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望んでいたのはそれだった



苦しい。息苦しい。頭が痛い。ガンガンと、奥の方から響く激痛。
それにひどく身体が重たい。寒気があるわけではないのに手足が震える。平衡感覚が狂っているのか、ぐるぐると目が回っているようなそれはとても不愉快だ。
気持ち悪い。気持ち悪い。くらくらする。吐きそうだ。
あ、やばい。立っていられなくなってきた。視界が黒く、暗く、なって、何も見えない、気持ち悪い、誰か、誰か。

「啄木さん!」

遠くで司書の声が聞こえた気がしたのと同時に、意識が途切れた。


目を開けてまず目に入ったのは、白い天井だった。
開けられた窓から、カナカナとひぐらしの鳴き声が響いている。ああ、もう夕方なのか。
ふと、カーテンの隙間から入りこんだ日差しがここまで届いた。眩しいな。手で目元に影を作ろうと腕を上げようとしたが、上がらなかった。
だるい。身体が鉛にでもなったみたいだ。かろうじて動く目であたりを見回し、どうやらここが補修室であることがわかった。腕には点滴が繋がれていて、まるで病人だ。
俺様が寝ているベッドの足元には、いつも何故か置かれているネコのぬいぐるみがある。これ、誰の趣味なんだろうな。

「あー、頭痛え……」

呟いた声が、自分が想像していたものよりずっと弱々しくて驚いた。こんな自分の声を聞くのは、何週間か前に喪失になったとき以来だろうか。
ていうか、なんで俺様は補修室で寝てるんだ? 確か今日は、借りた金で昼から飲みに行って、そのあと適当に外をぶらぶら歩いて……、んで、図書館に帰ってきたところまでは覚えてる。
そして、なんか急に気分が悪くなって、どうなったんだっけ。
いまのこの状況から考えるに、倒れたのだろうか。
あの時感じた吐き気はだいぶマシになっているが、依然として頭は痛いし身体はだるい。ベッドに寝転んでいるのに、頭の中がぐるぐる回ってるみたいだ。気持ち悪い。なんだこれ。二日酔いでもこんなにひどくねえぞ。
そのうち目を開けているのもつらくなってきたので、ゆっくりと瞼を閉じる。と同時に、補修室の扉が開く音がした。
部屋の中に入ってきたそいつは、足音をたてないようにしているのか、静かにこちらに近づいてくる。やがてベッドのすぐそばまで来ると、その場にしゃがみこんだ。何を言うでもなくそのまま動かないそいつにしびれを切らして、俺様は閉じていた目を開けた。

「あ、」

その声を発したのは、思ったより近くにいた司書に驚いた俺様か、それともいま口を「あ」の形にして固まっている司書か。両方かもしれない。
何してんだ、そう言おうとしたがうまく言葉がでなかった。結果、口をぱくぱくと動かすだけになってしまう。なんだよ、さっきはちゃんと声でてたじゃねえかよ。かっこ悪い。
柄にもなく羞恥に顔をしかめていると、しゃがんでいた司書が立ち上がった。咄嗟にその手を掴む。さっきまで鉛のように重たかった腕が普通に動いたことより、自分のその行動自体に驚いた。あれ、何やってんだ。

「どこ、行くんだよ」

さっきのが嘘みたいに、なんの困難もなくでた声。それでもそれはひどく弱々しくて、俺様の羞恥をさらに煽った。ほんと、かっこ悪い。
人並みに「寂しい」なんて感情が自分にあったことがなんだか恥ずかしくて、顔は赤くなるばかりだ。
自分から手を掴んでしまった以上、その手を離すことはなんだか躊躇われて、じわじわと赤みを増しているであろう顔を隠すこともできずに固まるしかない。

「どこにも行きませんよ」

そう言うと、司書は再びしゃがんで、目を細めて笑った。力が抜けて、掴んでいた手を離した俺様のそれが、するりと落ちる。
すると今度は司書が俺様の手を両手で握手するみたいに掴んで、そのまま片手を手首に滑らせた。人差し指と中指で、手首の静脈のあたりを擦られて、ぞくりと背中を何かが走った。
くすぐったいようなよくわからない感覚に戸惑っていると、司書はやっぱり、と納得したような声をだして、俺様の手首を見ていたその視線を上げる。

「脈、早いですね」
「あ、え、脈?」
「待っててください。冷却シートだけ取ってすぐ戻ってきますから」

言うが否や立ち上がって視界から消えた司書に、ぽかんと間抜けな顔をしてしまう。
脈測られただけで何緊張してんだ俺様は。ちくしょう、かっこ悪い。なんか今日はダメだ。かっこ悪いことしかしてねえ。つーか、脈早いのはあいつが妙な触り方するからで……あーくそ、もうやめよう。考えるのは。
額に手をあてて、深く息をはいたところで司書が帰ってきた。
司書は前髪上げといてくださいと言って、白くて薄っぺらいものを両手で持つ。言われるがまま片手で前髪を上げると、それを額にぺたりと貼り付けられた。なんだこれ、冷てえ。
すーっと頭が冴えていくような感覚に目を閉じると、司書がどこか申し訳なさそうな声音で話しだした。

「本当はちゃんと森先生に診てもらった方がいいんですけど、彼はいま有碍書の潜書中で……、」
「俺様は、病気なのか……?」

どうしようもなく不安になって、司書の言葉を遮るようにそう聞くと、また情けない声がでた。
まったく、らしくねえ。目を開けて司書を見ると、バインダーの上の紙に何か書いていたらしいその手をとめて、猫のように大きな目で俺様を見返していた。

「熱中症です」

そして、一言。そう言って、司書はベッドのわきに置いてある椅子を自分の方に寄せて、そこに座る。

「ねっちゅうしょう?」

聞きなれないその病名に首を傾げていると、司書がペンを走らせ、紙に書かれたその文字を俺様に見せた。『熱中症』。文字で見てもやっぱり見覚えがない。

「一般に使われ始めたのは最近で、医学用語として登場したのも確か1940年ぐらいだったと思うので、啄木さんが知らなくても無理ないです」
「どういう病気なんだ、それ」
「私もそこまで詳しくはないですけど、高温下で大量に汗をかいているのに、水分補給ができてなかったりするとなります。症状としては眩暈、手足のけいれん、倦怠感、吐き気、頭痛などで、最悪死に至ることもありますが、今回は早めに対処できたので、大丈夫です」
「……ほんとか?」
「はい。大丈夫。大丈夫ですから」

目を細めて笑って、俺様を安心させるように司書は言う。大丈夫だと、心配することはないと。
いま俺様はどんな顔をしてるんだろうか。きっとすごく情けない表情にちがいない。……あれ、なんだろう、前もこんなことあった気がする。頭が痛くて、よく思い出せないけれど。ああ、なんか眠たいな。次に目が覚めたときは、この頭痛もなくなってるだろうか。

「……なあ」
「はい」
「すげえ恥ずかしいこと言うけどさ、……俺様が寝るまで、そこにいてくれよ」
「はい。そばにいます。だから」

おやすみなさい。その声を聞いて、俺様は目を閉じた。


「俺様が石川啄木だ。なんだよその顔、イメージと違うってか?」

新しい有魂書の潜書が完了し、現れたのは金髪にガラの悪そうな格好をした「石川啄木」だった。
かの石川啄木といえば、病と貧しさの苦しみを多くうたい、熱烈な賞賛をあびた文豪。その詩集は名前も学生の頃に読んだことがあるし、確かにこの石川啄木の容姿を見て驚いたことは否めない。だが。

「イメージとか、そういうのは関係ないですよ」
「あ?」

対する啄木は、そんな名前の言葉を訝しげに聞いていた。てっきり「なんか想像してたのと違う」とかなんとか言われると思っていたのだ。
だが目の前の女は、バカにするでもなく誤魔化すでもなく、ただまっすぐ自分の目を見ている。
言葉のつづきを促すようにその目を見返すと、彼女は目を細めて、孤を描いた口を開いた。

「あなたがどんな人間だったとしても、あなたのつくってきたものの素晴らしさに変わりはありませんから」

その言葉は、すとんと、なんの滞りもなく啄木の胸に落ちた。
そこに入るべくして入ったように滑らかに落ちてきたそれは、ゆっくりと浸透して、酸素が血液を介して身体に行き渡るように脳に、心に馴染んでいく。
ああ、そうか、望んでいたのはそれだったのだ。その言葉を求めてぽっかりと空けていた穴が、まさに期待していたものによって埋められた。
パズルの最後のピースをはめるときのような、何とも言えない喜びの感覚にどんな顔をすればいいのかわからず、ただ唖然としている啄木に名前はつづける。その顔にはやはり笑みが浮かんでいて、問うような口調であるのにその声には確固たる自信がこめられていた。

「違いますか?」

そしてそんな名前の笑顔につられるように、啄木もまた、ひどく情けない表情で笑った。




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