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厄介なことにこの気持ちは恋ではないのです



言葉が出なかった。
ヒトって本当に恐怖を感じたときは悲鳴すら出ないものなんだな。なんて呑気に考えたのは、目の前でぶちぶちぐちゃぐちゃと音を立てながら仲間を食べている悪魔から、なんとか思考を逸らしたかったからかもしれない。
数ヶ月の間バディを組んでいた先輩は、僕を庇って悪魔に掴まり、生きたまま頭を食われた。それは呆気ないほど残酷に訪れた、絶望、というやつで。
さっき受けた攻撃のせいで脚が言うことを聞かない。たぶん骨が折れてるんだろう。
たぶんというか、視界に入っている自分の片足が普通は曲がらない角度に曲がっているから、間違いなく折れている。この足で逃げるのも戦うのも不可能だ。
やがて、先輩を食い終わったらしい悪魔が僕に視線を向け、にたりと笑った。
ああ、どうやら次は僕の番らしい。
幼い頃に悪魔に殺された両親の顔が浮かぶ。走馬灯だろうか。
家族を悪魔に殺された、なんてこの世界ではよくある話で、その憎しみを抱えてデビルハンターになるなんていうのもよくある話だ。そして、志半ばで呆気なく悪魔に殺されるというのも、やはりよくある話だった。
歪な形をした悪魔の手がこちらに伸びる。
せめて痛くない食べ方をしてほしい、と目を閉じたのと同時に、どこからかエンジンを吹かすような音が聞こえた。
そして次の瞬間、目の前にいる悪魔の断末魔が響いて、生暖かい液体が僕の体に飛び散る。
何が起きたのかと目を開けると、チェンソーを頭から生やした男が悪魔と戦っていた。
おそらく彼は最近公安に入った、「悪魔になれる人間」という存在で、確か名前は、デンジくんだ。
デンジくんは、自分の何倍もある巨躯の悪魔を恐れることもなく、ソイツの首を腕のチェンソーで切り取った。
どしん、と大きな音を立てて悪魔の身体が倒れる。手に持った首を投げ捨て、人間の姿に戻った彼は、僕の前にしゃがみこんで顔を覗き込んだ。

「あー、アンタ、生きてるか?」

びっくりするぐらい簡単に悪魔を倒してしまった目の前の少年に、思わずぱちくりと目を瞬いてしまう。
沈黙が生まれる。数秒後、こちらをじっと見つめるデンジくんが「おーい」と僕の目の高さで手を振って、我に返った僕は慌てて声を出した。

「い、生きてる、生きてるよ。助かった、ありがとう」

僕の言葉に軽く返事をして、デンジくんはそのまま背を向けて歩き出してしまう。
あれ、もしかしなくても僕はここに放置されるのでは?

「まっ待って! ちょっと待って!」

必死に大声をあげると、気だるげに彼がこちらを振り向いた。なんだよ、とその目が文句を言うので、僕は自分の足を指さす。

「あの……、足が折れてて動けないから、肩を貸してくれないかな……?」
「あァ?」

めちゃくちゃめんどくさそうな顔をされた。いやめんどくさそうというか、嫌そうというか。
しかし、この状態でアスファルトの上に置いていかれるのはちょっとつらい。運んでくれとは言わないから、せめて肩を貸してほしい。

「お礼に今度何か奢るから、頼むよ」
「しょーがねえなァ」

本当に仕方なくといった様子で僕の傍に帰ってきたデンジくんが、僕に手を差し伸べる。ありがとう、と言いながら掴んだその手は、暖かかった。


そんなことがあってから、デンジくんと顔を合わせることが増えて、彼も僕の顔と名前を覚えてくれたようだ。
助けてくれたお礼にと焼肉をご馳走したとき、「なんだこれうめェ!!!」ととても感動した様子で肉を貪っていたデンジくんは、なんといままで焼肉というものを食べたことがなかったらしい。
父親が借金だけを残して亡くなって、それを返済するためにポチタという悪魔とデビルハンターをして過ごしていたと。まるで今日の朝食は卵かけご飯を食べたよと報告するみたいに、なんでもないことのようにそう話してくれたデンジくんの過去は、僕なんかよりもずっと悲しくて、壮絶なものだった。
デンジくんは公安から悪魔扱いをされていて、死ぬまでデビルハンターとして働かなければ悪魔として駆除されてしまうという話は、彼と一緒に暮らしているらしい早川くんから聞いた。
好きで借金まみれになったわけじゃないだろうに。好きで悪魔になったわけじゃないだろうに。
デンジくんに課せられた境遇はひどく重たく、16歳の子どもに背負わせるにはあまりにも酷なものに思えた。
肉と白ごはんを口いっぱいに頬張っては嬉しそうに笑う彼を見て、なんというか、美味しいものをたくさん食べて幸せになってほしいな、と感じたのを覚えている。
それからというもの、僕はデンジくんに会ったときにいつでも渡せるようにと、お菓子を持ち歩くようになった。
ガムや飴、チョコレート、その他。スーツのポケットに入るぐらいの大きさだからそんなに高価なものじゃないけど、それでも毎回心の底から嬉しそうに受け取ってくれるデンジくんには、たぶん癒し効果があると思う。
会う度にお菓子を渡してくる僕を最初は訝しげに見ていたけど、最近はだいぶ心を許してくれたのか、世間話をしたり、一緒に昼食をとったりと長めの時間を共に過ごしてくれるようになってきた。
こんなことを思うのは失礼かもしれないが、野良猫が懐いてくれたような感覚で、すごく嬉しい。
そんなこんなでデンジくんを幸せにしよう作戦を続けた結果、なのかはわからないが、いま僕は早川家の夕食にお邪魔している。
ボーナスで高めの肉を買ったので、せっかくだからデンジくんも一緒にどうかと誘ったら、早川家で焼肉をすることになったのだ。
緊張5割楽しみ5割でインターホンを押すと、迎えてくれたのは早川くんで、声を裏返しながら言った「お邪魔します」を特に気にすることもなく、彼はいつも通りのクールな表情で僕を家に上げてくれた。
リビングにはどこかそわそわした様子のデンジくんとパワーさんがいて、どうしたんだろうと首を傾げる。

「デンジくん、パワーさん、お邪魔してます」

その僕の声にこちらを見た2人の視線は、僕の手元に注がれている。
僕が持っている、高級肉がたくさん入った袋をヨダレを垂らさん勢いでガン見してくる2人に若干引きながら、なんとか笑顔を作った。たぶん苦笑いに近いものだったと思うけれど。
そして夕食の時間になったので、机にホットプレートを置いて、みんなで囲む。
こんな人数で食事をするのは久しぶりだ。家族がいた頃は母と父との3人だったけど、両親が死んでしまってからはいつも1人だった。
明かりのついていない家に帰って、おかえりも、ただいまもなく、1人でさっさと食事を済ませる。寂しいとは思っていなかった。長い間、それが当たり前だったから。
でも、最近はデンジくんと一緒にご飯を食べに行くことが増えて、誰かと食べるご飯の方が、ずっとずっと美味しいんだって、そう思うようになった。

「名字、何飲む? ビールでいいか?」
「あ、うん、ありがとう」

早川くんから差し出された缶ビールを受け取って、プルタブを開ける。そんなにお酒は強くないけど、せっかくだし。ちゃんとセーブして飲めば大丈夫だよな。
そんなことを考えながら、ビールを1口飲んだ。あ、美味しい。

「じゃんじゃん焼こうぜ! 早パイ、もっと肉!」
「野菜はウヌらにくれてやる、肉を寄越せ!」

呆れた様子でホットプレートに肉を並べていく早川くんは、それでもどこか楽しそうだった。半ば強制的に2人と暮らすことを強いられたらしいけど、なんだかんだで彼もその生活を嫌に思ってはいないのかもしれない。
ちびちびとビールを飲んだり肉を食べたりしながら、早川家の3人をぼんやりと眺める。本当に家族みたいだなあ、なんて思って、少しだけ羨ましいとも思った。
気づけば缶の中身がなくなっていて、あれれ、と首を傾げてそれを軽く振る。そんな僕の様子に気づいた早川くんが新しいビールをくれた。
プルタブを開けるカシュ、という音がどこか遠くに聞こえて、口に含んだビールの味を認識すると同時に、頭のなかが真っ白になった、ような気がした。


ぎゃいぎゃいと騒ぎながら肉を奪い合うデンジとパワーをニコニコと見守っている名字に、2本目の缶ビールを手渡す。
ありがとう、と受け取ってプルタブを開け、ゴクゴクと喉を鳴らしながらビールを呷ったあと、缶を机に置いた名字の目はどこか虚ろだった。顔も赤いように見える。

「名字?」

名前を呼ばれ、ふにゃふにゃとした笑顔のままこちらを向いた名字は、頭をふらつかせながら首を傾げた。
まさかこいつ、とんでもなく酒弱いんじゃ……。
そう思い至ったのと、名字が隣に座るデンジに抱きついたのはほぼ同時だった。
ホットプレートから肉を取ろうとしていたデンジは、名字に信じられないものを見るような目を向けたまま硬直している。その隙にパワーが肉をかっさらっていったが、それにも無反応だ。
数秒の沈黙のあと、我に返ったらしいデンジが自分の首や肩にまわっている名字の腕をどかそうとジタバタ暴れだした。

「テメェ、離れろ!」
「んん〜……」

顔面に肘鉄を食らいながらも、名字は腕に力を入れてより強くデンジを抱きしめる。なんの実況をしてるんだ俺は。

「デンジくん、デンジくん、」

片手でデンジの金髪を撫でくりまわしながら、うわ言のようにその名前を呟いていた名字が、不意にへにゃりと笑った。
わしゃわしゃと無遠慮に頭を撫でていたその手を、今度は髪を撫でつけるように丁寧に動かす。子どもをあやすような優しい撫で方だ。

「僕ね、デンジくんにはしあわせになってほしいんだ」
「は……?」

突然言われた言葉の意味がわからないのか、デンジは抵抗をやめて名字の顔を見た。
目を細めて、微笑みをたたえながら、落ち着いた声音で名字がつづける。

「おいしいものをたくさん食べて、たのしいことをたくさん経験して、わらっていてほしい」
「なんで、」

わけがわからないとでも言いたげに眉をひそめて、デンジが口を戦慄かせた。

「なんでアンタが、そんなこと思うんだよ」

そう聞かれて一瞬だけきょとんとした名字は、すぐに笑顔にもどって、軽く首を傾げる。というより、デンジの顔を覗き込んでいるように見えた。

「だって、僕、デンジくんのことすきだから」

ぎくり、とデンジの身体が強ばったと思ったら、次の瞬間には顔を真っ赤にして「な、」とか「ば、」とか意味のない音を口から溢れさせている。
こんなに真正面から好意を伝えられたことがなかったんだろうな。まあ名字の言う「すき」は、恋愛感情ではなさそうな気がするが。

「なんか、弟みたいだなあって」
「おとうと……」
「うん。ふふ」

複雑そうな表情を浮かべるデンジに気づいているのかいないのか、名字はおかしそうに笑みをこぼした。

「デンジくんは、僕をたすけてくれたヒーローでもあるんだよ」
「ヒーロー?」

聞きなれない言葉だったのか、デンジが片眉を上げて聞き返すと、名字は頭を撫でていた手をデンジの肩にまわしてにっこりと微笑む。
気づけば、デンジが嫌がらないのが不思議なほど2人の距離は近づいていた。俺はいったい何を見せられているんだ。
至近距離で目を合わせたまま、にこにこ笑顔を崩すことなく名字が口を開く。

「かっこいい人ってこと」
「かっこいいひと」
「そう」

言われた言葉を反芻するようにそのまま返すデンジに頷いた直後、突然名字がデンジの肩に額を押しつけるようにもたれかかった。電池が切れたロボットのような動きに驚いたのか、びくりと肩を揺らしたデンジが「おい?」と声をかけるが、動かない。

「おーい」

自分の肩に乗っている黒髪をぺしぺしと叩きつづけるデンジにいい加減やめとけと言おうとしたとき、名字の身体がずるりと滑り落ち、デンジの膝の上に着地した。
すぐに穏やかで規則的な呼吸が聞こえてきて、ああ、寝たのか、と少し安堵する。
結果的に膝枕をする状態になった当の本人は、眠っている名字の顔をまじまじ眺めながらぽつりと呟いた。

「……言い逃げはずりィだろ」

そういえばこいつ、途中からほぼオウム返しだったな。
名字にとってのデンジは、弟のような存在で、ヒーローで、かっこいい人。酔ってるせいか言ってることはぐちゃぐちゃだが、デンジにとっては悪い気のしない言葉だったようだ。
普段なら、男とくっついた瞬間に拒絶反応のごとく抵抗しているところだが、いまは自分の膝に乗っかっている名字の頭を嫌がることなく肉を食べ始めている。
こいつにとっても、名字は兄のような存在なんだろうか。いや、それはないな。


目を覚ますと、あたりは真っ暗だった。
ぎょっとしてすぐに身体を起こす。途端にずきりと痛む頭に思わずうめき声をあげると、近くで誰かが動く気配がして、ぱっと電気がついた。
早川家のリビングで眠っていたようだ。机の上にあったホットプレートはすでに片づけられていて、部屋には焼肉のにおいが少しだけ残っている。
頭を押さえながら記憶を呼び起こそうとしていると、後ろから肩を叩かれて、大袈裟なほど驚いた声が出てしまった。

「びっ、くりした……んな大声出すなよ」
「で、デンジくん? あ、ごめん僕、途中で寝ちゃってた……?」

どこか複雑そうな、何か言いたげな表情で頷いたデンジくんに、さっと血の気が引く。人の家にお邪魔しておいて酔いつぶれて寝るなんて、失礼にも程がある。
あわあわと目を泳がせる僕の隣に座ったデンジくんが、じっとこちらを見ているのに気づいて、僕もデンジくんの顔に視線を向けた。
ばちりと目が合って、すぐに逸らされる。若干ショックを受けながら、僕は恐る恐る口を開いた。

「もしかして僕、酔っ払って何かした?」
「あー……、覚えてねェなら、いい」

やっぱり何かやらかしたんだ……。自分の失態が申し訳ないやら恥ずかしいやらで、もうなんていうか穴があったら入るので誰か埋めてほしい。
じわじわと赤くなっていく顔を見られるのが耐えられなくて、膝を抱えて脚に顔をうずめる。
隣でデンジくんが息を吸い込む音が聞こえた。何か言おうとして、特に言葉を発することなく息を吐き出す。
そんな彼の行動を不思議に思って、ちらりとそちらに目をやると、デンジくんは少し、ほんの少しだけ顔を赤くして僕を見ていた。

「……アンタ、もう酒飲むなよ」
「はい……すみません……」

ごもっともなことを言われて、肩を落とす。年下の少年にみっともないところを見せてしまった。
もう酒は飲まない……絶対飲まない……。
若干涙目になりながら心のなかでそう唱えていると、デンジくんがおもむろにそっぽを向いて呟いた。

「今度はシラフのときに言えよな」

意味深なその言葉に目を見開く。
どういうことかと聞こうとしたときには彼はもう立ち上がっていて、そそくさとリビングを出ていってしまった。
いったい僕は何をやらかしたんだろうか。
酒ってこわい。酒の悪魔とかいたらどうしよう。絶対強い。こわい。
どうしてかなかなか頭から離れないデンジくんのあの表情に、きゅう、と心が苦しくなるのを感じながら、僕は強く誓った。
もう二度と、飲酒しない。





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