朝の目蓋のむこう
どこか遠くからドアを叩く音が聞こえて、深い眠りに落ちていた脳が少しずつ覚醒していく。
しかし、異様に重いまぶたは一向に開く気配を見せない。それどころか、意識が再び心地よい眠りへと誘われていくので、特にそれに抗うこともせず、私は頭を腕に押しつけた。
机に伏せて寝ているせいか首が痛い気がするが、睡魔には勝てない。
ノイズのようなざわざわとした感覚を経て、徐々に頭のなかが暗くなっていく。
と、その瞬間、先ほどよりも強く大きな音をたててドアが叩かれた。
さすがに驚いてはっと目を開ける。
怠く重い頭を上げ、ぼんやりと虚空を見つめた。昨晩、任務の報告書を書き終わってそのまま寝てしまったので、机の上には紙やらペンやらが散在している。
疲れが抜けきっていない思考のまま、数枚にわたる報告書を集めてまとめ、クリップで止めた。誤字脱字を直す気力はないので、このまま提出してしまおう。
机の端に置いてある冷めきったコーヒーを飲んで一息つく。やっと目が覚めてきた。
ちなみに、この間もノックの音は止んでいない。ノックというにはいささか乱暴な音だけれども。

「レイア、起きてるか?」
「……」
「レイアー?」

ドアの向こうから聞こえる声の主は私が部屋にいることがわかっているのか、コンコンドンドンドカドカとドアを叩き続けている。

「……いまいきまーす」

若干声が掠れてしまったが返事をして、ぐっと伸びをしてから立ち上がった。
ドアを開けると、廊下の冷気が部屋のなかになだれ込んでくる。あまりの寒さに思わず両腕を擦ると、目の前に立つリーバーさんが苦笑いを浮かべた。

「おはよう、レイア」
「おはようございます……」

眠いです、とでも言いたげな声が出てしまう。だって眠いんですもの。
つけっぱなしだった腕時計を見ると、まだ早朝だった。こんな朝から彼がやってくるなんて、嫌な予感しかしない。

「眠そうなとこ悪いんだが……」
「……任務、ですか」

心の底から申し訳なさそうな顔をするリーバーさんが無言で頷いた。諦めるように軽く息をはく。
準備ができ次第司令室へ向かってくれ、と言い残してバタバタと走り去っていったリーバーさんを見送ってから、鏡の前で軽く身なりを整えて黒い団服を羽織った。


エクソシスト。それは、「暗黒の3日間」と呼ばれる世界の崩壊を目論む千年伯爵と、彼の兵器であるAKUMAと命をかけて戦う神の使徒。
そのエクソシストたちが「ホーム」と呼んで拠点としているのが、黒の教団本部である。
ヴァチカンのもと、世界救済を掲げて千年伯爵と戦争をつづける黒の教団には、探索部隊や科学班、医療班などの様々なチームが存在し、エクソシストのサポートを行っている。
私はエクソシストであると同時に、科学班員でもある。
4日前。任務から帰ってきたときに5徹目のリーバーさんたちに捕まり、それからずっとこき使われて働きっぱなしだったので、ろくに眠れていない。
昨晩なんとか根性で任務の報告書を書き上げたが、本当は任務から帰ってきてすぐに書いて提出しなければならないものなのである。これに関しては私は悪くないと思います。まあでも、提出先であるコムイさんはそんなことでは怒らないと思う。
任務の疲労を回復する暇がなく、さらに連日夜遅くまで仕事をしていたために眠気が尋常ではない。
たぶんいまの私は人を殺せそうな目つきをしている。
身体を引きずるようにして司令室までの道を歩く。しんどい。眠い。つらい。
ぼーっとする頭をぶんぶんと左右に振って眠気をかき消そうとするが、まぶたの重みは増すばかりである。
これ司令室に着く前に倒れるんじゃないだろうか。
足もとがふらつき、廊下の壁に身体を預けた。あ、やばい、寝そう。

「レイア?」

背後から聞こえたその声に振り向くと、そこにいたのは黒い団服に身を包んだリナリーだった。
彼女も任務だろうか。お互い朝から大変ね。

「おはようリナリー……」
「ふふ、すごく眠そう」

そう言って微笑んだリナリーのかわいさに、折れかけていたメンタルが復活した。
心做しか眠気もマシになった気がする。

「ほら、行こう」

差し出された手をとると、ぐんと勢いよく引かれ、身体が壁から離れた。そのままの勢いでリナリーに抱きついてしまい、慌てて謝る。そんな私にきょとんと目を丸くしたリナリーは、すぐに女神のような笑顔を浮かべた。

「あら、どうして謝るの?」
「天女か……?」
「?」

こてんと首を傾げる動作の愛くるしさったらない。
彼女は私をどうしたいんだろう。悶え死にさせるつもりだろうか。

「とにかく行きましょうか。レイアも司令室に向かってるんでしょ?」
「うん」

手を繋いだまま、なんでもない会話をしながら歩く。
やっと司令室のドアの前までたどり着いた頃には、眠気は完全に失せていた。
軽くノックをすると、「どうぞ」とやや間延びした声が返ってきたので、ドアを開ける。
相変わらず散らかった部屋が視界に入り、眉をひそめた。床に散らばる書類だか資料だかを踏まないように気をつけながら、部屋のなかを進む。

「おはよう。2人とも揃ってるね」

寝起きなのか、コムイさんの声は少しアンニュイだった。
ソファに座るよう促され、リナリーと並んで座る。あれ、待って、これはまさか。

「コムイさん、任務ってもしかして」
「うん。レイアちゃんとリナリー、コンビで行ってもらうよ」

ガッツポーズをした。無論、心のなかで。
テンションが緩やかに上昇していくのを感じながら、平静を装いつつ説明を聞く。

「米国北部の広い範囲でここ数日、怪奇現象が起こってるんだ。詳細は資料を渡すから、列車のなかでゆっくり読んで。2人なら大丈夫だと思うけど、用心は忘れないように」
「うん」
「わかりました」

いってらっしゃい、というコムイさんの声に笑顔でいってきますを返し、任務へと足を向けた。

○ ○ ○

食堂にて早めの朝食を終えたアレンは、廊下を走るレイアとリナリーを見かけ、思わず立ち止まった。
2人とも団服を着ているということは、これから任務だろうか。
声をかけようかと思ったが、少しだけ迷った結果、何も言わずに見送ることにした。
レイアとリナリーは、団員たちの間でも「仲がいい」と有名だ。
リナリーといるときのレイアはとても嬉しそうな顔をし、レイアといるときのリナリーはとても幸せそうに笑う。
そこには、誰も入り込めないような、誰にも引き裂けないような絆があるように感じられた。

──いいなあ。僕も……。

そう思っている自分に気づき、アレンは戸惑いを隠すように口元に手を寄せる。
「僕も」、なんだろうか。
少し俯いて考えてみたが、答えは出なかった。ただ、胸が少しだけ痛かった。
心のもやもやを霧散させるように軽くため息をつく。
気分を変えるため、談話室にでも行こうと顔を上げたとき、何かから隠れるように廊下の角に潜んでいるコムイと目が合った。

「……コムイさん? なにやってるんですか、そんなところで……」
「しーっ! 静かに! リーバーくんに見つかる!」
「大の大人が何言ってるんですか」

呆れたような声音で言うアレンを無視し、コムイはこちらに歩いてくる。しかし一歩進むごとにその表情は悲しげなものになっていき、最終的に滝のような涙を流しながらアレンの目の前に立った。

「うわっ、どうしたんですか」
「リナリーとレイアちゃんの距離がまた縮まってたんだよ〜! いつかレイアちゃんにリナリーを取られるんじゃないかって思うと涙が止まらなくて……」
「はあ……」

若干引き気味のアレンに気づいているのかいないのか、袖で涙を拭ったコムイはニッコリと笑顔を浮かべる。

──情緒不安定なのかな……。

そう思うアレンをよそに、コムイはくるりと方向転換して「それじゃあ行こうか」と歩き出した。
どこに行くのかと困惑していると、仕事をサボっているとは思えない綺麗な笑みをたたえてコムイがこちらを振り向く。黙ってついてきて、という声がどこかから聞こえた気がした。
有無を言わせぬその表情に頬が引きつるのを感じながら、アレンはコムイの後ろをついていくことにした。
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