門の前でわたしは座って居た。
離れてゆく御師匠が乗った駕籠が、事故もなく無事に京へ着くことを祈りながら、昨夜貰った免許皆伝の巻物を手で遊んでいる。
――さて、ぼやぼやしてもいられない。
御師匠が帰った今、本当にわたしが松永様の主治医を勤めなければならないのだ。なんと荷の重たい任だろう、少しでも手元が狂えば――まあ、そんな大それた治療をするわけでもないのだが――わたしは長年世話になった御師匠の顔に泥を塗る羽目になるうえに、生きてこの大和国から出られる保証もなくなってしまう。それだけは嫌だ。いや、それも嫌だ。
しかし憂いていても検診の時間は必ずやってくる。日の位置から見ても未の刻(午後二時)はすぐだ。御師匠が出立したのはたしか卯の刻(午前六時)だったから、――道理で喉も渇いている訳だ。飯も食べていない。そう意識をすると腹の虫が鳴いた。準備もしなければなるまい、そう思い立ち、漸く重い腰を上げた時だ。
(う、わ‥)
目の前が真っ白だ。明るい、何故だろう。ああ、あれはお日様だ。お日様がわたしと対面しているのだ。頭に軽い衝撃が走る。地面の堅く乾いた砂が巻き上がり服を汚した。手を伸ばす。まるでお日様がわたしの手に触れそうだった。だが届かない。橙が指の隙間から差しただけだ。もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
「‥卿は変わった場所で眠るのだな」
だからわたしを覗き込む、この不穏も夢だ。目を覚ませばきっと、御師匠が、皆が笑って、わたしを。
「‥松永、どの」
――ああ、違う。
これは現か。まことか。夢ではないのか。夢と現の狭間でたゆたっていたいのに。松永殿の顔の横をなにかが通ってゆくのを見た。ああ、蛍。真昼間から蛍とは面白い。
「ほたる、が、」
「‥葉月も終わり故、蛍はもう皆死んでしまったやもしれないな」
意識が途切れかける。
此処からわたしの記憶はない。ただ体がふわりと浮き上がるような気配だけは感じており、そこからはほんのり雅な香の薫りがした。これは、多分。
* * *
目を覚ますと、見覚えのある天井がみえた。これは確か、松永殿から頂いた部屋だ。先ほどまで外にいたはずなのに。気のせいだったのだろうか。
どこまでが夢なのか。御師匠はまだ部屋にいるのだろうか。
喉が乾いて、枕元に手をやった。普段寝るときには水を置いてあるからだ。しかし今日はそれはいつまでたっても手に触れない。代わりに、大きな手がわたしの掌をぎゅっと握ってみせたのだ。
「‥え」
「欲しいものが有るのかね」
「‥‥お水‥」
「水、か」
これが夢である気がしたから、枕元で胡座をかく松永殿に望みもいえた。もし現ならば、こんなに恐れ多いことありやしないしできやしまい。わたしの要望に松永殿は座ったまま縁側に居る誰かに声を掛け、そして直ぐに障子の隙間から小さな水瓶が現れる。湯のみに水が注がれ、わたしに手渡した。飲もうと口に充てたが、飲み口が広く朧気な意識を継続させたこの夢は、水を己で飲むことすらままならない。口のはしから零れた水は枕をぬらす。
「ななし、寝床が濡れてしまうだろう」
松永殿はわたしから湯のみを取り、水をたした。それを自分であおると、―――。
口吸を、した、のだ。
長く深く、冷たさが口内に広がり、喉をしかと潤すまで。
「‥‥!!!!!」
漸く目が覚めた。これは夢なんかじゃあない!
御師匠はもう京へ向かっているし、わたしはそれを見送った。その後は門前で手持ち無沙汰に巻物を触り、検診の時間に差し掛かったので城内に入ろうと立ち上がって、それから。倒れた。太陽を仰いでいた。しかしここはどこだ。部屋の中だ。
「‥‥っ、ごほっ‥!」
離された唇があつい。僅かに煙管の苦味もした。
喉の渇きは止んでいた。しかしそれは、松永殿の接吻によるものだったのだ。大きく息を吸い込むと、喉にかかり堰がでる。咽せる私の背を掌が優しくなぜた。
「白昼の微睡みから漸く抜けだせたかね」
しずかな声に血の気が引く思いがした。
―――今は何刻だ。
少なくとも、あたりが暗くなるまでに時は経っている。治療を等閑にしたわたしは何をされるか、良くて投獄悪くて私刑か。自らが事切れる様を想像して、更に体は冷え切った。
「ま‥松永殿!!す、すみません!今、治療を‥!」
「ああ、今日は調子が好いから遠慮をしようと、卿に伝えようとしたのだよ」
「へ‥?!」
素っ頓狂な声を上げたわたしに、松永殿は唇のはしだけを歪めて笑う。
「そうしたら、卿が門前で倒れて居た。大方昼間の熱に遣られたのだろう」
だから此処へ連れてきて今し方水を飲ませた次第だ、と、息も切らさずに説明してみせる。
――松永殿がわたしを?ここまで?
ああ、御師匠さま。先立つ不幸をお許し下さい。松永殿はきっと心優しい方なのでしょうが、流石に周りの方が如何思うだろうか。身の程知らずな無法者だとわたしを、処罰するやもしれない。
いや、それもそうだが、わたしにとって最も気を苛む出来事がつい今、あったではないか。
「‥っ!」
「熱は体に溜まっていない、大丈夫だろう」
首筋に松永殿の手の甲が触れて、身を堅くした。それは直ぐに離れたが、そういう問題ではない。
優しい松永殿のことだから、ろくに水を飲めやしないわたしを気の毒に思ってやってくれたことに相違ない。わたしのこの身を焦がすような羞恥や、やりきれない喪失感など、この恩情に較べたら。どんなに淀み瑣末な事か。
「あ‥、ありがとうございますっ!私のような者のために、このような施しをっ」
布団から跳ね起きて頭を畳にこすりつけんばかりに下げた。実際、擦り付けている。
そんな様子のわたしに、松永殿はまた、あの興味のなさそうなどこか小馬鹿にしたような、複雑な顔を此方に向けているに違いない。
そっと手の隙間から伺えば、わたしの予想を反せず、此方をただ見定めるように見つめていた。
20120615