水底へ消えた聲
指先の感覚が薄れていることに気づいたのは、泣きじゃくるリナリーの腕を掴んだときだった。
AKUMAとの戦闘が終わってからかなり時間が経ってしまったようだ。その間ずっと探索者の死体の傍で座り込んでいた彼女の頭や肩の上に、白く冷たい雪が少し積もっている。
手に力を入れて、リナリーを立たせた。そのまま湖の方へ歩いていく。
この寒さのせいで、湖の水面には分厚い氷が張っていた。
室長から聞いた情報によると、目的のイノセンスは湖の底にあるはずだ。さて、どうやって取りに行こうか。
湖のふちまで歩を進め、片膝をつくようにしゃがむ。水面に張っている氷はかなり厚く見えるし、これを割るのは骨が折れそうだ。
と、思った途端、その氷にぴしりぴしりと亀裂が走った。派手な音をたてて、凍っていた水面が一気に崩れていく。
明らかに自然現象ではないその光景に辺りを警戒し、イノセンスを発動させる。すぐに上空から笑い声が聞こえた。視線を上に向けると、AKUMAがこちらに向かって急降下していた。

「ゲハハハハ! エクソシストだ! ぶっ殺してやる!」

汚い笑い声をあげながら落ちてくるそいつから隣にいるリナリーに視線を移し、腕を掴んだまますぐに飛び退く。
どん、と大きな音をたてながら、AKUMAがさっきまで私たちがいた場所に着地した。衝撃で雪や土埃が舞い上がり、AKUMAの姿を隠す。
一瞬だけ視界の悪さを呪ったが、砂埃が晴れるよりも前にAKUMAが大声をあげた。

「どうだ!? 急に氷が割れて驚いただろう! オレの能力だ! お前らもあの氷みてえにこなごなに──」
「いや、手間が省けた」

ペラペラと無駄なお喋りをしている間にそいつの懐に入り込む。何が起きたのかわからないのか、ぎょっとしている間抜けな顔を見上げながらイノセンスを構えた。

「ありがとう」

そのまま、破壊する。
馬鹿なAKUMAで助かった。ちゃんとした言葉を話していたし、能力を持っていたところを見るに、レベル2だろうか。
ともあれ、凍りついていた湖の水面はAKUMAがどうにかしてくれたし、あとは湖底に潜ってイノセンスを回収するだけだ。
少し離れた場所にいるリナリーは、未だにどこか生気の抜けた表情で座り込んでいる。ひとりで回収するしかない。
重い団服を脱ぎ、ブーツも脱ぎ、おもりになりそうな物をはずす。
湖の傍に寄り、深く息を吸って飛び込もうとしたとき、後ろから思いっきり襟を掴まれた。気管が閉まり、「ぐっ」と変な声がでる。
そのまま後ろに引き倒され、雪の上に仰向けに寝転がるような体勢になった。
目を横に向けると、リナリーが心配そうに私を覗き込んでいた。

「……なに」

想像以上に冷たい声が転がりでる。はやくイノセンスを回収して帰りたいのに、邪魔をされたのだ。しょうがないことだと思う。

「こんな冷たい湖のなかに飛び込んだら、危ないでしょう」

凛とした声音でそう言い放ったリナリーの顔を凝視したまま、絶句する。
これは任務だ。さっき探索者の男がリナリーを庇って死んだように、命を捨てる覚悟でイノセンスを確保するのが、エクソシストの義務なんだ。
そうだ、教団でも色んな人に言われた。エクソシストはAKUMAと戦い、イノセンスを護らなければならないと。
そのためなら、

「……命なんか、惜しくない」

呟いた私の声に、リナリーが息を呑んだのがわかった。
悲しげに眉をひそめて、震える唇で言葉を絞り出す。

「そんな、こと、」
「さっきの探索者だって」

彼も、自らの使命を全うして死んだんだ。エクソシストを護るためなら自分の命なんか惜しくないって、そう思わなければあんなことできないじゃないか。
だから、探索者のその意志に見合う覚悟を、私たちエクソシストもしなければならない。
自分の命を落としてでも、イノセンスを手に入れる。そういう覚悟を。

「エクソシストを護るのが、彼ら探索者の任務なんだろう。それで死んだなら、それでいいじゃないか」

起き上がって、膝をついているリナリーを見下ろすかたちになった。リナリーは俯いていて、その表情は見えない。
早くイノセンスを回収して、任務を終わらせないと。またAKUMAが来て、これ以上傷を負うことがあれば、これ以上人が死ぬことがあれば、探索者の命が無駄になってしまう。
それに──、いや、これ以上考える時間ももったいない。
頭についた雪を軽く払って、湖に足を向けた。
しゃがみこみ、水のなかに指先を入れると、刃物のような鋭い痛みが走る。冷たい。
イノセンスは湖の底。どれくらいの深さなのかはわからないが、とにかく潜ってみるしかない。

「レイア」

背後から控えめな声が聞こえた。すぐ後ろにリナリーが立っている気配がする。
しゃがみこんだまま振り向き、彼女の顔を見上げると、目が合った。綺麗な瞳を見るのがなんだかこわくて、視線を少し下にずらす。

「やっぱり、湖のなかに潜るのは危険すぎるよ。他の方法を探そう」
「……そんな呑気なことは言っていられない。私は早く本部に帰りたいんだ」

突き放すような口調に怯むこともなく、リナリーが私の左腕を強く掴んだ。氷のように冷えきった指が手首に巻きついて、びくりと肩が震える。
思わず視線を上げると、真剣な表情を浮かべたリナリーが私を見下ろしていた。
手首を掴む彼女の手に、ぎゅっと力が込められる。

「絶対にはなさないから」
「は……?」

戸惑う私の目を見据えたまま、リナリーはもう一度口を開いた。

「湖に入るのはやめるって言うまで、絶対にはなさない」

強い意志のこもった瞳と言葉に、よくわからない気持ちが湧き上がるのを感じた。それは怒りなのか、焦りなのか、それとも悲しみなのか、私には判断がつかないけど、よくない感情なのは確かだ。
リナリーから顔を背け、イノセンスの眠る湖に目を向ける。
いつの間にか雪は止んで、雲間から陽光が見え隠れしていた。
陽の光に湖面が照らされて、キラキラと眩しい。いまの状況に似つかわしくないその光景は滑稽にすら見えて、心が凍てついていく感覚がした。
無言で立ち上がり、リナリーを睨みつける。
負けじと見つめ返してくる彼女の目は、さっきまで泣きじゃくっていたせいで真っ赤になっていて、その細いからだは寒さに震えている。

「ふざけるなよ」
「ふざけてなんかないよ」

低く呟いた私の言葉に、間髪を入れずに返したリナリーの声が白銀の世界に響き、とけるように消えた。
早くイノセンスを回収して、帰らないといけないのに。
なぜ、どうして邪魔をするんだ。
睨みあったまま沈黙が落ちる。やがてリナリーがその表情を沈痛に歪め、紫色の唇を震わせながら諭すような声をだした。

「レイアは、他人のことも自分のことも大事にしようとしないけど、それはきっと、人のことを信用できないからだと思うの」
「何の話だ」
「もっと、私を信じてよ。頼ってよ。ひとりで全部やろうとしないで」

不安定に揺れるその声は、悲痛な叫びにも聞こえて、ぎくりと身体が強ばる。リナリーの目には涙が浮かんでいた。
手首を掴んでいた彼女の冷たい手が、するりと私の左手に触れる。体温を分け合うみたいにぎゅっと両手で包み込まれて、わけのわからない感覚が心臓から溢れ出した。
ただ、頭のなかに少しずつ靄がかかっていくような、思考がだんだん乗っ取られていくようなそれが、ひどくこわかった。

「私たち、仲間でしょう?」
「……、」

途端、目の前が真っ赤になって、心臓を鷲掴みにされたような錯覚に襲われる。何もかもが恐ろしくて、気づけばリナリーの手を思いっきり振り払っていた。
想像以上に力を込めてしまって、バランスを崩した彼女の身体が傾く。
あっ、と思ったときにはもう遅くて、ザプンと小さな音をたてて、リナリーが湖に沈んだ。

○ ○ ○

何が起こったのかわからなかった。
全身を刃物で突き刺されたのかと思うほどの激痛に、頭が真っ白になる。
もがくように腕を伸ばしても冷たい水のなかには掴めるものなんてなくて、ようやくリナリーは湖に落ちたのだと理解した。
ごぼ、と口から空気が零れる。息ができない。
黒い靴を発動しようとするが、パニックになっているせいかうまくいかず、苦しさにもがくほど体は下へ下へと沈んでいく。
教団の団服は、強く丈夫だがその分重い。水を吸ってさらに重量を増したそれは、もはやおもりにしかならなかった。
湖に沈む直前に見えた、血相を変えたレイアの顔が頭に浮かぶ。きっと、自分が彼女の地雷を踏み抜いてしまったのだろう。
いつだって冷静で頼もしいレイアが無意識に感情的な行動をしてしまうほどの、逆鱗に触れるような何かをしてしまったんだ。

──謝らないと。でも、ダメだ、もう、

肺が軋むように痛み、心臓が悲鳴をあげている。リナリーは両手を胸に押し当て、苦しみを堪えるように必死に奥歯を噛みしめた。
薄れていく意識のなか、湖底に光る何かを見つけて、リナリーは閉じかけていた瞼を押し上げる。

──あ……。

イノセンスだ。
不思議なエメラルド色の光を放つそれに手を伸ばそうとしたが、体に力が入らない。
そのとき、誰かが腕を掴んだ気がしたけれど、リナリーの意識はぷつりと途切れた。
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