綻ぶように笑うひと
初めてレイアさんと会ったのは、僕が持ち前の方向音痴を発揮させて、本部内で迷子になっているときだった。
朝から雨が降っているせいか、昼間だというのに建物のなかはどこか薄暗く、周りに誰もいないことも相まって、とても不気味に、怖く感じたのを覚えている。

「ここ、どこだろう……」

傍でふよふよと浮いているティムに話しかけたつもりのその声は、ひどく弱々しかった。声が聞こえなかったのかそれとも無視をしているのか、ティムはこちらを向くこともせず壁にかじりついている。
教団にやってきてまだ日が浅く、ろくに道も覚えていないのに、好奇心に負けて探検しようとしたのが運の尽きだったようだ。
どうしよう。お腹すいた。食堂に行くにはどの道を通ればいいんだろうか。
キョロキョロとあちこち見ながら歩いても、何もわからない。絶望だ。
ぐきゅるるる、と盛大な音をたてるお腹を擦りながら、その場にしゃがみこむ。
いまはたぶんお昼頃だと思う。朝ごはんを食べる前に探検に出たので、今日はまだ何も食べられていない。

「うう、お腹すいた……」

冗談を抜きにして、死んでしまうかもしれない。
そう覚悟を決めたとき、背後から誰かに肩を叩かれて、弾かれるように後ろを振り向いた。

「……どうしたの、迷子?」

怪訝そうな表情で僕を見つめる白衣姿の少女がこちらに手を差し出して、首を傾げる。
神の救いだとばかりにその手を両手で握って、半分泣きながら首がもげるんじゃないかって勢いで頷いた。
いきさつを話すのは少し恥ずかしかったけど、そんなことを言ってはいられないほど切迫した状況だったので、探検しようとして迷子になってしまったことから空腹のあまり死を覚悟したことまで、すべて説明することにした。
どこか無気力な無表情で、笑わずに真面目に僕の話を聞いてくれたその人も、ちょうど昼食のために食堂へ向かうところだったらしい。

「案内するよ。あ、飴ならあるけど食べる?」

後光が差して見えた。

「ありがとうございます、いただきます」

イチゴ味の飴を貰って、口に放り込む。ボリボリガリガリと噛み砕いていると、横から視線を感じた。

「きみ、アレン・ウォーカー?」
「は、はい。そうです」

どうして僕の名前を? と思っているのが伝わったのか、彼女は表情を変えずに「リナリーから聞いた」と呟いて、視線を前に向けて歩き出す。慌ててついていくと、もう一度こちらに目をやってから、いたずらっぽい声音で彼女が口を開いた。

「すごく食いしん坊で、方向音痴の新人がいるって聞いてたんだ」
「まちがってはないですけど……」

一瞬苦笑いを浮かべそうになったけど、僕についての情報が、目立つ白髪や左目の呪いではないことに気づいて、よくわからないけど、少し嬉しい気持ちになる。
そこで、まだ彼女の名前を聞いていないことを思い出した。その旨を彼女に伝えると、無表情のままこてんと首を傾げる。かわいらしい仕草だった。

「名前? ……ああ、言ってなかったか。レイア。レイア・フロンケアード」
「レイア、さん」
「そう」

名前を呼ぶと、レイアさんはどこか嬉しそうに返事をして、次いで照れくさそうに綺麗な黒髪を耳にかける。
僕から目を逸らして、落ち着きなさげにキョロキョロと視線を彷徨わせる彼女に、今度は僕が首を傾げる番だ。
やがて、レイアさんが一度きゅっと口を引き結んでから、観念したように話し出した。

「……ごめん。なんていうか、さん付けで呼ばれるの、あんまりないから。慣れてなくて」
「あっ、すみません。他の呼び方の方がいいですか?」

少し顔を赤くしながら紡がれた彼女の言葉に慌てて謝る。するとレイアさんは「うーん」と首をひねって、ちらりと僕に視線を寄越した。
紫色の瞳が遠慮がちに僕を見つめている。宝石みたいに綺麗な目だ。

「そのままでいいよ。ちょっとくすぐったいだけだし、後輩ができたみたいでなんか嬉しいから」

そう言って、彼女は笑う。これまでずっと無表情だったレイアさんの笑う姿を見て、どうしてか心臓が高鳴るのを感じた。


2人で世間話をしながら歩いて、気づけば食堂にたどり着いていた。
喜びのあまり涙目になりながら、ここまで案内してくれたレイアさんにお礼を言おうと向きなおる。

「本当にありがとうございました……! レイアさんがいなかったら僕、空腹で死んでたかもしれません」
「あはは、大袈裟」

本当に死を覚悟していたのだが、彼女は冗談と受け取ったのか、軽く笑ってから僕の手を引いた。

「そんなにお腹すいてるなら、早く注文しに行こう」

カウンターを指してそう言うレイアさんに頷いて、今日は何を食べようかと考える。
アレとアレと……といろんな料理を思い浮かべながらカウンターの列に並んだ。ちょうどお昼ごはんの時間なので、食堂は人でごった返している。
今日もデザートはみたらし団子にしようかなあ、なんてぼんやり考えていると、突然横から人が歩いてきて、ぶつかってしまった。
慌ててそちらに目を向けたのとほぼ同時にがしゃん、と音が響いて、視線を下に移すと、割れたお皿とパスタが床に散らばっていた。

「す、すみませ──」

反射的に謝ろうとした僕の襟元を引っ掴んで、探索部隊の団服を着たその人が僕を睨みつけながら大きい声で怒鳴り散らす。

「テメェ、どこ見てやがる! 俺の服が汚れちまっただろうが!」

立ち止まっていた僕にぶつかってきたそちらこそどこを見ていたんだ、とは思ったが、そう言ってしまうと火に油かもしれないと考えて、謝ることにした。

「すみません」
「謝って済む問題じゃねえんだよ!」

そう言いながら、僕を殴ろうと振り上げられた彼の腕が、ぴたりと静止する。
見ると、レイアさんが男の手首を掴んで止めていた。不機嫌そうに彼女を見下ろして、男は声を荒らげる。

「なんだテメェ。女は引っ込んでろ」
「……よそ見してたのはそっちですよね、お兄さん」
「ああ?」

僕の胸ぐらを掴んでいた男の手が、今度はレイアさんの白衣の襟を引っぱりあげた。

「なんだァ、俺が悪いって言いてえのか」
「うん」

無表情のまま頷いたレイアさんに、男の頬が引き攣る。
怒りを表すように握りしめられた彼の拳を見て、さすがに女性に手をあげることは看過できないと口を挟もうとしたら、それを制するようにレイアさんがこちらに手のひらを向けた。思わず口を閉じる。

「この白衣、科学班だろ? 命がけで戦場に行ってる俺らと違って、安全な場所でお仲間と仲良しこよしやってる根暗じゃねェか」

口の端を吊り上げて、男がレイアさんを嘲笑する。それに動じることもなく、彼女は無表情を崩さずにただ無言で、静かに男の顔を見上げた。
その途端、男がぎょっとしたように顔を強ばらせる。
彼女の瞳は、凍てついたように冷く、そして闇のように暗かった。睨みつけるような鋭い視線ではないのに、その目には強い威圧感があって、傍から見ている僕でも少しこわいと思ってしまうほどだ。
男はわかりやすく狼狽えて、レイアさんに掴まれていた腕を振り払うと、そそくさとその場から離れて行こうとする。

「お兄さん」

そんな男の背中にレイアさんが声をかけると、びくりと肩を揺らしてから、男が恐る恐るといった様子で振り向いた。

「お皿、掃除しないと」
「……わ、わかったよ」

床に散乱している食器とパスタを指しながら発せられた彼女の声は、いたって普通だ。怒っているようには聞こえない。
それでも、男は何か恐ろしいものに命令されたかのように割れた食器を片付け始める。

「僕も手伝います」

一方的に彼が悪いとは思うけれど、僕にぶつかってお皿が落ちてしまったわけだし、手伝うのが道理だと思った。
しゃがんで食器を集めていると、レイアさんがどこからかホウキとちりとりを持ってきて、さっきまで剣呑な雰囲気だった3人でその場を片付けるという奇妙な状況が生まれる。
やがて床を綺麗に掃除し終わって、今度こそ男が逃げるように去っていった。
一悶着あった間にそれなりの時間が経過して、人で溢れかえっていた食堂も少し落ち着いたようだ。
改めてカウンターで料理を注文し、できあがるのを待っていると、レイアさんが「あっ」と声をあげる。
なんだろうと彼女の視線の先を見やると、団服に身を包んだリナリーが食堂に入ってきたところだった。
レイアさんが手を振ると、リナリーもそれに気づいて、軽く手を振りながらこちらに向かってくる。
カウンターの傍に立っていたレイアさんは、待ちきれないとばかりにリナリーのところへ走って、そしてその勢いのまま抱きついた。

「リナリー! 任務終わったんだね、おかえり」
「ふふ、ただいま、レイア」

一瞬見えたレイアさんの横顔は、いままで見たことのないぐらい嬉しそうな、幸せそうな笑顔で、思わず呆然としてしまう。
僕といるときはほとんど無表情だったけれど、リナリーの前ではあんな笑顔もするんだ。そう思うと、少し、ほんの少しだけ胸が痛くなった。
どうしてだろう。この痛みはなんだろう。

「アレンくんとレイアちゃん、お待ちど〜ん」

そんなことを考えたのと同時に、ジェリーさんが僕たちの頼んだ料理をカウンターに置いた。
お礼を言って受け取ろうとすると、困ったように眉を下げたジェリーさんが僕を見つめていて、首を傾げる。

「さっきは災難だったわね。助けに入れなくて申し訳ないわ」

さっき、と一瞬考えて、探索部隊の男の人に絡まれたことを思い出した。
かなり混雑していたし、料理長であるジェリーさんは厨房を離れるに離れられなかったのだろう。

「気にしないでください! こちらこそ、騒いでしまってすみません」
「やあね、騒いでたのは相手の男の方でしょ〜? アレンくんもレイアちゃんも何も悪くないんだから、謝らなくていいのよ」

優しい声音に、ほっと胸を撫で下ろす。
そんな僕からリナリーとじゃれあっているレイアさんに視線を移して、ジェリーさんはふっと微笑んだ。

「それにしても、レイアちゃんも変わったわねえ。昔は人を寄せつけない雰囲気の子だったけど、いまではあんなに明るくなって……」

その言葉に僕もレイアさんの方を見ると、リナリーと手を繋ぎながらニコニコと笑顔を浮かべていて、やっぱり、胸にチクチクとした痛みが走る。
この感情は、いったいなんなんだろう。もやもやして、落ち着かない。
翳りそうになる気持ちを振り払うように、僕はつとめて明るい声を出した。

「冷めないうちに、ごはんいただきますね」

「はーい」と返して厨房のなかに戻っていくジェリーさんに手を振ってから、大量の料理が乗ったトレーを両手で持つ。
ジェリーさんは昔のレイアさんのことを「人を寄せつけない雰囲気」と話していたけど、先ほど探索部隊の男に向けられていたあの暗く冷たい目は、もしかするとその片鱗を見せるようなものだったのかもしれない。
でも、いまリナリーと笑いあっているレイアさんを見る限りでは、とてもそんな風には見えなかった。
最近教団に入った僕には、彼女の過去に何があったのか、何が彼女を変えたのか、何もわからない。
ただ、リナリーに向けられているあの綻ぶような満面の笑みを、いつか僕にも見せてほしい、と、そう思うのだ。
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