亡くしてしまった涙の在処
コムイさんに連れられてたどり着いたのは談話室だった。
広いその部屋のなかには自分とコムイさん以外に人はいなくて、そのせいか暖炉のたてるパチパチという音がいつもより大きく聞こえる気がする。
真冬の朝という時間帯、そして黒の教団の立地条件も相まって、談話室はかなり冷えていた。
火をつけたばかりの暖炉が室温を上げようと頑張ってくれているなか、現在進行形で仕事から逃げているコムイさんは、どこから持ってきたのか2つのマグカップをローテーブルに置き、ソファに腰掛ける。ローテーブルをはさんで向かい側に置いてあるソファに座るように促され、僕はおずおずとソファに歩み寄り、座った。
コムイさんがマグカップを取って口をつけたのを見て、僕ももう1つのマグカップを持ち上げる。甘い香りがした。1口飲む。ココアだ。
あたたかいココアが喉を通り、胃に落ちていく。部屋は依然として寒いが、少しだけ体が暖まったような気がした。

「入団してしばらく経つね。どう? ここでの生活には慣れた?」

視線を手元のマグカップに落としたまま、コムイさんがそう尋ねた。ごくりとココアを飲み込んで、教団での生活を思い起こすように目を閉じる。
少しの間を置いて目を開けると、コムイさんは僕に目を向けて微笑んでいた。

「そうですね。みんな優しくて、過ごしやすいです。"ホーム"って呼ばれるのもわかります」

優しくない人も若干名いるけど。黒いポニーテールが脳裏をよぎってイラッとした。

「歓迎してるんだよ、君を。エクソシストだってだけで畏怖して敬遠する人もいるけれど、仲間が増えるのが嬉しいのは、みんな一緒さ」
「仲間、か……」

コムイさんの言葉に、どうしてかリナリーとレイアさんを思い出した。どうしてだろう、と少し考えて、すぐに思い至る。あの2人の関係を「仲間」という言葉で表すのは適当ではない気がしたのだ。
それほどに、リナリーとレイアさんは親密な仲に見える。

「あの、コムイさん、リナリーとレイアさんって」
「リナリー? どうしてここでリナリーの名前を? まさかアレンくん、リナリーに気があるのかい……?」

コムイさんがチェーンソーを構える。ギラリと怪しく光を反射させるそれを見て、僕は慌てて弁明した。

「ちっ、ち、違います! リナリーとレイアさんがあんなに仲がいいのはどうしてかなって!」
「ああ、レイアちゃん?」

我にかえったかのようにチェーンソーをしまったコムイさんに安堵する。どこに潜ませていたんだろう。恐ろしい人だ。

「そうだね。いまのリナリーとレイアちゃんはすごく仲がいいね。見ていて微笑ましいよ」
「いまは、って……。昔は違ったんですか?」

僕の質問に頷くと、コムイさんは目を細めて、昔を懐かしむようにゆっくりと語りだした。

「昔は、喧嘩ばかりしていたんだよ。あの2人も」

○ ○ ○

何年も前の話だ。
両親をAKUMAに殺され、生き残った唯一の肉親であるコムイからも引き剥がされて教団に縛られたリナリーは、病み、苦しみ、世界に絶望していた。
だが、室長として教団に入ったコムイと再会できたことにより、リナリーは心を取り戻した。
その頃に新しくエクソシストとして入団したのが、レイア・フロンケアード。当時のレイアはいまとは違い、他人に心を開くことができない野良猫のような性格だった。
物心つく頃に人身売買の被害に遭い、自分を買った主人からずっと非人道的な扱いを受けつづけていたせいで、人を信頼することがこわかったのだ。
振るわれる暴言や暴力に耐え、与えられる食事は目もあてられないようなものばかりで、毎日のように陵辱され、身体も心も犯され、ただひたすら、それに耐えてきた。
何年か経った頃、気がつけば主人を殺していた。行くあてもなくさまよい歩いていたところを元帥に拾われ、イノセンスに適合して、何もわからないまま入団させられて。
奴隷として虐げられていたときも、教団に入ってからも、大人たちに命令されるがままに行動する日々は変わらない。
いつしか彼女は感情をなくしていた。
笑い方も泣き方も、忘れてしまっていた。
レイアは、自分の意思を表現する手立てを失ったのだ。

○ ○ ○

誰かに肩を揺すられて、一気に意識が覚醒した。
はっと息を吸い込んだそのままの勢いで、目の前にいる"誰か"のその手を払いのける。
列車のなかで寝てしまっていたようだ。内容はよく思い出せないがひどく嫌な夢を見ていた気がして、浅い呼吸を繰り返しながら額に滲んだ汗を拭う。
視線を前に向けると、少し驚いたような表情をしたリナリー・リーが、私に払いのけられた手もそのままに呆然と私を見ていた。
ツインテールに結わえられた長い黒髪が微かに揺れている。よく見ると、彼女の大きな瞳に涙が浮かんでいた。
しかし、一瞬だけ口をきゅっと結んだかと思うと、リナリーはすぐに笑顔を浮かべた。

「レイア、ひどくうなされてたよ。……大丈夫?」

口元は微笑んでいるのに、目元には未だに涙が滲んでいる。眉を八の字にして、椅子に座る私の顔を伺うように上目で見るリナリーは、心配そうな声音で「もうすぐ着くけど、起きられる?」と尋ねた。

「……大丈夫」

どうしてか彼女の目をまっすぐ見られなくて、視線を下に逸らしたままそう答える。リナリーが安心したようにほっと息をはいた。
窓の外を見ると、白銀の雪景色が広がっている。
ああ、いやだな。寒いのは嫌いだ。


はあ、と息を吐くと空気が白く濁る。
足を進めるたびに、ザクザクと音をたてて靴が雪のなかに沈んでいく。
空を見上げると重そうな灰色の雲が広がっていて、とめどなく冷たい結晶が降ってくる。

「寒い……」

ふとこぼれた私の言葉に横を歩いていた探索者が苦笑いした、ような気がした。雪のせいで視界が悪く、まわりがよく見えない。
今回の任務は、ロシア北部のとある地域の湖で起こっている怪奇現象の原因、イノセンスの回収である。
こう寒いと動きが鈍るし、足場も視界も最悪。戦闘になったら面倒だな。
そんなことを考えながら森のなかを進んでいると、数メートル先で先導していた協力者が声を上げた。

「見えました、あの湖です」

その途端、木々の間から数体のAKUMAが現れた。
すぐにイノセンスを発動し、臨戦態勢をとる。
目を凝らして辺りを確認してみれば、おそらくすべてレベル1のAKUMA。数は10体前後、といったところか。
協力者が悲鳴をあげながらこちらに走り寄り、結界装置を起動させようとしている探索者の近くまで来ると頭を抱えて蹲った。
それを横目で見てから、私は雪の上を駆けた。


白い雪の上に、破壊したAKUMAの残骸が散らばる。
まわりにもうAKUMAがいないことを確認して、私はイノセンスの発動を解いた。
レベル1ばかり、とはいえ、これだけの数のAKUMAを2人で倒したのだ。さすがに疲れた。
肩で呼吸をするほどに息は上がり、先ほどまで凍えそうだった体も汗ばんでいる。
深く息をはいて額の汗を拭い、後ろを振り向いた。
リナリーが、跪いて泣いていた。灰になろうとしている探索者の男の亡骸が横たわり、真っ赤な血が、雪を染め上げていく。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

ぼろぼろと涙をこぼしながら謝りつづけるリナリーにかけるべき言葉が、私には思いつかなかった。
あの探索者は、リナリーを庇って死んだ。
仕方ないことだと思う。エクソシストを護ることも、彼らの仕事であり、義務なんだろう。
だから、リナリーが泣く必要はないのに。
協力者は戦闘が終わった途端に逃げ出した。いまここにいるのは、私とリナリーだけ。
空からは未だに雪が降り注いでいる。汗が冷えて、さっきよりもずっと寒かった。

○ ○ ○

レイアが教団に来た日、リナリーは少しワクワクしていた。同年代で、自分と同じエクソシストの女の子に会うのが初めてだったので、友達になれるかな、なれたらいいなと心を躍らせていた。
早速兄のコムイにレイアの居場所を聞くと、今はヘブラスカの間にいるという。

──なら、迎えに行こう! ホームを案内して、2人でおしゃべりするの!

"レイア"という少女と並んで笑いあっているところを想像するとこぼれてしまう笑顔もそのままに、リナリーはヘブラスカの間へ向かう。
上機嫌で廊下を走っていると、元帥に連れられて歩いている少女を見つけた。きっと彼女がレイアだ。おそらくもうヘブラスカの間から上がってきたのだろう。
早く会いたい喋りたいと思っていたのに、本人を目の前にするとなんだか照れくさくて、リナリーは咄嗟に身を隠した。
廊下の角からチラリと視線を覗かせる。
背丈は、自分とそんなに変わらない。肩で切りそろえられた黒髪と、猫のような大きな目。
遠目だが、かわいらしい少女だと見てとれた。
だが、着ている服はボロボロで汚れていて、サイズも合っていない。露出している腕や脚には痛々しい打撲痕や切り傷が目立っていた。
そして、表情が、ない。
人形やぬいぐるみなどの無機物でも、もう少し感情があるように見えるだろう、というほど、その少女の顔には表情がなかった。
リナリーは、思い切って角から飛び出してレイアの前へ出た。やや俯き気味だったレイアの顔がゆっくりと上げられ、光を反射しない真っ黒な瞳がリナリーを映す。
不気味なほど暗いそれに少し背筋が冷たくなったが、リナリーは数歩レイアに近づいて、手を差し出した。握手をしようと思った。

「私、リナリー・リー。あなたと同じエクソシストよ。よろしくね」
「……」

じっ、と。墨汁よりも黒い目で差し出された手を見るレイアに、リナリーが首を傾げる。
レイアは目を冷たく眇め、そのまま視線を上げてリナリーの顔を見た。

「*****」

そしてゆっくりと呟いたその言葉は、一瞬にしてリナリーの笑顔を奪ったのだった。
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