「明日、ですか?」
「京へ戻ろうと思う。啓迪院から催促が有ってなァ」
私が戻った時には、茶会は既に御開きになってしまったらしい。きりが良かったのだと、御師匠は笑っていた。そこからだか、御師匠の様子が少しおかしい気がしたのだ。しかし違和感を覚えども理由などは解らず仕舞いで、結局夜になるうちにそんなことは忘れてしまった。
相も変わらぬ多彩な夕餉を済ませると、用意された部屋へ戻る。床に布団を引いてもらい、行灯が仄明るい部屋の縁側の方にに衝立を立てた。明日の出立に向けて荷物を纏めると、することもないためさっさと床についてしまうことにした。
今日は風が強いのだろう、軒並み植えられた木の梢がざわざわと音を響かせていた。掛け布団をぐっと頭まで被る。
ざわり、ざわざわ
途端に不安に駆られた。
今日に限ってこの行灯も、葉の擦れる音も、朧月でさえもこわい。
* * *
足は三つ先の部屋へ向かっていた。障子ごしに、御師匠さまあ、と声を掛ければ、すぐにそこは開く。わたしよりもずっとずっと遅寝であることをわかっている。背の高い御師匠はわたしを見下ろして、はあ、と一つため息をついた。
「幾ら怖いと言うて、童でもあるまいに。儂の所に来る事があるか」
「‥眠れないんです」
「‥‥‥入らんか」
入る許可を貰った。
部屋の端には既に出立の支度が出来ており、荷物もなくがらんとしている。机の上には幾つかの鍼の本が並んでいた。御師匠はわたしに白湯を出す。柚子湯が良かったと言うと、我儘を言うなと小突かれた。額がいたい。
「‥珍しいですね、明日出立なんて」
普段どこかに行ったときは暫くはその土地で過ごすことが多かった。それなのに今回はとんぼ帰りすると言う。松永殿も承知しているようだ。だが、昨日の検診では松永殿の中風に治療を続ける旨を述べていたような気もしたのだが。気のせいだったのか。
御師匠は目を細めた。いつもよりも細くて、目を閉じているみたいだ。
「帰るのは儂だけだ」
え、
手にもっていた器が転がって、御師匠のお膝元で止まる。幸い中は飲み干してしまっていたから畳や布団が濡れることはなかったけれど。帰るのは儂だけ、と言ったか。ならわたしはどうなるのか。
「御‥師匠、わたしに医術を全部教えてくれる、って!いったじゃあ、ありませんか」
「もう、お前は十分過ぎる程学んだ。この四年、伊達に儂に着いてきただけのことはあった」
だからもう独り立ちするのだ、と、懐から小さな巻物を取り出し、私に握らせた。恐る恐る開いてみれば、免許皆伝、と書かれている。ああ本当に、御師匠は本気なのだ。
「‥それならば私、啓迪院で医術を教える手助けがしとうございます!」
「自惚れるでないわ、小娘。‥経験を積むために、‥ななし。大和に残れ、儂の代わりに」
無理に決まっている。
どう考えても可笑しいのだ。儂の代わり、というは失敗が赦されないことを意味していることを、示している。私に松永殿の治療をせよ、と。あの人の。
「無、理です!冷静に考えて下さい!」
「‥ななしなら、総てを掬うてやることが出来る。掬うたものを、取りこぼさぬ医師になれる。‥‥‥儂とは違うてなァ」
語尾の強い言葉が胸に刺さる。
「師匠‥?」
気がついたら御師匠の胸の中にいた。暖かく、ほんの少しだけ薬の香りが鼻をくすぐる。逞しいとは言えぬこの腕が好きだ。わたしの頭を撫でる手が好きだ。
わたしを拾ってくれた、紛れもなくその大きな懐にわたしを、多くの人達のひとりに加えて泥濘から掬いあげた。沼の縁から。光のようだった。
御師匠が取りこぼすことなど有り得ない。現にわたしはここまで来たではないか。御師匠に守られ、慈しみを戴き、そして一人ではなくなった。
「わたし‥もう孤独は‥いやです」
「孤独な訳が有るか。お前には儂が居る」
「‥‥でも御師匠のお荷物は、もっといやです‥!
わ、わたし、‥医師になります!良い医師に!!」
腕の力が強まった。
御師匠の顔は見えない。
「お前は‥温いなァ‥」
誇りに思われているのだろうか、喜んでいるのだろうか、それとも、まさか、わたしと離れることを少しは悲しんでくれているのだろうか。
解らないまま、ただ肩に触れた冷たい雫の意味を計りながら、わたしは静かに目を閉じた。
20120614
師匠は自分のふがいなさに絶望しているのと、ななしを守りきれない自分の弱さに嘆いて泣いていたんですね
師匠出ずっぱりも此処でおしまいになります。
長々引きずってすみません
次から松永ルートいくでええ