無くまるで御師匠の心のように。

何て縁起の好いことか。今宵は満月ぞ、喜べななし、お前は幸せ者だ、斯様な日に望月を見られるのだから、――

同じはずの月を、今は一人で眺めている。隣に安らぎは居なかった。自身の心の月は澱んでいた。

「今宵は満月だなあ」

東屋に着いた。柱に隠れて居る松永殿が姿を月に晒すと、しっかりと目線が重なった。行灯は仄明るい。続けて空を仰いだ松永殿は、神々しいと、譫言のように呟いた。物珍しさを覚える。彼が充てのない言葉を吐すことは珍しいことだった。彼はいつでも何かに充てて言葉を紡ぐのだ。
(良くも悪くも)
その言葉は阿芙蓉のようだ。人を蝕み毒してゆく。勿論私も例外なく、松永殿の言葉に毒された。御師匠がいつか言っていた。松永殿の瞳は、人を惑わすのだと。それはどんな悪事も外道事も、正しくみえてしまう、ということなのか、――。
(しかし私は間違ったことを正しいと云い切れてしまえるほど、おちぶれてはいない)

「‥このようなお誘い有り難く、光栄至極に思います」


深々と頭を下げる。
自然と瞼を伏せたとき、はっとした。私は彼を直視することすら実は恐れているのだと。畳の目がやけに細かく見えた。息の漏れる音も震えているのがわかる。


「何も、そうして小鼠の様に畏れ震えて欲しい訳ではない」
「は‥、」
「こうして人の目も行き届かぬ様な場所で有れば、気を赦せる。――人の差は人に因り作られるものだ。皆元は等しく只の人ではないかね」


昔、誰かも同じ事を私にいったと思う。黙って頷いた。立ち尽くして、酒瓶を抱えたままでいると、松永殿はそれをみるなりふと笑った。道三は達者か、と言う。


「御師匠は今啓迪院を軌道にのせるべく、尽力しております、‥‥」
「あの男が――尾張の酒を撰ぶとは、‥‥ははは、余程私が気に入らないと見える」
「その様なことは…断じてございません!」
「卿を責めた訳ではないのだ、――それに、これが著名なものであるということには誤り無い」


すらりとした指が朱塗りの器をとって此方に向けた。私は早に履き物を脱ぎ酒を注ぐ。松永殿は杯のなかを一息に飲み下した。それを見たとき、ふと女中の言葉を思い出したのだ。

(お屋形様はあまり酒を城内のだれかと共に取ったり致しません。――珍しいことがあるのですね)

彼は政事的な面での酒宴は行うことも辞さないが、真にはひとりを好んでいるのだとも言っていた。ならば、なぜ私を呼んだのだろう、と思った。先程の口振りにもきにかかるものがある。

(御師匠が、松永殿を気に入らぬなんて)

――そんなはずはない。あの人はこの殿をよく誉めていた。慕っていた。だのに気に食わぬことなどあるものか。もしそうであるのなら、私がこの席に呼ばれることなどないのだ。


「卿も飲みたまえ」


唐突な台詞が真横から響く。


「え、‥」
「一人の酒も悪くはない、が、――卿が注ぐ酒を共に嗜むことも悪くはあるまいよ」


さあ、ともう一対の器を差し出されたので、それを受取る。徳利が大きく傾けられ、あっという間に酒で満たされた。
器を手に取り口に近づければ、独特の香りが鼻をついた。元々あまり得手ではない。御師匠に勧められれば多少は嗜むが、自ら進んで飲むことはなかった。含めばやはりそれは苦く、私の望むものではなかった。勿論顔に出すことは無いのだが。無理矢理喉へ押し込むと、その様子を見た松永殿は愉快そうに笑った。


「そうだ、」


松永殿が思い出した様に呟く。


「卿の生まれは尾張だそうだな」
「――は。相違ありません。」
「第六天魔王の膝元の民。――何の縁あって京にいるのか、‥あの城下は随分和であると聞くが」

「それは私が、――!」


思わず口を覆う。すらすらと身の上事を述べようとした己に驚いたからだ。


「…私が、何かね」
「――い、え」


――頭がぼんやりとしている。こんなに急に酒が回ることはそうないはずなのだが。目の前に居る松永殿が霞んで見えだした。


「眠りたまえ、――ななし」


掌が唐突に自分の視界に現れ、私は瞬く間に意識を手放した。遠くどこかで呼ばれた自身の名前が、やけに鮮やかに鼓膜を揺さぶる。


20130505