Re




返す言葉はもう決めた



一体なんの冗談だろうと思った。
背中に当たる壁がやけに冷たく感じて、鳥肌が立つ。
目の前に立つ彼が、私を閉じ込めるように壁に両手をついた。
壁ドン。少女漫画とかドラマとかでたまに見かけるシチュエーション。
漫画で読むだけなら胸キュンものだが、実際に体験すると、ちょっと、こわい。
私よりもずっと高い位置にある彼の顔をちらりと窺うと、普段通りの無表情で私を見下ろす目と視線がぶつかった。慌てて目を逸らす。
降谷暁くん。同じクラスだけれど、話したことはあまりない。
野球部でピッチャーとして活躍している彼のことはもちろん知っているけど、それは私が一方的に降谷くんを応援しているだけで、向こうは私のことなんて知らないはずだった。
なのにどうして、いま私は彼に壁ドンされているのか。
放課後の教室の、窓側の壁。窓もカーテンも閉まっているし、外から誰かに見られるとか、そういう困ったことはないと思う。
でも、この状況自体には少し困ってしまう。
どこかアンニュイな目でじっと私を見る降谷くんに、心臓が次々と血液を循環させていく。
肺循環と、体循環、だっけな。右心室から肺動脈へ、肺を通って左心房にかえってきた血液が左心室に行って、そこから大動脈へ。体をぐるりと巡って、大静脈から右心房へと流れて、そしてまた右心室。その繰り返し。
つい先日授業で習ったことを思い出して、必死に現実逃避をする。
それでも、鼓動ははやくなっていくばかりだ。
ぐるぐる、どくどく。絶え間なく血液を送り出し続けるこの音が、彼に聞こえてしまったりしないだろうか。
そう思えるほど、その場は静かだった。私も降谷くんも無言で、痛いほどの沈黙が場を支配している。
実際は何秒、何分……どれくらいの時間なのか、全然わからない。とても長い時間に感じるけど、本当はそんなに長くないのかもしれない。
そもそも、降谷くんの行動が謎すぎる。本当に。
今日は降谷くんと一緒に日直の日だった。
といっても、日直なんて授業のあとに黒板を消したり、日誌を書いたり、そんな簡単な仕事があるだけだ。今日も滞りなく終わるはず、だった。
そう、何も変わったことなんてない、普通の1日だったんだ。
私たち以外誰もいなくなった教室で、最後に日誌を書き終わった。
最初は降谷くんが返しに行くと言ってくれたんだけど、彼は部活があるだろうし早く行きたいだろうし、私が行くよって、そう言ったんだ。
窓側の降谷くんの席に置いてある日誌を手に取って、椅子から立ち上がって。返してくるから、部活行っていいよ、って、私はそう言った。
そのとき、自分の席に座っていた降谷くんが立ち上がって私の腕を掴み、そしてそのまま壁に押しつけた。両側に腕をついて、閉じ込められて。冒頭に戻る、というわけだ。
まったく意味がわからない。もしかして私は、彼を怒らせてしまったんだろうか。
無言のまま私を見下ろす降谷くんの顔が見られない。
斜め下に視線をずらして、日誌を持つ右手にぎゅっと力を入れる。じわりと、嫌な汗が浮かんだ。

「……名字さん」
「はっ?はい?」

突然降谷くんが声を出した。単調に呟かれた私の名前に、反射的に返事をする。が、声が裏返ってしまった。地味に恥ずかしい。
けど、「名字さん」の次に何か言葉が紡がれる気配はなくて、そっと、顔を上げて降谷くんを見る。
いつもと同じの、少し眠そうな切れ長の目が、熱を帯びているような気がする。
あれれと思っていると、ふと、降谷くんが息をはいた。妙に色気のあるその仕草に、改めて距離の近さを思い知って、心拍数が急上昇する。
やめてくれ。これ以上は高血圧でぶっ倒れてしまう。
どっくんどっくんと鳴る心臓に若干涙目になりながら、私はなんとか口を開いた。

「あの、えっと、ふ、降谷くん……?」
「はい」
「この、こ、これはいったい、」
「えっと、かべどん?」

次の曲を選ぶドン!というセリフが脳内再生されるようなイントネーションの壁ドンだった。いや、というか何故疑問形。
そもそも私は何故壁ドンという行動に至ったのかとそういうことが聞きたいのであってですね、その、ほら、こういうのは、心臓に悪いし。
と、言おうと思ってもなかなか声が出てきてくれない。どうしたらいいんだ。

「好きです」

頭のなかまで爆音で響く心臓の音を落ち着かせようと深呼吸していると、降谷くんがなんの脈略もなくそう言った。
一瞬何語を喋ったのかわからなくてぽかんとしてしまったけれど、すぐに脳が「好きです」と日本語に変換してくれた。もともと彼は日本語を喋っていたのだが。

「……はい?」
「つきあってください」
「いやいやいやちょ、ちょっと待って、え?」

あまりの急展開に脳内処理が追いつかなくなってきた。つまり降谷くんはいま、私に告白したのか、な?
いや、でも、ちがう、ちがうよね。これはきっと、私が何か勘違いをしているんだ。
ほら、よくあるじゃん。どこか一緒に行きましょうって意味で「つきあってください」って言ったのを、交際する方の「つきあってください」と勘違いしちゃった、みたいなやつ。
いまのこれも、そういうあれなんだよ。きっとそうだよ。
混乱しすぎて語彙力が低下し始めた頭でなんとか結論を出し、無言で私の言葉を待っている降谷くんと目を合わせる。

「つきあうって、どこに行けばいいのかな?」
「……?」
「あれ、」

降谷くんが首を傾げている。なんだかかわいい。
とか思ってるうちに彼は考え込むように目を伏せた。
あれ、なんだろう、おかしいな。私の考えが間違っていたんだろうか。

「僕は、名字さんが好きです」

そして、しっかり私と目を合わせたまま、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
相変わらずアンニュイさを感じる声色だけど、それはどこか緊張しているようにも聞こえて、鼓動がまた速さを増していく。
主語も動詞も目的語も欠けていない彼の言葉は、私から逃げ道をなくした。
ああ、どうして、どうしてだろう。

どうして、私の好きな人が、私に告白してくれているんだろう。

もしかしてこれは、何かの罰ゲーム、なんだろうか。
野球部の先輩たちに言われて、罰ゲームだから、仕方なく、なのかな。そうだったら、嫌、だなあ。
卑屈な思考は、どんどん頭を真っ白にする。なのに、そんな思考から生まれる言葉は容赦なく私の心臓を貫いて、痛い。
ああ、でもよかった。おかげで血圧も、心拍数も、下がっていく。

「嘘だよね?」

いやに冷たい頭のなかを整理して、言葉をはいた。思っていたよりも静かな声が転がりでて、少しだけ驚く。
真意がわからないとでも言いたげに眉をひそめる降谷くんから目を逸らして、私は続けた。

「ねえ、きっと罰ゲームか何かなんだよね?」

その言葉に、降谷くんが息を呑む気配がした。
壁と降谷くんに挟まれたまま、すごく近い距離にいる彼と目も合わせずに、日誌を胸に抱えて俯く。
頭のなかをぐるぐるとまわっていた考えが、ついに口をついた。

「本当は、ほんとは私のことなんて、なんとも思ってないんでしょ?だって、ねえ、降谷くんは、かっこよくて、野球部でも大活躍するピッチャーで、女の子にも人気で、私なんかが、降谷くんと一緒になっちゃダメなんだよ。だから、もう、いいよ。やめて、やめてよ」

だからもう、私を期待させるのはやめてよ。
全部言い切ったときには肩で息をしていた。
ただ、苦しくて、切なかった。

「僕、」

ふいに降谷くんがぽつりと呟く。俯いているせいで彼がどんな顔をしているのかはわからないけど、その声はとても優しかった。

「言葉で伝えるの、得意じゃなくて」

何をだろう。何を伝えるのかとその意味を考えていると、降谷くんが急に距離をつめた。
驚いて顔を上げる。ゆっくり迫る降谷くんの整った顔に、思わず持っていた日誌を落としてしまった。
腕を曲げて、ぐっと私に近づいて、顔と顔が、もう、びっくりするくらい近い。
固まっていると、降谷くんはごくりと固唾を呑んだ。ひょっとすると、彼も緊張しているのだろうか。

「僕、名字さんのことが好きだから、一緒にいたい、です」

耳元で、少しだけ震えた声で発せられたその言葉は、とても、とても甘く感じた。さっきとは違う感情で、頭が真っ白になる。
ああ、どうしよう。心臓がまた騒がしくなってきた。

「……本当?」
「嘘つくのは、苦手」
「そっか」

私がまた俯くと、降谷くんはそわそわと、落ち着きなく私の返事を待つ。
聴覚を支配する心臓の音を落ち着かせるために、深く息を吸って、はいた。
そして、意を決して顔を上げ、降谷くんと目を合わせる。

「降谷くん」
「うん」
「好きだよ」
「うん」

背中に彼の腕がまわった。ぎゅっと抱きしめられて、爆発しそうなほど体が熱くなる。
おそるおそる、私も降谷くんの広い背中に手をそえた。

「名字さん、」
「ん?」
「好き」

私の首元に顔を埋めたまま、囁かれる。
くすぐったくて嬉しくて、幸せな感情で胸がいっぱいになるのを感じながら、私は目を閉じた。




- ナノ -