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あの場所できみとひとりきりになる1



建ち並ぶ工場、重く低い機械の音、空を覆う黒い煙。
ずっとまっくらなこの世界では、星空さえ見えやしない。
私に何も見せてくれないこの町が、私を傷つけるあの家が、ずっとずっと、大嫌いだった。


私はこの世界が嫌いだ。
古く狭い家に、ろくでもない両親と、贅沢なんてする余裕もない暮らし。少しでも生活費を稼ぐため、私は放課後をめいっぱい使ってバイトばかりしている。
私の人生は、ずっとまっくらだ。おかげで性格もひどくひねくれてしまった。
そんな私も、唯一、本だけは好きだった。稼いだお金はほぼ全て生活費へと消えていくので、新品の本を買うなんてことはできない。この本たちは、数あるバイト先のひとつである古本屋の店主さんが、良かったらどうぞと譲ってくれたものだ。
夜、バイトが終わったあと、親の機嫌が悪かったりして帰るのが億劫な日は、家から少し離れた場所にある私の「秘密基地」に行く。小説も絵本も図鑑も漫画も、私を傷つけたりしない。偶然見つけた廃小屋のなかでランプをつけて、私以外誰もいない空間で、ただ本を読む。その時間だけが、ゴミみたいな人生を歩む私を元気づけてくれた。
ここ、螢光町では、工場から出るまっ黒な煙のせいで、星が全然見えない。けど、町の外に行けば、もっと綺麗な夜空が見られるんじゃないか。そう考えるようになったのは、一つの小説がきっかけだった。
とある施設で奴隷として虐げられる生活のなか、外の世界の存在を知った主人公の少年が、仲間と共に脱獄しようとする。そんな物語。少年たちは、作戦を練り、慎重に準備を重ね、何ヶ月もかけて完璧な脱獄計画を企てた。
その結末は、……実は、まだ知らない。終盤のページが破れていたり、汚れて文字が滲んだりしていて読めないのだ。
でもきっと、彼らは外の世界に行けたんだ。私はそう信じている。


ぶつぶつと呟くような母親の低い声で、私は浅い眠りから覚めた。少し霞む目をこすり、時計を見上げる。まだ余裕で寝ていられる時間だ。……勘弁してくれ。
昼から夜中まで働いている母親は、たまに残業で帰るのが遅れて、早朝に帰ってくることがある。そんな日はいつも、父や勤め先、そして私への愚痴をぶつくさ言いながら寝るのだ。昔から眠りが浅い私は、そんな呟き声でも目が覚めてしまうから、正直、やめてほしい。
そう彼女に言ったところで逆ギレされるのがオチなので、もう何も言わないけれど。
十数分ほど寝たフリを続けていると、母親の声は途絶えた。眠ったようだ。私は完全に目が覚めてしまった。仕方ない。もう起きて支度をしよう。
起き上がって制服に着替え、寝室から出る。ぎしぎしときしむ廊下をできる限り静かに歩いて、居間のドアを開けた。途端に、酒と煙草のにおいが鼻を刺す。
あちらこちらに酒瓶が転がっていて、吸殻が灰皿の上に山を作っていた。あの親父、朝から飲んでやがるのか。
父親への軽蔑を深めたと同時に、うしろのドアが大きな音をたてて開いた。

「わっ、」
「あ? なんだ、もう起きてきたのかよ」

驚いて声をあげた私を見下ろし、父親は煙草をふかして卓袱台の前に座った。居間での喫煙は禁止になっているはずだ。すぐそこに台所もあるし、においやヤニがつくと面倒だからって、母がそう約束させたはずなのに。

「……あの、父さん」

私も、服や家具ににおいが染み込むのは嫌だ。父親はくわえていた煙草を灰皿に押しつけ、また新しいものに火をつける。

「煙草、ここで吸うのはやめて、ほしい」

語尾が小さくなってしまった。彼と目を合わせるのがこわくて、すっと視線を斜め下にずらす。煙を吐き出したあと、ぎろりとこちらを睨みながら父親が口を開いた。

「俺がどこで吸おうが勝手だろうが」
「でも、その、ここは共同のスペースだから、吸うなら父さんの部屋か、外で……」
「なんだてめえ、俺に指図すんのか!」

卓袱台が強く叩かれ、その音に肩がびくりと跳ねる。しまった。彼に注意なんかしても、母親と一緒だ。逆ギレされるに決まってるのに、私はなんて愚かなんだ。
苛立ちを表すように煙草を灰皿にねじ込んで、こちらに近づいてくる父親から逃げたい、逃げなくてはと思うのに、足が動かない。がたがたと手が震え、心臓は一気に鼓動をはやめる。
すぐ目の前にいる父親がおそろしくて、せめて目が合わないように顔を下げた。頭の上で舌打ちが聞こえた瞬間、髪を掴まれて無理矢理顔を上げさせられる。

「いっ、痛い、はなして!」

引きちぎるつもりなのかってくらい強く引っぱられて、思わず大きな声が出る。痛みと、なんとも言えない不快感に父親を睨み上げた。私の目を見た父親は、不愉快だとでも言うように顔を歪める。

「なんだァその目つきは。人を害虫でも見るような目で睨みやがって。父親には敬意を払うもんだろうがァ!」

髪を掴んでいた手が、今度は私の胸ぐらを引っぱり上げる。そのまま彼は逆の手を振り上げて、殴られると思った私は咄嗟に顔を手で隠した。
鈍い音がしたのと同時に、手のひらから手首にかけて痛みが走る。殴られた勢いで横に倒れた私の上に馬乗りになった父親が、卓袱台の上に手を伸ばして煙草とライターを取り、火をつけた。片手で私の頭を固定し、煙草の先をゆっくり、ゆっくりと顔に近づけてくる。

「まっ、て、やめて、やだ」
「そのムカつく目ェ使えなくしてやる!」

父親の目は血走っていて、私の声は聞こえていないようだった。いやだ。こんなの、痛いじゃ済まない。いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!
少しだけ揺れた右手に、転がっていた空の酒瓶が当たる。そのままそれを掴んで、思いっきり父親の頭を殴った。
うめき声をあげて倒れた父親の下から這い出て、すぐに私は家から逃げ出した。肺が焼けるように痛くなっても、脚が鉛のように重くなっても、走って走って、ようやくたどり着いた秘密基地のドアを開けてその中に飛び込む。後ろ手でドアを閉めた途端、足の力が抜けてその場にへたりこんだ。
酸素不足でぼーっとしていると、目から涙がこぼれ始めた。急に溢れたそれを止める方法なんてわからなくて、私はただ嗚咽を噛み殺す。
なんで、どうして私ばかりこんな目に遭うの。同じクラスの能天気な奴らも、バイト先のクズみたいな先輩たちも、みんなしあわせそうに笑ってるのに。私は、もう、そんな余裕ないよ。こんなに苦しいのに、笑うなんてできないよ!
声をあげないように歯を食いしばって、流れつづける涙もそのままに私は泣いた。何が悲しいのか、何を恐れているのか、何に苦しんでいるのか、何もわからなかった。


遠くで笛の音が聞こえた気がして、はっと目を覚ます。埃だらけの窓の外はもう夜になっていた。バイトは珍しく休みだけど、学校をサボってしまった。
若干の焦りを覚えながら身体を起こし、小屋のドアを開けて一歩外に出る。街灯が壊れているのか、辺りはまっくらだ。
帰らなきゃ、そう考えると、異物を飲み込んだみたいに気分が悪くなった。
そのとき、どこからか声が聞こえてきた。いや、声というより、……歌?

「ミカン、電線、富士山、」

軽やかで、どこか楽しそうなその歌声がゆっくり近づいてくる。

「スプーン、木材、鎖骨、ゼラチン、」

やがて、暗闇の向こうから、黒い学生服を着た少年が現れた。歳はおそらく、私と同じくらい。

「ゼラ」

それは、とてもうつくしい人だった。

「……ん?」

少年は私と、私のうしろに建つ廃小屋に気づいたようだ。彼の目が動いて、ボロボロの小屋を見つめる。それからまっ黒の瞳に私を映すと、彼は軽く首を傾げた。
底が見えない黒く深い海みたいな、何か得体の知れないものが潜んでいるような、そんな瞳がなんだかこわくて、私は少年から目をそらす。

「ねえ」

気づけば、目と鼻の先に彼の綺麗な顔があった。喉まで上がってきた悲鳴をなんとか堪えて、私はうしろに下がろうと足を動かした。けど、すぐに背中に何かがあたる。ドアだった。小屋のドアがいつの間にか閉まっていたのだ。
そのとき、近くにあった街灯がぱちぱちと音をたてて点滅し、明かりが点いた。眩しさに閉じてしまった目を、すぐに開ける。光に映し出された少年はやはり美しい顔立ちをしていて、その頬や学生服には赤い血が飛び散っていた。
え、……血?

「どうしたの?顔、まっ青だよ」

そう言って、彼は私に手を伸ばす。その手にも血がべっとりと付着していて、今度こそ私は悲鳴をあげた。
私の声にぴたりと腕を止めた少年をよく見ると、彼の学生服は上も下もほとんど血で汚れていた。それが彼自身の血でも、他人の血でも、大問題だ。
足が震えて立っていられなくなって、私はうしろのドアに背中を預け、そのままずるずると座り込んだ。

「きゃは。びっくりしちゃった?」

少年はその場にしゃがんで私と目を合わせる。そして綺麗に笑って、血のついた手で私の頬を撫でた。ぞっと背筋が冷える。

「は、はなして、」
「ねえ、きみ顔色悪いよ」

血に染まった少年が目の前にいて、しかも自分の頬を撫でられているというこの状況では、誰でも顔を青くすると思う。

「電気がつく前から、幽霊かなって思うぐらいだった」
「……え、」

あんなにまっくらだったのに、人の顔色なんて見えたのか。
というか私は、顔がまっ青になるほど、家に帰るのが嫌なのか。

「でも、さわれるから、幽霊じゃないんだね」

どこか嬉しそうな声音で言って、また笑みを浮かべる。頬から手をはなして、彼は私の隣に座りなおした。

「ねえ、こんなところで何してるの?家出?」

自分の服についている血なんて気にもとめずに話しかけてくる少年がおそろしくて、数秒沈黙が生まれる。ああでも、なんかもうどうでもいいや。たとえ今日彼に殺されたって構わない。そう思えてしまうほどに、私はきっと、疲れていた。

「……そんな感じ、かな」
「親と喧嘩でもしたの?」
「喧嘩、というか、逃げてきたというか」
「へえ、じゃあ家が嫌いなんだね」
「大嫌い」

自分でも驚くほど低い声がでた。一瞬だけ目を丸くした少年は、すぐににやりと目を細める。

「この町も、あの家も、大嫌い」
「どうして?」
「この世界は、私に何も見せてくれないから。星空を、見せてくれないから」
「星?」

怪訝そうな彼の声に、私は頷きを返す。
綺麗な星空が見てみたい。黒い空にキラキラと浮かぶ星を昔絵本で見て、私はそれが大好きになった。美しい世界を夢見る少年が登場する小説を読んで、私もそれに憧れた。だから私も、星空を、満天の星空を見てみたい。
そう伝えると、少年は楽しげに笑う。隣を見たらまっすぐな瞳と目が合って、ドキリと胸が高鳴った。

「憧れを持つのは、悪いことじゃないよ」

微笑みながら言われたその言葉に、少し動揺する。正直、バカにされると思っていた。中学生にもなって、絵本や小説に影響を受けて、しかも星を夢見ているなんて、引かれるだろうと。

「きみ、名前はなんていうの?」
「……名前。君は?」
「僕は、ジャイボ」
「変わった名前だね」
「まあね」

今さら自己紹介なんて、おかしいね。そう言って無邪気に笑う少年、ジャイボに対する恐怖は、いつの間にか少しだけ和らいでいた。

「ねえ、さっき言ってた小説ってどんな話?」
「ああ、えっと──」

それから、彼は私のことや私の好きなものについて沢山聞いてきて、私は答えられる限りの質問に答えた。
夜が更け、時間が過ぎていくと、ジャイボの血塗れの格好にも慣れ、気にならなくなってくる。けれど、私をじっと見つめるほの暗い瞳だけは、ずっとこわかった。


翌日、小屋の中で目が覚めるともう昼過ぎで、ジャイボはどこにもいなかった。学校は諦め、古本屋のバイトへ向かう。
本の陳列、レジ打ち、在庫整理。いつも通りに業務をこなしていく。
その、あまりにも普通な日常に、昨夜の出来事が全部夢だったんじゃないかとさえ思った。そうしているうちに、何事もなく閉店時間になった。
今日も秘密基地で過ごそうか。そんなことを考えながら少ない荷物を整理していると、店主さんが声をかけてきた。

「名字さん、昨日から家に帰ってない、っていうのは本当かい?」
「……え?」

頭の中が一瞬でまっ白になる。なのに心はどんどん黒く暗くなっていって、鉛でも詰められたみたいにずしりと重たい。
私の顔がこわばったのを見て確信したのか、店主さんは少し悲しそうな表情で話しだす。

「今朝、君のご両親が訪ねてきてね。昨日の朝に家を出たっきり戻ってこない、って」
「……」

連れ戻しに、来たんだ。またあそこに帰らされる。いやだ。それは嫌だ。

「帰りたく、ないんです」

思ったより弱々しい声が出た。目の前が滲み始めて、揺らぐ視界の中に、驚いた顔の店主さんが映る。瞬きをすると、涙が流れた。ああ、どうしよう、店主さんを困らせてしまう。
どうやら私は自分で思っているより、あの家が嫌いらしい。

「事情はわからないけど、君の意思で帰らないと意味がないと思ったから、ご両親には何も言ってないよ。君が今日ここに来ることも」

手の甲で涙を拭う。私を気遣うように落ち着いた声音で喋っていた店主さんは、「でも」と少しだけ口調を強くする。それでもまっすぐ私の目を見て、苦しくなるほど優しい声で、彼は言葉を紡いだ。

「親御さんの気持ちも考えてあげなさい。理解はできなくてもいいから、その努力はするべきだ」


秘密基地。私が勝手にそう呼んでいる廃小屋のドアの前に、ジャイボが立っていた。私に気がつくと、ひらりと手を振る。今日は血塗れではないようだ。
昨日からやけに調子がいい街灯に照らされているジャイボがにっこりと笑う。

「今日も来ると思ったよ」

言いながら、勝手知ったる風にドアを開けて、ジャイボが私の手を取って小屋に入る。私は入り口の段差に躓きそうになりながら、引っぱられるままに彼に続いた。
そのまま奥に置いてある小さな本棚まで行くと、ジャイボはそこに並べられた本たちの前にしゃがんで、私を見上げる。
あ、また、その目。どす黒い何かが、渦をまくように彼の綺麗な瞳を覆っている。

「名前、昨日言ってた小説ってどれ?」
「ここにはないんだ。家に置いてある」
「なんだ。借りようと思ってたのに」
「なら、明日取りに帰るよ」

そう言うと、ジャイボは驚いたような顔をして、またすぐにいつもの笑顔を浮かべた。

「家、嫌いなんじゃなかったの?」
「誰もいない時間を狙えば、大丈夫」
「……ふーん」

ジャイボは一旦私から視線を逸らし、無言で前方を見つめる。そしてまた私を見て、口を開いた。

「じゃあ、お願いしよっかな」
「……、うん」

その目が、どこか不気味で、こわかった。
震え出した足をごまかすために、私はしゃがみこむジャイボから人ひとり分あけて隣に座る。ジャイボも足をなげだすようにその場に座りなおした。

「名前はさ、これからどうするの?」

真正面をぼんやりと見つめながらジャイボはそう言った。
これから、どうするか。私はどうしたいんだろう。このままずっとこの小屋で暮らすわけにはいかない。でも、家には帰りたくない。

「私は、……」

どうしたいか、なんてわからない。ただ、私は。

「私は、この世界が嫌い」

前を向いていたジャイボの目がこちらを見た。心の中に潜む憎しみを吐き出すように、私は続ける。

「働きもせずに酒とタバコに耽溺して、気に入らないことがあるとすぐに私を殴る父親なんて、消えてしまえと思うし」

ジャイボは黙ったまま。ただ、彼の暗い瞳だけが静かに私をとらえていた。

「愚痴ばかり吐いて、自分の娘とまともに接することができない母親も、いなくなればいいと思う」

隣で、ジャイボが笑った。ひどく楽しそうに、愉快そうに、嬉しそうに。「けど、」私がそう繋げると笑い声が止まり、ジャイボは不思議そうに私を見る。

「私、本当に彼らのことが嫌いなのかな」
「……どういうこと?」
「私は家に帰りたくない。なのに、私がいない世界で両親が何も変わらず生きていくのは、嫌なの」

もしそうなら、私の存在が最初からなかったみたいじゃないか。悩んで苦しんで足掻いて生きてきた私の人生なんて、何の意味もなかったと、そういうことじゃないか。
あ、わかった。きっと、

「私は、愛されたいんだ」

そう言った途端、ジャイボが息を呑んだ。ぐっと距離を詰めて私の肩を押して、あっという間に組み敷かれて、彼の黒い制帽がぱさりと落ちる。古びた木目の天井とジャイボの美しい顔が、視界に映る全てだった。

「愛されたい、だって?じゃあ聞くけど、きみは誰かを愛したことがある?」
「……ないよ」
「だろうね。誰のことも愛せないきみは、誰からも愛されない」

珍しく焦っているような表情で、ジャイボは私の目を見る。
相変わらず彼の瞳がこわくて視線を横にずらすと、ジャイボの手が私の顔に伸びて、頬をするりと撫でた。意外と男の子らしい、少し骨ばった手。

「愛されたいなら、僕のことを愛せばいい」

その言葉に驚いて、そらしていた目を前に戻した。ばちりと絡んだ視線に、彼は恍惚の笑みを浮かべる。

「僕、けっこうきみのこと気に入ってるんだよ」

ジャイボが腕を曲げて、ゆっくりと距離が縮まっていく。艶やかな黒髪が私の顔を掠めて、目の前の長いまつげが震える。彼が目を閉じるのを、私は呆然と見つめていた。
誰のことも愛せない私は、誰からも愛されない。君を愛することができたら、私は、君から愛してもらえるの?
唇に柔らかい感触がして、私は静かに目を閉じた。


瞼を透過する眩しさに、ゆっくりと目を開ける。隣で眠っていたジャイボはいつの間にか姿を消していた。安物の腕時計で時間を確認して、身を起こす。
いまの時間なら、家に誰もいないはず。ジャイボに頼まれた小説を取りに、一度だけ帰ろう。
やけに重い足を引きずるように動かして、家までの道を歩く。そう言えば、家を出たあの日から何も食べてない。おなかすいたな。
しばらくぼんやりと歩いて、気づくと家の前にいた。玄関の鍵は開いてないだろうから、寝室の窓から入ろう。
掃き出し窓から部屋に入り、とりあえず何か食べようと廊下に出て、居間へ向かう。本は後で取りに行こう。
ぎし。床が嫌な音をたてたそのとき、居間のドアが勢いよく開き、母親が飛び出してきた。
驚いて硬直している間に、父親も廊下に出てくる。うそ、まさか二人揃って家にいるなんて。私はすぐに方向転換して玄関へ走ろうとしたが、腕を掴まれる。いやだ、また殴られるのはいやだ!

「はなして!」
「名前、お願い!行かないで!」

母のその声があまりにも悲痛で、私は足を止めて両親の方を見る。ああ、ちゃんと顔を見るの、何年ぶりだろう。彼らは泣きそうな、けれどどこか安心したような表情で私を見ていた。

「すまなかった」

怒鳴られると思っていた私の予想を裏切り、父がそう言う。ぎょっとしていると、母もその場に膝をついて頭を下げた。

「今まで、たくさん傷つけて、苦しめてしまっていた。あなたがいなくなって、ようやく気づけたの」

私の両手をぎゅっと握って、少しやつれた顔で私を見上げて、母は涙を流す。

「本当にごめんなさい。許してもらえるなんて思ってないけれど、一緒にいたいの。名前がいない世界なんて、嫌なのよ」

ふざけるな屑が、今さら何を言う、許すわけないだろ、って、これでもかと罵ってやろうと開けた口からは何も音が出てこない。私は、この家が、親が嫌い、なはずだったのに。
黙ったままの私を見て何を思ったのかはわからないが、父親も床に膝をついて、私の目を見ながら口を開いた。

「お前には、俺達を憎む権利がある。憎まれてもいい。それでも俺達はお前にしてきたことを、一生かけて償うから。だからもう、いなくならないでくれ」

消え入りそうな声でそう言われ、頭の中がぐしゃぐしゃになっていく。
私が消えたこの数日、両親がどんな会話をして、どんなことを考えたのか、私は知らない。

「ねえ、……父さんは、母さんは、私を愛してくれる?」

かくんと足の力が抜けて座り込む。心臓が握り潰されるみたいに胸が、心が苦しかった。情けない顔を見られたくなくて、俯いて顔を隠す。
誰かに愛されたければ、誰かを愛せなければならない。なら、私は誰かに愛してもらえれば、誰かを愛せるから。ねえ、お願い。誰か私を、愛して。

「バカねえ、」

母の呆れたような涙声。今まで、私を口汚く罵る耳障りな声や、愚痴を垂れ流す低い声しか知らなかった。
父が遠慮がちに私の頭を撫でる。今まで、馬鹿みたいに酒を呷る手や、私を殴るおそろしい手しか知らなかった。

「当たり前でしょう」

頬を涙が伝って、私は子どもみたいに声をあげて泣いた。ああ、本当にバカだ。こんなことで彼らに絆されるなんて。いや、ちがう。私を抱きしめてくれる暖かい手も、柔らかい声も、ちゃんと昔からあったんだ。私が気づこうとしなかっただけだ。
この世界の美しさに、やっと気づけた。それはきっと、愛がなければ見えないのだろう。


夜になり、両親が眠った頃、私は秘密基地への道を進んでいた。早く、ジャイボに会いたい。
やがて、街灯に照らされた古小屋が見えてくる。ジャイボはまだいないのか、それとも今日は来ないのか、姿が見えない。
明かりの近くまで歩き、ドアの前で足を止める。暗闇を振り向くと、誰かが立っていた。
黒い制服を着たその人がゆっくり足を動かす。街灯の明かりが届く所まで来て、ようやく彼がジャイボだと気づいた。

「今日は早いんだね」
「うん、君に会いたかったんだ」
「ふうん?」

鞄から本を取り出して、私の正面に立つジャイボに差し出す。タイトルさえ掠れて読めないその小説を見て、彼は少し頬を緩めた。

「大丈夫だった?」

彼のその質問がやや言葉足らずなのをいいことに、私はその意味を勝手に解釈して、親と会わずに帰れたか、って意味だと思って、首を横に振る。本に向けられていたジャイボの瞳が、上目がちに私を映した。

「でも、両親と会って、色んな話をしたよ。私、この町も、あの家も、好きになれそうなんだ」

私の言葉に顔を上げたジャイボは、弧を描いていた口元を真一文字にして、今までよりずっと暗い瞳で私を見る。
ぞくり、心臓が凍りついた。
背中をいやな汗が伝って、手元から本が滑り落ちる。
目の前の彼が、こわい。表現しえない恐怖に、手足が震え始めた。

「きゃは、」

特徴的なジャイボの笑い声がやけに耳に響く。気づくと彼は笑顔を浮かべていた。それがとても美しくて、艶めかしくて、でもどこか、寂しそうで。思わず見惚れる私の背中に腕を回して、彼は首元に顔を埋めるように抱きついてきた。

「きみ、もういらないや」

背中に回されていた腕が動いた次の瞬間、腹部に衝撃がはしった。ジャイボがすっと離れて、その手に握られているのは、赤く染まったナイフ。下を見ると、足元の本に、ぼたぼたと血が滴り落ちていた。

──刺された?

そう認識した途端、信じられないほどの痛みが襲ってきた。手でお腹を押さえ、崩れ落ちるように膝をつく。呼吸するのも苦しくて、私はそのまま横に倒れた。
浅い息を繰り返していくうちに、意識が遠くなっていく。目を動かしてジャイボを見ると、嬉しそうでどこかいじわるな笑みを浮かべながら、彼は私を見下ろしていた。
その時、街灯の明かりが消えて、辺りは一瞬でまっくらになった。
朦朧とした意識の中、キラキラしたものが目に入ってきて、空を見る。

「あ、」

星空だ。私が思い描いた満天の星空より随分薄暗くて霞んでいるけれど、眼前に広がる世界は、確かに美しかった。
やっとこの美しさに気づけたのに、やっとこの世界を好きになれたのに。
やっと、誰かを愛することができそうだったのに。
ああ、

生きたかった──




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