いつものように大学で講義を受け、いつものように本屋でのアルバイトを終えて帰宅する途中、怪人に出くわした。
疲れていたからとにかく早く家に帰りたくて、近道だからと普段通らないような人通りの少ない道を選んだのが運の尽きだったようだ。
街灯もまばらなこの場所には、私と、私の倍ほどの巨躯を持つ怪人しかいない。
まったく、悲劇だ。不運だ。最悪だ。
この世界から人間を淘汰するだのなんだのと叫ぶイカのような姿をした怪人を前に、私はただ絶望することしかできない。
普通の人生を送ってきた普通の大学生が、怪人と戦えるだろうか。答えは否である。
ぎょろぎょろと魚のような目を私に向け、にたりと笑った怪人のその不気味な表情に、ぞくりと背中が冷たくなる。
怪人が触手のような腕を目の前に掲げたかと思うと、それがぐにゃりぐにゃりと変形し、ノコギリのような形になった。あれで切りつけられたら、きっとすごく痛い。死んでしまうかもしれない。
切り刻まれて惨たらしい死体と化した自分を想像して血の気が引き、私はもつれそうな足をなんとか動かして逃げ出した。
後ろから怪人が何か怒声をあげながら追いかけてくる。

「た、たすけて、だれか」

精一杯叫ぼうとしたが、恐怖のせいか掠れた声しか出てこない。それにこの時間帯だ。道に人の姿はなく、ヒーローの巡回も期待できない。

「たすけて、たす、」

涙目になりながらもう一度声を振り絞ったとき、左腕に猛烈な痛みが走った。ノコギリ状の触手に腕を抉られたのだと気づいたと同時に脚から力が抜け、倒れ込むようにその場に転倒する。
身体を起こして後ろを振り向くとすぐそばまで怪人が迫っていて、ギラギラと光る目に見下ろされた。

「ちょこまか逃げやがって、大人しくしてれば楽に死なせてやったのになあ」
「ひ、」

首元にノコギリをあてがわれ、喉が悲鳴をあげる。
身体が硬直して、動かない。
見上げた先では怪人が気味の悪い笑みを浮かべていて、あまりの恐怖にぎゅっと目を瞑った。

「焼却」

聞きなれた声がしたと思った直後、前方が熱くなって、思わず目を見張る。
断末魔を上げながら焼け焦げていく怪人が真っ先に視界に入り、一瞬唖然としてしまったが、その光景のあまりの凄惨さにすぐ手で目を覆った。
やがて断末魔が聞こえなくなって、恐る恐る手をどける。
目の前には、かつて怪人だったものが丸焦げになって倒れていた。呆然とそれを見つめていると、肩に誰かの手が触れ、びっくりして大きな声をあげてしまう。
肩に乗っている手からゆっくりと視線を上に移すと、白黒反転した瞳と目が合った。

「大丈夫ですか?」
「……ジェノス、くん」

はい、とどこか嬉しそうに返事をしたのは、S級ヒーロー、かつサイタマさんの弟子であるジェノスくんだ。
地面に座り込む私に手を差し伸べながら、ジェノスくんが「怪我は?」と首を傾げる。

「あ……、大丈夫。少し腕を切られただけで」
「見せてください」
「えっ、ちょ」

私の前にしゃがんで、突然ジェノスくんが私の着ているパーカーのジッパーを下ろした。パーカーを脱がされると、なかに着ているのは半袖のシャツなので、傷がよく見える。
肘のやや上あたりにざっくりと開いた切り傷からは未だに血が流れていて、それを見たジェノスくんが眉をひそめた。

「少しというには傷口が深すぎます。手当てしましょう」
「だ、大丈夫だよ! こんなの舐めたら治るって」
「舐めたら治る……」

私の言葉をオウム返しのように呟いたジェノスくんに、せめて心配をかけないようにと笑顔を作る。
ひょんなことから知り合いになったサイタマさんの弟子であるらしいジェノスくんは、年下ながらいつも私を気にかけてくれる。
嬉しい反面、それが少し苦しくもあった。平凡な大学生の私なんかより、ヒーローとして戦うジェノスくんの方がずっとずっと大変だろう。
それなのに、彼に心配をかけてしまう自分が情けないと、そう思うのだ。
ジェノスくんは表情を変えないまま、じっと腕の傷を見つめていたかと思うと、唐突にそこに唇を寄せた。

「いっ、た」

ジェノスくんが私の傷口に舌を這わせている。わけがわからない。なんだこの状況。
彼の舌が触れる度にじゅん、としみるような痛みが走る。思わず身体を引くと、ジェノスくんが顔を上げて私と目を合わせた。

「ここにも傷が」

そう言って、彼はやけに色っぽい動作で私の首すじを舐める。
慌ててジェノスくんの肩を押そうとしたけれど、まったく動かない。それどころか肩を押していた手に彼の手が触れ、指を絡ませるようにぎゅっと握られてしまった。
わけもわからず困惑していると、ジェノスくんが私の首すじから顔を上げた。まっすぐに視線を合わせて、こつん、と額をくっつける。

「あ、あの、ジェノスくん」
「俺以外の誰かが、あなたに印をつけるのは許せません」
「し、印……?」

少し震えた私の声に頷いてから、ジェノスくんが繋いでいた手を私の左腕に滑らせ、先ほど怪人に抉られてできた傷の少し上に唇を押し当てた。
次いで、首すじにも同じように吸いつく。もしかしなくてもこれは、キスマークをつけられている? なにゆえ?
混乱するばかりの私に、彼は笑みを浮かべて小首を傾げてみせた。

「先生が、自分のものには何か印をつけておくようにと仰っていたので」
「ん……?」

自分のものには何か印をつけておくように言われたその経緯も気になるけれど、それどころではない。
この文脈だと、ジェノスくんが私を「自分のもの」と思っていることにならないだろうか。
じっと私を見つめる彼の目から視線を動かせなくて、じわじわと顔に熱が集まるのを感じながら黙り込んでしまう。
これ、もしかしてものすごく恥ずかしいというか、照れくさい状況なのでは……?
しっかりと目を合わせたまま、ジェノスくんがもう一度私の手を取る。王子様みたいに滑らかな動きだった。

「守らせてください。あなたは俺の大切な人です」

それは甘い所有権



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